ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー
序/六花に烟る
しんしんと降りやまぬ雪は、悔恨に似ていた。
一歩、また一歩と踏み出す足取りは重く、今にも崩折れ、蹲ってしまいそうになる。先の戦で負った傷がそうさせるのではないことを、錦えもんは痛いほどにわかっていた。体に負った傷は、生きてさえいればいつかは瘡蓋になる――そも、こんなものは痒みでしかない。
ただひとりの主君が、散っていった同心たちが、踏み躙られてきた無辜の民が。生きたくとも生きられなかった明日を生きているのだから。
生き残ってしまったことを悔いるなど、どれほど愚かしく傲慢な振る舞いかを理解している。
何ひとつ喪わずに勝てる戦ではないと、戦端を開く前から明らかだった。同志たちと共に散る覚悟はあった。真っ先に死ぬのは自分だと思っていた。死ななければいけないとすら思っていた。それが――終わってみれば、どうだ。何度も何度も、この身は守られ、生かされた。半ば事故のように表舞台へと引きずり出し巻き込んでしまった、それでも最後まで優しかったアシュラに。遠く海向こうから帰還し、ようやくたった一人の肉親と明日を生きていけるはずだったイゾウに。
果てのないように思える石段の先には、彼らの遺体を安置した精舎がある。燃え落ちた城の跡地から回収したときには炎に焼かれ、水に押し流され――アシュラに至っては顔も判別しようがなかったが。その惨憺たる有様を、戦後処理や怪我の予後不良といった事情で捜索と検分に立ち会えなかった者たちには先ほど伝えたばかりだった。随分と遅くなってしまったが、今夜には埋葬せねばならないだろう。いかに鈴後が寒冷な土地といえど、とうに生命活動を終えた肉体の腐敗を防ぎ切ることは不可能なのだから。
どれほど悔しく、悲しくとも――共に嘆き、泣いて、そうして最後には笑って、見送ってやらねば。
何度も膝を付きそうになりながらも精舎へと続く石段を錦えもんは登りきった。
本殿には彼らの生前用いていた武器を保管している。遺体は、二十年前まで墓守の詰所だった――度重なる騒乱と百獣海賊団による支配で今は無人となった――長屋に安置されていた。
僅かに開いた戸の隙間で、仄青い光が揺らめく。それは遺体の腐敗を少しでも遅らせるためにと点されていた、マルコの能力による炎だった。鬼ヶ島から二人が運び出されて以降、彼自身の怪我の治療も後回しに、マルコはずっとここに詰めていた。せめて寝食は疎かにするなという、臨時の医療チームを統括するトラファルガー・ローの苦言もおそらく届いてはいまい。彼の身を案じる言葉を、真にその心に届かせることのできる人間はもうこの国には存在しない――まさにその眼前で、物言わぬ骸となっている。
もうよいのだと、今夜には死者たちを埋葬するのだと伝えるため錦えもんは鈴後を訪れた。いつまでもその厚意に甘えて、文字通り命を削らせるわけにはいかない。どのような顔をして伝えればよいのかと胃の腑に重苦しさを抱えながらも口を開こうとした、そのとき、声が聞こえた。
「……花は あえかに 月夜にみちて」
――それは、歌だった。
公用語ではなく、喪われた旧い言語の子守唄。おそらくは誰も正しい詞を伝え聞いてはおらず、家により、地域によりさまざまに変容してはいるものの、ワノ国に生まれた者ならば誰もが知っている歌だ。
金糸雀色の髪を持つ外つ国の男が、それを辿々しく歌っている。
横たわる亡骸の傍らに腰を下ろし、涙に濡れ掠れた声で。
死を永遠の眠りと呼ぶのならば、確かにそれは手向けの歌なのだろう。或いは祈りと言うべきか。
「すべての 子らよ 海に ねむれ……」
よかったと、その歌を聴いて思ってしまった。
こんなにも悼んでくれる友が海向こうにもいたのなら、イゾウも浮かばれるだろうと。
――しかし、どこか、何かが釈然としない。その歌声は友を悼むというには、あまりにも。それだけではない悲哀を湛えているような、そんな気がしたのだ。
「もう、話すこともなくなっちまったな……」
今度は歌ではなく、語りかける声が聞こえた。
「……こんな力、何の役にも立たねえって思ってたけど。これのおかげで、こんなに沢山時間をもらえた。お前の傍にいられた。それだけは、感謝してるよい」
これ以上聞いてはならぬと、この先は彼らだけの秘密であるべきだと、直感が告げている。しかし踵を返そうとした時にはもう、続く言葉が紡がれていた。
「なあ……ちゃんと、全部故郷の人たちに返すから。おれのことなんざ忘れてくれていいし、待たなくていいから。ずっと……好きでいても、いいか」
目を凝らす。薄闇の中、青い炎を纏った男の手が故人の頬を撫ぜる。
「愛してる……」
愛していると、重ねて告げる。宝物のように、祈るように――しかしひどく苦しげにイゾウの名を口にする。
震えるその声は、まるで沙汰を待つ罪人のようだった。
錦えもんは愕然とした。そうして数瞬前、己が抱いた安堵を恥じた。
過ぎ去った感傷でなく、今なおそこに在るのだと吐露された想いが親愛の情でないことくらい、如何に察しが悪くともわかる。それは番を喪い途方に暮れる者の姿だ。己が鶴をそうさせるかもしれなかった、悲しき帰結だ。
「だから、もう……。もう二度と、おれなんかのところに、落ちてくるなよ……」
そんな悲しいことを言ってくれるなと叫びたかった。
しかし己がそのような立場にないことを、錦えもんは正しく自覚していた。自分たちがいるから、彼は弁え身を引いた。盗み聞きを気取られる前に立ち去るのがせめてもの礼儀だろう。来た道を引き返し、石段の半ばで項垂れる。
「罪な男め……いや、そうさせたのは我らか……」
どれくらいの間そうしていただろう。
遠くから手を降る河松と、そこへ駆け寄る狐の姿に気づくまで、錦えもんはその場を動けずにいた。
「形見分けを――」
戦死者たちの弔いについて取りまとめる中、切り出した。無論、事前に血縁である菊之丞からの打診があってのことである。その意向を伝えることが、今生きて、立って歩くことのできる自身に果たせるせめてもの償いだと錦えもんは思っていた。
誰が斃れてもおかしくなかった戦場で、自分だけが仲間を死なせた原因であるなどと傲慢な悲嘆に暮れたりはしない。逆に己が万全であったなら誰も死なせなかったと驕るつもりもない。
しかし己の言葉が、弱さがイゾウを死へと追い立てた要因のひとつなのは、紛れもない事実であろう。
討ち入りの直前、死に場所はここでいいのかと錦えもんが問うたのを、空でマルコも聞いていたはずだ。あの男が是と答えるのも。どんな思いで聞いていたのか、暴くつもりもその資格もないが――せめて。髪の一房、骨の一片、或いは銃の片割れでも連れ帰ってくれたなら。それが一匙の救いとなればいいと思った。
鈴後における弔いの習わしを考慮すれば、本来このようなことを申し出るべきではないとわかっている。しかしイゾウの帰るべき場所はきっと、この国だけではなかった。あの日九里の浜に打ち上げられた海賊船にもかけがえのない居場所があり、主君が再び見ることは叶わなかった冒険の海で幸せを得たからこそ、戻ってきて戦列に加わってくれたのだと今ならばわかる。
帰るべき場所があり、守りたい人がいた。それでも死すら厭わず戦って、戦って生き抜いた――生者の勝手な願望に過ぎないとしても、そうであったと信じたかった。
「…………」
決して短くはない時をその場所で共に生きた目の前の男は、何かを堪えるようにその瞳を揺らめかせ、静かに降り積もりゆく雪を見下ろしている。九里の浜で遠目に見た少年の面影は確かにそこにある。しかしイヌアラシたちにせがまれ外海のことを語っていた、あのときの快活な笑みは二度と戻らないのだろうと予感させる、そんな面持ちだった。
「……いや、気遣わせてすまねえ」
やがておもむろに、マルコは首を振った。
「大丈夫だ……おれは――おれたちは、イゾウが生きてる間の時間を充分すぎるほど、もらってる」
「しかし……!」
「鈴後の弔いの風習も、あいつに聞いて知ってる。どうかもう……これ以上あいつを、減らさないでやってくれ……」
顔を覆う幻影の翼の、揺らめく炎の隙間からこぼれ落ちた雫が降雪へと吸い込まれて溶け消える。
――そうだ。わかっていたじゃないか。
彼の心に言葉を届かせることのできる人間は、もうこの国にいないのだと。
墓標となるべき得物を、触れれば壊れてしまいそうだった亡骸を損ないたくないと涙するその肩を抱いて、気にしなくていいと、連れ帰ってくれと言える者がいるとしたら――それはいなくなってしまった当人だけだ。
「……わかった。それで、よいのだな」
「勿論だよい」
朱が差した目尻を羽根が拭う。今にもこぼれ落ちそうだった涙ごと、跡形もなく腫れが掻き消える。
「故郷の土が一番! きっとイゾウも、そう思ってる……」
それは、死出の旅路へと踏み出した者たちが最後に残したのと同じ、どこか遠くを見据えた笑みだった。凪いだ海のように、終わりゆくさだめを受け容れた穏やかさを湛えていた。
呆然とするうちに、遥か上空へとまぼろしの鳥は飛翔していた。やがてその姿は降り止まぬ雪に隠され見えなくなる。
もう二度と会うことはないだろう客人(まれびと)を、とめどない後悔と共に錦えもんは見送った。
寄せては返す波の音が、遠い記憶の片隅で残響する――……。