ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー

1/君の還る海にもなれない




「……それはお前が、無茶して死にかけていい理由になるのか。治せるからって痛みを感じないわけじゃないだろ」
 初めは淡い思慕だった。
 同い年で、兄弟というよりは友達で、ふとした時に自分に注がれるまなざしがどこか切なげで――その意味を察せないほど子どもではなくて。優しさや芯の強さを好ましく思う気持ちの、恋情との境がいつからかわからなくなっていた。
 彼のいっとう大切なひとが命を奪われて、目を離せばひとりで無理筋の仇討ちをしかねなかった、いつかの夜に。そうさせたくないと強く思った。一緒に死んでやると、本心から口にした。
「だったら……おれが守ってやる。お前が自分で、自分のことを大切にできないって言うなら――……」
 そうして、互いが特別になって――いつしか父と慕ったひとの背中の次に、安心できる居場所がそこにあった。けれどこの身に宿した悪魔は真実化け物のようで。誰を喪おうとも目が覚めるたび悲しみごと摩耗して、体は勝手に、ただ生きるためだけに生きようとしてきた。そんな人でなしが止まり木としてよい存在ではないと、初めから全部わかっていたのに――……。
 ――ドンッ!と重い銃声が二発、続け様に鼓膜を震わす。白日夢から引き揚げられた意識の端でその音を捉えた時には、マルコの体は宙に浮いていた。
「何ぼーっとしてる! 戦場だぞ……!」
 血と硝煙の只中にあっても、損なわれぬ白檀がかすかに薫る。消えかけの命は寸でのところで拾われ、愛しい男の腕の中にあった。
「へへ……お前の助けを、待ってた……」
「バカ言え……ッ」
 助けを待っていたというのは、本心のようで少し違う。
 きっと身を挺してでも助けてくれると信じてはいたけれど――信じては、いたけれど。助けてほしいなんて言った覚えはない。危険を冒してまで、こんな、殆ど潰えたも同然の命を救ってほしいだなんて、一度も。
 ――本当に、馬鹿な男だよい……。
 やめてほしい。これ以上、夢を見せないでほしい。生きてその腕に帰ることを、マルコはとっくに諦めていた。なのにそれが叶ってしまった。ひとたび望外の奇跡が叶えば人は際限なく欲深くなるもので、心の奥底でひた隠した願いが溢れ出そうになる。共に生きて帰りたいという、ささやかで、しかしたやすく叶えることのできぬ願いを。
 ――ちがう。為すべきは、昔の約束なんて反故にして、お前だけでも未来に送り届けることなのに……!
「とにかく、ここを離れるぞ……!」
 本当は、抱きかかえることだってやめてほしかった。消耗しきって、自己再生すら危うくなれば、この身に宿した不死鳥(ばけもの)は、をれを許してくれる相手の生命力を吸ってでも生きようとする。
 真っ暗に閉ざされた視野。剣戟と銃声、燻って、燃え尽きて消えていく数多の命の気配が嵐のように吹き荒れる世界の中で、イゾウの声だけが確かだった。
「は……はあッ……ハ……」
 激戦の渦中から遠ざかるにつれて体が勝手に、その声を、体温を手繰ってしまう。
「う……ぁ……イゾ、ウ……」
 ――だめ、もらったらだめなのに。返さねえと、死なせちゃう……。
 焦点の定まらぬ瞳で、傍らに寄り添ってくれている姿を探した。出会った頃からずっと、願いの星のように燦然と輝いている姿が、こんなにも近くにいるのに見えない。ふらふらと、覚束ない手を差し出した。何かと触れ合って、確と握られる感覚があって、ようやくマルコは安堵の息を吐いた。
 まだ返せると。奪い尽くしてしまってはいないのだと。
「なあ、オヤジが言ってたの、ほんとう、だった……」
「ハァ? 何だ、こんな時に!」
「本当に、あかい壁のうえに……神の国、が」
 繋いだ指先に熱が灯る。蒼い炎が弱く、か細く迸り、伝っていく先で、目を細めた剣呑な面差しが露わになる。いつか父が、ニューゲートが酒の肴に零した夢物語に当惑しているというだけではない、苛立ちがそこには見て取れた。
「っ……いいから! 後でいくらでも聞いてやるから! 自分の怪我だけ治してろ!」
「でも……」
「死にかけなんだぞお前……!」
 そんなふうに声を荒げてまで、イゾウがそう言うなら。生きなければ。まだ、こんな、誰かの盾が務まるかも怪しい自分を、望んでくれるのなら。どこか他人事のように、或いは夢見るように陶然と、マルコは納得をした。実際、自身の命などとうに他人事だった。二年前の、あの苦い敗走を経て以降ずっと、生きたいと思えたことなどない。
 命より大切な人に生を望まれて――その命を、分け与えられて。それは確かに、人あらざる力を宿した自分にとって、身に余る幸福であるけれど。
「……ふふ。どうしたんだよい。こんな戦場で」
 存在を確かめるように強く抱きしめられて、ここがどこかも忘れてしまいそうになる。命の重みを取り戻した体が、帰りたい腕の中にある。その事実に、安堵と同じくらいの恐怖が込み上げて止まなかった。
「悪い……どうしても、確かめたくて。お前がここいいること……」
 穏やかな声が耳朶を打つ。喪いたくないと、この身に代えても守りたいと、逸る願いを遂げるだけの力が、もう自身に残されていないことは明白だった。もしも大看板や四皇に比肩する敵と相対すれば、雑兵といえど物流で押されれば、守り切ることは難しいだろう。
 ――本当は、許されるのなら。共に生きて、この夜を越えたい。辿り着いた明日で、一番近くに在りたい。王族の臣下の隣に外海の札付きが相応しからざることなど、ずっと前からわかっているけれど、それでも――こんな戦場の只中でなく、暗闇のなか藻掻くような敗走の果てでなく。帰り着いた楽園の島で、ただ穏やかに寄り添っていられたら。
 それはきっと、誰の命にも保障のない戦火の下では叶うはずもない望みで、あの日マリンフォードで多くの命を取りこぼした己にはそも願う資格すらないのだと、マルコは知っていた。
 だから――せめて、イゾウだけでも帰してやりたいのに。それすら叶わぬのなら共に果てたいと思うのに、最悪の予感が、首の後ろをジリジリと焦がして止まない。
《報告ーー! 城内二階にて、得体の知れない巨大妖怪出現!》
「……!」
 不安を煽るような甲高い声が、束の間の安らぎに影を落とした。百獣海賊団の『目』による通信だった。
「巨大な妖怪だと……?」
「どこにそんな敵がいた?」
《妖怪は壁をすり抜け、何かの亡霊のように移動中! 城内はもう火の海です!》
 妖怪と呼称されるその存在は、何らかの悪魔の実の能力者であると考えるのが妥当だろう。この世に存在する人智を超えた異能は、大抵それで説明が付く。しかし亡霊と、そう表される在りように対して言い知れぬ不安が込み上げる。嫌な予感が現実となってしまう、そんな気がしていた。
 亡霊――怨念、執念、執着。
 野心を隠し通した男の、マーシャル・D・ティーチの凶行によりすべての歯車が狂いはじめた、あの夜を思い出さずにはいられない。あの男が異形の体であることも、不眠のまま何年、何十年と生きることのできた異常さも、それこそ船医見習いの頃からマルコはずっと知っていた。その事実を共有したのは船長であるニューゲートと医療関係の非戦闘員だけで、誰にも――他の隊長たちにさえも、グラグラの実の能力が簒奪されたあの瞬間まで、口にしたことはなかった。
 とっくに敵だった人間の、弱点となりうるそれを。患者の診療情報を口外してはならないと秘した己の甘さが、奪った命がいくつもある。
 ――行かなければ。火の海と化した城内に、得体の知れぬ何かに追われ、或いは道を塞がれ逃げ遅れた味方がいるかもしれない。
 背に回していた腕をするりと解く。蒼炎はまだ、翼を形作ることができた。よかった。まだ、こんな死に損なっただけの体でも為せることがある。
「行くんだろ?」
 差し伸べた翼の先でイゾウが瞠目する。きっと同じことを考えているのはわかっていた。その上で、手負いのマルコを足に使うことを躊躇していたのも。
 だからこそ、マルコは翔べるのだ。そんなふうに、化け物じみた異能を持つ自分のことを、人として大切にしてくれるから。
「ああ。……悪いな、まだ傷も治りきってないのに……」
「怪我人に無茶させるってんならお互い様だよい。さっき……ありがとな、助けてくれて」
 そうして二人、飛翔する。宙を翔けるたび決まって、嵐のようにこの国から連れ出してしまった、始まりの夜を思い出した。
「っ……すごい火だな」
 程なくして、火炎に呑まれた城内へと辿り着く。吹き荒れる煙と火花にイゾウが咳き込んだ。通信にあった巨大な妖怪と思しき姿は見当たらない。既に二階からは移動したと見るべきか。
「気ィ抜くなよい」
「ああ……!」
 当然、共に死地へと飛び込むものだとマルコは思っていた。信じていた。この先に何も危惧するものがなかったとして、不要な消耗を避け空を翔る手段は必要だろう。脅威が待ち受けているとしたら、殆ど燃え滓のようなこの身でも盾にはなれる。
 力及ばず倒れたとて、共に逝けるならそれでよかった。或いはイゾウだけでも生き永らえてくれれば、そんな幸運が舞い降りるならばこの上なく喜ばしいと――けれど。
「――……それと、ありがとう。ここまででいいから、お前はライブフロアに戻れ」
 瞬間、ここがどこかも忘れて茫然とした。
「は……? なん、で」
 真っ白に消し飛んだ理路を取り戻すにつれて、心臓が嫌な音を立てる。どうして、なんで、独りで死にに行くつもりなのか。そんな激情が矢継ぎ早に口をついて出そうになって、言えずに喉元でわだかまった。
「こっちはおれ一人で充分だ。……戦力を遊ばせておく余裕なんてないだろう。向こうにいる奴らを守ってやってくれ」
 まがりなりにもかつては四皇の幹部を務めた自分たちという戦力を分散することは、大局を見れば理に適った行動だ。そんなことは百も承知だ。もしも危機に瀕している味方がいるのなら、その方がずっと救助できる確率は上がる。
 そうすべきだということを、マルコも理解はしていた。イゾウの提案は正しい。理性では、わかっているのだ。
「馬鹿言うなよい! そんな体で、一人で……!」
 なのに――今になって、感情の制御がままならない。聞き分けのない子どものように、背を向けた男に言い募る声は震えていた。
「そう心配するなよ。ちょっと様子を見たら、すぐに戻るさ」
 嫌な予感がする。この先できっと、よくないことが起きる。親友が闇を司る実を見つけた日、制止も聞かず末の弟が飛び出していった日、最後の船長命令を下す父の背中――生涯癒えるはずもない痛みを伴った記憶が、脳裏を駆け巡る。
 信じたいと、そう思うのに。イゾウが約束を違えたことなどなかった。どれほど義理堅く誠実な男かを知っている。けれど面と向かって言葉を交わしてはくれないことが、言い知れぬ不安を掻き立てた。顔が見れば嘘を吐いているかどうかくらい、わかる。それほどの時間を共に過ごした。だからこそ背を向けられたのが、イゾウの言葉が嘘であることの証左のようで、恐ろしくて堪らない。そこに刻まれた忠義と共に、手の届かないどこかへと消えて、二度と会えなくなってしまうような予感がした。
 それでも――もう。
「……本当に、帰ってくるつもりで行くんだよな……?」
 遠ざかろうとする背中に、そっと額を預ける。もう引き留めることはしない。如何なる結果が待とうとも戦力を分散すべきなのは本当で、きっと自分では助けになる以上に、この男の重荷に、足枷になってしまうのだろう。つい先刻、銃口の向く先に飛び込んで、命を懸けてまで助けてくれたときのように。
 そうして、震える指先で、マルコはイゾウの腕を掴んだ。吹けば飛ぶような弱く、儚い炎を分け与えることしかできずに己の限界を思い知る。もっと、この命のすべてでもって十全の加護とできたなら。或いは万が一があった先で、この身を捧げて蘇生できたならと――けれど、そんなものを差し出してもイゾウを悲しませるだけだから。
「帰ってくる」
 振り返り、答えと共に抱き返してくれたイゾウの体は、今立っていられるのが不思議なほどボロボロだった。気力が尽きれば、若しくは不利な戦いを強いられ更なる傷を負えば、もう生きては戻れないとそう予感するくらいに。
「必ず生きて――……お前のもとに戻る」
「ん……」
 ほんの一瞬、されど永遠のように。祈りのように、或いは呪いのように、重なった唇に血と涙の味が滲む。
「待ってる、よい。ずっと待ってるから……」
 信じたいという思いが優って、世界の残酷さに怯える心を捩じ伏せた。
 だからマルコは、いまひとたび突き付けられたのだ。
 いつか眩き太陽が昇る、そんな春の約束は――冬が自分たちを押し潰した後に果たされるのだと。


◇◇◇


 マルコがレッド・フォース号を飛び立ちひとりスフィンクスへと戻ったのは、島民たちの寝静まった深夜のことだった。
 ざあざあと、波の音だけが楽園の島に訪れた夜のしじまを乱す。雨のようだと、草むらを踏みしめながらそう思った。まるで誰かが泣いているような、ひどく寂しげで心寒い音が首筋に残響を残しては遠のく。
「……?」
 住居としている水車小屋の前に、見覚えのない何かあった。近づき、よくよく目を凝らしてみれば、それは手提げ籠に山と盛られた林檎のようだ。そういえば出立の前日、そろそろ収穫の頃合いだと村の老爺が話していた。ここまで届けてくれたのはあの快活な孫娘だろうか。忙しい時に手を貸せなかった申し訳なさと、二年前に住み着いたばかりの訳ありにも親身になってくれることへの面映さが綯い交ぜになり、些か居た堪れない心持ちになる。
 とはいえ、せっかくの厚意を受け取らないのは失礼というものだ。マルコは慎重に籠へと手を伸ばし持ち上げた。目測を誤って倒したり蹴飛ばしたりしてしまわないようにと。
 夜は殊更目が効かない。そして命なきもの、意思なきものの気配や位置を覇気で捉えることはできない。ぼやけた視界と、勘と、その空間に対する順応だけが頼りだ。
 今のマルコは、穏やかな楽園の島よりも、敵味方入り乱れる戦場の方がよほど自由に飛び回ることができる。自身の見聞色は他者の生命力を感じ取ることに特化しているし、たとえ無機物であっても、それが飛来する弾丸や矢であるのなら敵意、殺意といった意思が伴う。
 不意に――ごうと風が吹き抜けて、嗅ぎ慣れた香の薫りを運んだ。
「ったく……林檎は落としても拾えるだろうが。まずお前が転ばないようにするのが先だろ」
「――え……?」
 誰かの声が聞こえた気がして振り返る。当然、そこには誰もいない。ひとり零した当惑の声が闇夜に溶けるだけである。
 目を悪くしたばかりの頃は感覚を掴めずによく転んだし、そんなふうに注意されることもあった。そのたびに助け起こされて、あたたかな腕の中で自分よりもずっと痛そうに男の零す嗚咽を聞いていた。実際、視力の八割を失ったところでマルコは何とも思っていなかったのだ。失明にまで至ったわけではないし、もう世界を美しいと思いたくなかった。それに、戦うことだけはできたから。すぐ傍らで悔しげに目を伏せる美しいかんばせがぼやけて滲むのが、少しばかり痛かっただけ。
 でも、それも――もう、おしまいで。
 だからもう、一人でも大丈夫なのに。
 不思議だった。首を傾げつつ暗がりを進む。居間のテーブルに籠を置き、寝室へと歩いていく。何日かぶりにベッドへと体を投げ出し、ようやくマルコはひとつ息を吐いた。
 潮の匂いが遠い。寄せては返す波に揺られた、船の記憶も。それでもこの仮住まいも確かに、安心できる場所だった――どうしてか。
「なんで……だっけ……」
 身じろいだ拍子に、胸ポケットからはらりと紙片が舞い落ちる。拾い上げてみればビスタのビブルカードだった。暗がりで文字を読み取ることはできないが、命の残滓であるこの紙ならば、誰のものかを判別できる。己の見聞色の異質なありようも、その一点に関してだけは有益と言えるだろう。
 少しだけ年上の兄貴分を示すそれは、受け取った時とそう違わぬ大きさにまで回復している。あの戦争で負った傷もようやく癒えたということか。
 到底戦える状態ではなくなった自分の代わりに殿を務めさせてしまった。ティーチに両の目を切り裂かれた後のことをマルコは殆ど覚えていなかったが、早く逃げろというビスタの怒声は朧げながらも記憶に残っている。それから――それから。
 ――おれのために生きてくれ……!
 そう叫んだ誰かが、泣いていた。あれは誰の言葉だったか。羽根を?がれ墜落した体を抱き留めてくれた、あたたかさを覚えているのに。最後に触れたときは冷たくて、嗅ぎ慣れた香の薫りは鉄と火薬の匂いに掻き消された。
「イゾウ……?」
 最後って、何だ。その名を口にした途端、割れるような痛みが頭を揺さぶる。約束、そう、約束をしたのだ。痛みには強いはずなのに、耐え切れず身を捩った。他の兄弟たちのビブルカードもシーツの上へと散らばる。
 鼓動が乱れて、呼吸が浅くなる。やめておけと、脳裏で警鐘が鳴っている。それでもマルコは紙片を拾おうと手を伸ばした。手を伸ばして、数えてしまった。
「ッ……!」
 一枚、足りない。一年前の苦い敗走を生き延びた兄弟の命の紙は、すべてここにあるはずなのに。
「……んで、どうして、たしかに」
 送り届けたはずだ。雪の降りしきる丘へ。イゾウの帰りを待っていた者たちの元へ。それから――それ、から。
「ぁ……あ……イゾウ……」
 違う。ちがう。最後に送り届けたのは、燃え盛る城の中で。
 遠ざかりゆく背中に縋って、困らせて。必ず生きて戻ると抱き返してくれたその体は、ボロボロで、もう二度と――会えないと――……。
「う、ぶ……ッ」
 喉奥から込み上げた液体が、びちゃびちゃと床板に滴る。大切なものを汚さないようにと、咄嗟に床へ転げ落ちるだけの理性は残っていた。愛した男を、その最期を記憶から追いやってまで自分の心を守ろうとするほど、正常な判断能力を失っているくせに。
 喘鳴のような呼吸を繰り返す。制御を失った青い炎が、ぼやけて滲んだ視界の端で明滅する。
「や、だ……嫌だ、イゾウ、あぁあ……っ」
 落涙が、温いまやかしを舐め取っていく。
 ――もう一人でも大丈夫、だなんて。
 どうしてそんな虚勢を張り通せると思ったのだろう。
 誰を喪っても立っていられた、何も守れなかった自分が生きていることを許せた――理由そのものを、失ったのに。




◆◆◆





「っ……?」
 ズキリと頭が痛み、壁伝いに滑るようにしてマルコはしゃがみ込んだ。
 ああ、そうだ――戦いが終わり、夜が明けたのだった。
 勝ち鬨の後に残るものは、喜びだけではなかった。喪った物を憶う悲嘆が、安否のわからない見方を案じる焦燥が、未だ隠れ潜むかもしれない敵の残党に対する不安がその場に渦を巻いていた。
 誰からともなく、まだ動ける者たちが戦場跡へと駆け出していく。ハートの海賊団を中心とする面々は、生存者がいた場合に備え待機するようだ。どちらに手を貸すべきか暫しの逡巡の後、マルコは捜索に加わることにした。遅滞なく、過誤なく他者を治療できるほどの気力はもう残ってはいなかった。ならばせめて、己が身に宿した悪魔の『恩恵』を、機動力と耐久性を少しでも活かせる側に回るべきだろう。
 燃え落ちた城の跡は、どこもかしこも死の臭いに満ちていた。生き残っている者を生かすこと、鬼ヶ島がワノ国の本土に墜落した際の被害を最小限に留めることが優先された以上致し方なくはあるが、煙に覆われ煤け、水に押し流され原型を留めていない遺体の数々に胸が軋む。いまさら見も知らぬ誰かの死を悼むような殊勝さを持ち合わせてはいないが、それらが突き付けてくる紛うことなき現実があった。この戦場で命を落とした者は、凄惨な有様で打ち捨てられることになるのだと。
 それでも僅かながら見つけることのできた生存者と、無惨な亡骸とを焼け跡から運び出す。生き残ってしまった者に果たせるせめてもの償いだ。
 そうして気づけば、日が高く昇っていた。
 夜が明けて以降稼ずっと稼働していた捜索・救助隊も一度休息を取るようにと伝令が走る。
 まだ、その無事を祈って探し続けた男を見つけていない。見つかるまではこの場を離れたくないという気持ちはある。しかし自身の体力が底を付きかけていることを、マルコは正しく認識していた。大看板と戦った時の傷も、威嚇程度とはいえカイドウの熱息を受けた際の熱傷も未だ癒えてはいない。何かしていないと気が狂いそうだから、気力だけで体を動かしている。
 とはいえ、本当に動けなくなってしまっては元も子もない。生きているのなら少しでも長く生きて、できるかぎり多く、成せることを成さなければ。
 そう。生きろと望まれたから、まだ――……。
 旋回し、鬼ヶ島の墜落地点近くに敷設された臨時の救護所を目指す。前を向くには体が重く、下ばかり見て飛んでいたからだろうか。
 瓦礫の狭間、横たわる人影を――ついにマルコは、見つけてしまった。
「あ……」
 ――ほんとうはすこしだけ、期待していた。何かの間違いであってくれと。ひどく疲れているから、周囲の気配をうまく感じ取れないだけなのだと。こうして探し回っている間に何事もなかったかのように、自分の足で立って、歩いて、故郷の仲間たちと再会を果たしているのだと思いたかった。
 懐から消えたビブルカード一枚分の重さに気づかない振りをした。
 燃え盛る炎の中で別れたあと、見聞色の端に捉えた鼓動がぷつりと途切れたその時から、希望が潰えたことはわかっていたのに。
「ぁ……ああ……」
 ふらふらと幻影の羽根がもつれる。
 殆ど墜落するように、マルコはその傍らへと膝をつく。
 不時着で済んだのは、もう墜ちても受け止めてくれる人はいないと、本能的に理解していたからなのかもしれない。
 触れれば壊れてしまいそうで、炭化した指先の形を確かめることもできない。しかしその手が握ったままの銃の拵えを、自分たちが父と慕ったひとの誇りをあしらった衣の切れ端を、見間違えるはずもなく。
「イ、ゾウ……?」
 応える声はなかった。
 片側だけが焼け残った面差しは、よく見知った笑みの形を描いているのに。
 もう二度とその唇が自分の名前を形作り、少しだけワノ国の訛りに寄った音で呼んでくれることはないのだと――……。
「イゾウ……っ!」
 幾度となく看取った、大切な人たちの死と同じ。覆しようのない現実だ。
「……や、だ……いやだ、なんで」
 落涙に咽ぶ。震える手を伸ばして、凍り付いた頬にようやく触れて。とめどなく溢れる涙が本物の不死鳥のように奇跡を起こせないことを、ずっと前から知っている。
「うそつき……」
 頑是ない子どものように零した言葉は、掠れて、殆ど音にならなかった。
 必ず生きて戻るという約束を交わしたのが、ほんの一秒前のことのようにも、ずっと遠い昔のようにも思える。詰る資格も泣く権利もないことを、自分自身が一番よくわかっていた。
 最後に抱きしめてくれたその体は、立っていられるのが不思議なほど傷だらけだった。それでも送り出したのは、イゾウが約束を破るはずはないと信じていたかったからで――その矜持に泥を塗りたくはなかったからだ。行くなと引き留めれば、きっと守れなかった誰かがいて。我を通して行動を共にしたところで、殆ど力を使い果たしていた自分では足手纏いになり、もっと悪い結果をもたらしたかもしれないけれど。
 だとしても――嫌われても、憎まれ疎まれたとしても。
 自分が違う道を選んでいれば、この結末にだけは至らなかった。
 炎に巻かれ、誰も知らない場所で一人きり死なせてしまうことだけは、なかった。
 見送ることが、その信念を汚さないことが愛なのだと物分かりのよい振りをして。もう生きて戻れるかも危ういほど冷たい体に、奇跡のひとつも起こせぬ炎を祈りのように託したことに、どれほどの意味があったのだろう。
 そうして正しく、奇跡は紡がれることなどなく。マルコはまた守れなかった。大局を見ればどれほど多くの命を救えて、未来を若者たちに託せたのだとしても、いつだってこの手は愛した者ほど取りこぼす。自身の生存ばかりに特化した、身勝手で役立たずな異能の力。最後まで盾になることでしか、今まで貰った多くのものに報いる術などないというのに。
「ごめん、な……何の役にも、立てなくて……」
 額にこびりついた血の塊と煤を払う。死者に点したとて精々が、ほんの僅かに肉体の腐敗を遅らせるだけだというのに、指先から青い炎が迸る。目の前の現実を、紛れもなくそこにあるイゾウの死を受け容れられない自分と、冷静に俯瞰する自分とが乖離していく。それを繋ぎ合わせて抱き留めていてくれる人は、もういない。自分がどうなろうと、マルコにはもう他人事だった。
「苦しく、なかったか……?」
 いつかイゾウがそうしてくれたように、その頬を撫でて問う。応える声はあるはずもない。
 せめて、戦い抜いたその果てに睡る瞬間が穏やかなもので、苦しまずに逝けたならと祈らずにはいられなかった。焼かれたのも水に流されたのも、事切れた後であってくれたならと。
「……大丈夫だからな」
 そしてこの先の永久の眠りにも、憂うことなどないように。
「もう、大丈夫だよい。ちゃんとおでんの仇は討った。エースの弟が勝ったんだ。モモも日よりも、きっと立派にやるだろうよい。だから、何も心配しなくていい。おれも……もう、ひとりでも、大丈夫だから……」
 言霊というものがあるのだと、イゾウが教えてくれたのはいつのことだったか。確かに勝ち取った希望と、程なくして届くであろう未来。そのすべてを言祝ぐ都度こぼれ落ちる涙と共に、ほんの少しの嘘を織り交ぜる。いつか本当になると信じて。
「帰ろう……お前の故郷に」
 人よりもずっと、頑丈でよかった。助けを呼ばずとも、直ぐにこの燃え落ちた城から遺体を運び出してやれるから。肝心な時ほど役に立たない、ままならない力でも、何も異能を宿していないよりはよかった。少しだけ、生きている人間の生命力を底上げするよりも遥かに弱い効力だが、遺体の腐敗を遅らせることくらいはできるから。
「……もう大丈夫だからな、イゾウ――……」
 凍り付いた瞼に、唇を落とした。
 大丈夫だと、そう口にするたびに何か、自身の核を為していたものが剥がれ落ちるような気がして。
 けれどそんなものは、こぼれ落ちてしまってもうどこにもない命に比べれば、本当に些末で、どうだっていいことだ。
 帰りたいと、ずっと思っていた。焼け跡を、雪の降りしきる丘を遺体を背負い歩きながら。もう自分がどこに帰りたいかもわからぬまま、ずっと――……。
 陽光が瞼を透かし、意識が浮上する。
「……ん、」
 眦からあふれた涙が頬を伝い、はらはらとシーツにこぼれ落ちていく。
 ――なにか、ひどく悲しい夢を見ていたような、そんな気がした。
「なんの、夢……」
 気だるい体をどうにか起こし、マルコは首を傾げる。随分と日が高い。昼過ぎまで眠ってしまったようだ。昨夜は――そう、昨夜というよりも夕方から、これ以上ないほどに愛されたから。
 思い返すと顔が火照る。もうすぐ三十年の付き合いになるし、想いを交わしてからの時間の方がずっと長いというのに、いつまで経っても新鮮に面映ゆさをおぼえてしまう。あの美しいかんばせが余裕をなくして歪み、荒々しく息を乱して、この世でいっとう愛おしいのだと幾度も言葉や触れ方で示されることに。熱を孕んだ瞳に射抜かれるたび、このまま攫って、閉じ込めて、壊してほしいとマルコは思って、たぶんそれを、昨夜も口に出してしまった。そのあとどうされたかは、言うまでもないことだ。
「イゾウ……?」
 少しだけ寒くて、目覚めと共に彼の姿がなかったことが不安になる。船にいた頃は互いの役目や人の目もあり、終始寄り添うわけにもいかなかったが、二度の苦い敗走を経てこのスフィンクスで生活を共にするようになってからは、後朝にひとり残されたことは少なかった。ティーチとの交戦でマルコが目を負傷して以降は、特に。いっそ過保護とも言えるくらいに、いつだってイゾウはマルコの傍にいた。
 一人寝に耐えられないような年の頃も、四六時中好いた相手の傍にいたくて堪らない時期もとっくに過ぎ去ったけれど――こんな、忘れられた楽園の島の片隅で、世界に二人きりのような日々を過ごしているからだろうか。寂しさに対する感受性が、鋭敏になってしまったようだ。
「おーい……イゾウ……」
 張り上げたつもりの声が、思うように出せなかった。随分と喉が渇いている。
「どこ、行ったんだよい……ぁ、づ」
 足を踏み出した瞬間、ぐらりと体が傾いだ。自重を支えきれなった足首に鈍い痛みが広がり、そのままマルコは転倒した。強かに打ち付けた腕でサイドテーブルの抽斗をひっくり返してしまったらしい。白い紙片が数枚、床の上へと散らばった。
「イゾ、ウ……?」
 段々と不安が強くなる。どうして今、傍らにその姿がないのだろう。こんなに大きな音を立てて転んだら、すぐに飛んできて、助け起こして抱きしめてくれたのに。一人でだって立ち上がることはできるけれど、もう自分の怪我を痛いとすら思わなくなったけれど、そうして寄り添ってくれる存在がマルコを人たらしめていた最後のピースだったのだ。
 ――だけど。
「最後……って、」
 頭の奥がズキズキと軋む。最後に、抱きしめてくれたのは。
 昨夜眠りに就く前――ちがう。
 十六番隊の部下たちの様子を見に行くと、イゾウがここを発った日――ちがう。
「ちが、う……だって、さいごに、おれが」
 ――帰ってくるつもりで行くんだよな。
 そうマルコは、念を押した。
 ――必ず生きて――……お前のもとに戻る。
 イゾウはそう言って、約束を破ったことなど一度もなくて、それは今度も果たされるはずで。
 けれど最後に、燃え広がる炎と崩れ落ちゆく城の中で抱擁を交わしたその体は、立っていられるのが不思議なほどひどい怪我を負っていた。差し出せる限りで点した、弱くか細い蒼炎が、加護となり得たのはきっとほんの数分のことだ。
 もう二度と会えないと、本当は、わかっていたくせに――……。
「あ……ぁ、あ……」
 床に散らばった紙片たちが、風にあおられ舞い上がる。
 ――そうだ。ビブルカードが、足りなかったんだ。
 命の紙の重さが一枚分、懐から消えた瞬間を覚えている。城内で別れた後も絶えず見聞色の端に捉えていた命の色が、鼓動が、なにひとつ感じ取れなくなったから。守るべきものを、未来を生きていく若者を背に庇っていなければ、カイドウの放った炎の前に一秒と保たず崩れ落ちていただろう。
 それほどの悲嘆が心を食い破って、耐えきれずに忘れようとして、忘れられずに何度も、何度もひとり泣き喚いて。
 体がひどく怠かったのは、昨夜愛してもらったからなどではない。そんなのは一年も前のことだ。あの戦いで限界まで酷使して、自身の傷を再生しきる力も未だ戻ってはいないのに――機械的に口にしていた食事さえも吐き戻すようになったという、ただそれだけの理由だった。
 もう、そんな風にしか生きられないのなら。生きている意味なんて、まだ生きていていい理由なんて、きっとどこにもありはしない。
 正気を取り戻すたびに絶望する。
 まだ光を感じ取ることのできる目に。手足の感覚があることに。
「嫌、だ……もう、要らない……そんなの、要らねえ、のに」
 誰かが生きたくても生きられなかった明日を生きている。その自覚があるのに死を渇望することがどれほど罪深いかを知っていて尚、マルコは終わりを望まずにはいられなかった。それが罪だというのなら、早くこの命を罰してほしい。どうせ燃え滓のようなものなのだ。死んでいないから生きているという、ただそれだけの。
 誰を喪っても最後まで戦場を見通し、最後の一人になっても船長の盾となることが己の役目だとマルコはずっと思っていた。言葉にしてニューゲートに確かめたことはない。そんなことを一度でもおれが命じたかと、叱られるのは目に見えていたから。おそらく年嵩の兄弟たちも渋い顔をする。それでも、少なくとも隊長たちの間では暗黙の了解だったはずだ。有事において誰が真っ先に命を捨て、誰が最後の砦となり、誰が殿を務めるのかという命の序列は。
 だからどれほどつらく苦しくとも、生きることを放棄できなかった。食べて、自らの足で歩いて呼吸をして、戦って、船医として司令塔として、味方の状況を確認する。そうでなければ役目を果たせない。悲嘆に暮れている間にもっと多くの被害が生じる。
 だけど――もう。
 何もかも、生きるためのすべてを、為そうと思うことすら苦しい。
 何をおいても、誰よりも守りたかったひとに生きろと望まれたからここにいるのに、その願いに応える術がわからない。
 立ち直った振りをして、生きることを諦めずにいられた理由さえも、ついにマルコは失くしてしまった。
 ニューゲートの身を蝕む進行性の病が手に負えないと発覚し、泣いた夜も。
 血塗られた裏切りによって、船から笑顔が失われた日も。
 雪辱を果たさんと挑んだ戦いで敗走し、生死の境を彷徨い、視力の八割を失ったときも――いつだって傍にいてくれた大切なひとが、もういない。
 守れなくて、こぼれ落ちて――ちがう。物わかりのいい振りをして見送った挙げ句に、たったひとりで死なせてしまった。
「会い、たい……」
 全部代わりに引き受けたかった。その結果死んだとしても悔いはなかった。護りきれずともせめて最期まで傍にいて、共に逝きたかった。
 ――今更悔いるくらいなら、嫌われても憎まれても、もっと悪い結果が待っていたとしても必死に追い縋ればよかっただけのこと。
「イゾウ……」
 とうに残り香は失せている。ただ涙が、虚しさと共に吸い込まれていくばかりだ。
 この手に残ったものは沢山の思い出と拭い切れぬ後悔だけ。形に残るものがひとつでもあれば或いは、正気で生き続けられたのかもしれないが――あの日赤鞘の侍たちの厚意に甘んじて形見分けを願い出るような真似をしなくてよかったと、それだけは正しい選択であったとそう思う。
 自分にその資格がないことを、マルコは正しく理解していた。
 どんな形でもいいから一緒に帰りたかった。彼の帰る場所でありたかった――そんな願いは、抱くことさえ許されない。
「…………」
 のろのろと身を起こす。最後に海が見たいと、不意に、そう思った。
 床に足をおろした拍子に何かを――おそらくは眼鏡を踏み砕いたが、構わずにマルコは歩き出した。破片が足裏に刺さっても痛いとすら思わなかったし、眼鏡を掛けたところで補える視力は気休めでしかない。
 裸足のまま丘を、砂浜を降りていく。痛みも寒さも今は遠く他人事で、空と海の溶け合う青色だけはまだ、少しだけ美しいと思う。
 だから海を見たいと――海に帰りたいと、願ったのかもしれない。
「は……」
 足を踏み入れれば、浅瀬でも体から力が抜ける。重くなった足を引きずりながら、遠い水平線へとマルコは歩いていく。助けは来ないから、確実に命を絶てるはずだ。そうしたら今度こそ、ビスタとジョズがこの島を守ってくれるだろう。自分のビブルカードが燃え尽きたら後を頼むと、ワノ国へ向かう前に話は付けた。
 肩まで水に浸かるほど歩みを進めれば、いよいよ立っていられなくなる。そのままマルコは波に身を委ねた。嫌われているはずの、この身を蝕む海がひどく心地良い。
 ひとりきり漂い、揺られ、そして沈んでいく。
 二度と皆に会えないようにと願いながら。
 そう――終わらせてしまおうと思ったのは、もう一度会いたかったからではない。ただ自分を、消してしまいたかっただけ。存在するということの痛みに、耐えられなくなっただけだ。
 だからせめて、これ以上、狂気と現実の狭間で愛した男の最期に泥を塗る前に終わらせる。自らの心を守るために忘れようとする、そんな愚かしく罪深い行いをまた繰り返してしまう前に。ちゃんと覚えていられるときを、マルコはこの命の終わりとしたかった。
 ずっと悔いていた。
 あの日、自分が海へと連れ出さなければ。
 おでんと共にオーロ・ジャクソン号へ行けと送り出してやれば。
 或いはもっと後、彼の人の訃報が届いたそのときに、仇討ちへと行かせてやればと。
 それが結果から見れば何の意味も為さない、早すぎる死をもたらすだけだったとしても――今日までの日々よりはずっと、イゾウを苦しませずに済んだのではないかと。
 告げなければよかった。愛しているなんて、決して。それで生き方を縛ったなどと自惚れるつもりはないが、イゾウが命を賭しても果たしたい悲願を前にしたその戦いの中でまで、心配をかけてばかりで――自分を助けるために無茶をしなければ、或いは、生きて帰ることができたのではないかと後悔ばかりが募る。
 やっと手放してやれたのだ。連れていってほしかったと、帰ってきてほしいと願ってしまわないように想いを深く押し殺す。
 水底で朽ち果てて、何もかもなくなればいい。
 雪の降りしきる冷たい場所で別れは済ませていた。もう惜しむものなど何もない。
 手に入れてしまったから傷つけた。手を伸ばしたのが間違いだった。
 遠く離れても生きていてくれたならそれでよかったのに――一緒に幸せになりたい、だなんて。愚かで救いがたい夢を見た。
「あい、してる……だから……だか、ら」
 呼吸を手放す代わりに紡いだ言葉は、泡になり掻き消える。
 もしもすべての命が海へと還り巡るなら、どうかもう、出会うことなどないようにと。
 自分は二度と生まれなくてもいいから、守れなかったすべての人たちが、争いなど知らず穏やかな日々を生きてほしいと願う。
 そんな優しい夢だけが――喪失と痛みの果てに辿り着いた幕引きの、たったひとつの幸いだった。





 ――ぱちりと目を瞬く。また、いつの間にか眠っていたようだ。
 見慣れたモビー・ディック号の船室で、マルコはひとり目を覚ました。永く悲しい夢を見ていたような気がして、気怠い体をゆっくりと起こす。その拍子に肩から滑り落ちそうになった藤色の薄衣を、両手で受け止め掛け直した。
 ベッドの上に座り込んだまま見遣った窓の外には深い蒼が広がっている。夜の空ではなく海中の色だ。魚人島へ向けての潜航の予定などあっただろうか。航路を思い出そうとするも、靄がかかったように曖昧だった。ひどく頭が重い。さすがに仕事を放り出して眠りこけていた、などということはないと思いたい。数年に一度あるかないかの風邪でもこじらせたのだったか。
 何にせよ――よく眠れた。本当に久しぶりに、愛した男の温もりと残り香に包まれて眠りに就いたから。
「え……?」
 サイドテーブルにきちんと折り畳んで置かれていた眼鏡を手に取り、掛けたところではたと、マルコは違和感に気づく。
 どうして眼鏡を、掛けるようになったのだっけ。
 久しぶりに、なんて思うほど、この三十年で離れたことなどあっただろうか。十六番隊が先行偵察や遠征に赴くことは多かったが、それもせいぜい二、三か月のことだ。
 どうしてここに、傷ひとつない眼鏡があるのだろう。床に落として、踏み砕いたのではなかったか。
 愛したと、過去にして流してやれるほどこの想いは綺麗なものではない。今も変わらずマルコはイゾウを愛している――だから。だから、耐えられなかったのだ。イゾウがいなくなった後も、当たり前に続いていく世界の何もかもに。
「あ……ああ……」
 綻びから少しずつ、歪な夢が解けていく。
 ――全員生きて、新世界へ帰還しろ!
 最後まで君臨しつづけた背中。誰より守らなければならなかったひと。
 一生かけても返しきれぬ恩をなにひとつ返せないまま見送った。マリンフォード、落とし前戦争、そしてワノ国。三度死線を潜り抜けて繋いだ命を自分はただ逃げるためだけに投げ出して、最後の船長命令を反故にした。
 ――愛してくれて……ありがとう……ッ!
 この命に代えても助けたかった、未来へと送り出してやるはずだった末の弟。
 モビーに馴染んだように見えてもどこか寂しげな目をしていたことに、気づいていた。
 時間が解決してくれると信じて見守った。
 明日をも知れぬ無法者の時間が容易に失われることなど、ずっと前から知っていたというのに。
 もうこの船には帰れない。あの日焼かれて、バラバラになって、守りたかった人たちごと散っていった。残骸は密かに保管してあるとはいえ、原型を留めていた船室はひとつもない。
 力なくおろした腕を滑り、今度こそ薄紫の着物がシーツに落ちた。二年前まで彼が着ていたものだった。ワノ国へ向かう船上で再会した時には少しだけ誂えが違った。いずれにせよ、もう。それを掛けて包んでくれた人は、どこにもいない。
 だから――消えてしまいたかったのに。
「……ちがう、こんなのぜんぶ……悪い夢で」
 決して帰れない思い出ばかり満ちたこの場所が、死後の世界だというのか。或いは、まだ使える命を途中で投げ出した者への罪科だと。
 もしそうだとしたら、マルコにとってはこれ以上ない罰と言えるだろう。この身が切り刻まれるよりもずっと痛い。大切な人たちはもうどこにもいないと、世界から永劫に突き付けられつづけるのだ――魂がすり減り、二度と生まれなくなるまで。
 震える手で、肩から滑り落ちた着物を拾い上げる。まぼろしとわかっていながら抱きしめれば、先ほど感じた残り香も温もりも、はじめからなかったかのように消え失せた。溢れる涙が布地に染みを作っていく。気が狂いそうなのに、どこか冷淡に現実を受け止めている自分がいる。死してなお、狂うことすら許されないのか。許されるはずがない。だって何も返せなかった。貰った愛に、優しさに、何ひとつ――……。
「こら……そんなに泣くと、目ェ溶けるぞ」
「……っ!」
 息を呑んだ。
 ふわりと白檀が薫る。夜に閉じ込められたように視界が翳り、気づけばマルコは誰かの腕の中にいた。
 ――嘘だ。そんなはずがない。どうせまたすぐ消える、たちの悪いまぼろしに決まっているのに。
「この馬鹿。やっと手放してやれると思ったのに、後追うような真似しやがって。どれだけ……連れて逝きたかったと思ってる……」
 声がきこえる。ずっと聞きたかった、思い出の中で曖昧になりかけていた声が。
 ちがう、後を追うつもりなんてなかった、いなくなってしまいたかっただけだと――そう叫びたくて、けれど、できなかった。
 連れて逝きたかったというその言葉が、狂おしいほどにうれしくて。
 その言葉を否定すれば、声の主ごと消えてしまうのではないかと、怖くて。
「イゾ、ウ……」
 会いたかった、ずっと一緒にいたかった。力及ばず守りきれなくても、共に戦い、一緒に連れて逝ってほしかった。封じ込めようとした気持ちが溢れ出して、恐る恐るマルコは手を伸ばした。求めてはいけないと、その資格が自分にないとどれほど言い聞かせても、感情は制御を失っていく。
 そうして抱き返したその体からは、心臓の鼓動が聞こえない。だから否応なしにわかってしまった。この奇跡のような邂逅は、紛れもなく今ここにある現実なのだと。
「マルコ……会いたかった……」
 ずっとこの腕に帰りたかった。
 この男の還る海で在りたかった。
 共に、船へと帰りたかった――……。
「おれ、も……会いたかったよい……」
 こんな幸せを手にして、許されるのだろうか。
 ――許されなくてもいい。自分だけならどんな罰を受けてもいい。だからどうか、もう二度と奪わないで。
 切なる願いは涙となって、また頬を伝った。