ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー

2/ゆりかごは波の色




「……少し落ち着いたか?」
「ん……」
 どれくらい、あたたかな抱擁の内にいただろう。海の底だから時間の流れがわかりづらいのか。或いはもう、時間の概念から解放され感覚が曖昧になりつつあるのだろうか。
 髪を梳く指の無骨さだとか、頬を寄せた胸板の厚さ――遠目に見た面差しから受ける印象とは裏腹の男らしさに、触れるたび懐かしさと共に安堵を覚える。たった一年離れて暮らし、再会と別れとが隣合わせだっただけなのに。もう何十年と傍にいなかったかのように懐かしいという感慨を抱いてしまうことが、恐ろしかった。
「ここは……」
「うん?」
「なんで、モビーなんだ? ずっと一人で、ここにいたのか……?」
 あの世というものの存在を無邪気に信じるような年頃はとっくに通り過ぎたが、もしもそんなものがあるならば空の上だろうとマルコは思っていた。遠い昔に絵物語で読んだ空想の、空島よりも遥か高くの理想郷。
 ここにはただ静寂の海がある。
 まるで世界に二人きりのように、波の音だけが時折届く。
「海の底よりも遥か彼方に、みんないるんだ」
「みんな……?」
「ああ。オヤジの言ってた通りだったな……人間みんな、海の子だって」
「オヤ、ジ……みんなって」
「エースも、サッチもいるよ」
 先に逝った者たちの名を聞けば胸が軋む。守れなかったときの痛みを思い出す。同時に、少しだけ安心もした。この深く暗い海の底で、イゾウが一人きりではなかったことに。
「……おれも、早くみんなに会いたい」
 気づけばマルコは、そんな願いを口にしていた。もう二度と会えなくてもいいから幸せでいてほしいと、死の淵で確かに祈ったのに――ここにいると、本当の気持ちを抑えきれなくなる。
 世界で一番安心できる場所で、誰よりも恋い慕った人に大切にされているから。
「だめだ」
 だからこそ否やを突き付けられた瞬間、絶望へと転げ落ちた。ひゅう、と喘鳴のように喉が鳴る。未だあたたかな腕の中にいるのでなければ、宥めるように羽根のあとを撫でていてくれなければ、拒絶されたと勘違いしていたかもしれない。
 それくらい、イゾウの声音は固かった。
「どう、して」
「お前はまだ死んでない。だから向こう側へ渡り切る前に、こうして匿えたんだ」
 そうして、知らされた現実も。マルコにとって別の形の絶望には違いなかった。
 また――自分は死に損なったのか。自ら死を選んでさえも、この悪魔の力を嫌う海に身を沈めてさえも。化け物のようで吐き気がする。生きたくないと望んでも宿主を生かしつづけるのなら、本当に不死を手に入れたも同然ではないか。
 そんなもの、マルコは少しも欲しくなかった。
 盾として役に立てないのなら、頑丈な体なんて要らない。
 大切な人たちを見送るばかりの、永遠にも等しい命なんて要らない。
「此処にそう長くはいられない。その間に決めてくれ」
「何、を……何を選べって、言うんだよい……」
「この先を生きていくのか、おれと共に還るのかを」
 イゾウが何を言っているのか、マルコには理解できなかった。答えは最初から決まっている。選ぶ権利があるのなら直ぐにでも、死出の旅を共にすることを選ぶ。
 それを確かめるために待っていてくれたんじゃないのか。
 あの言葉は、嘘だったのか。
「連れて逝きたかったって、言って、くれただろ……」
「言ったさ。どんなに綺麗事で取り繕ったところで、お前を手放したくないって気持ちは本心だ」
 ――手放したくない、なんて。どの口が言うのかと、ふつふつと腹の底で激情が沸き上がる。これは怒りだ。とても理不尽で身勝手な怒りこそ、深く沈んだ悲しみの更に奥で、ずっとずっと、マルコがひた隠しにしてきたものだった。
「っ……だったら、なんで! なんであのとき手を離した! おれの命くらい一緒に賭けてくれなかったんだ!」
 わかっている。本当は理解している。
 守れなかったから死なせてしまったなんて、如何に傲慢な考え方か。誰がいつ死んでもおかしくないほど、ティーチが隠し続けた牙は凶暴だった。海軍の全戦力は強大で、センゴクの智謀は自分たちの上を行った。想定外の同盟者を得て尚、そもそも討ち入りにおいて味方の軍勢が圧倒的に不利だった。
 わかっている。ずっと――わかっていた。
 この想いが独りよがりなどではないからこそ、こんなにも苦しいのだということを。
 三十年も一緒にいた。イゾウの想いが、優しさや義務感で応えてくれたようなものではないことくらい誰よりも理解している。初めは児戯にも似た淡い恋だった。喪失の痛みを分け合って愛になった。陰惨な裏切りによって血が流れるまでの穏やかな時間に、いつか陸で暮らす余生を夢見た気持ちは、きっと同じだった。
「最後まで一緒にいたかった……一秒でも長くお前の盾になって死ねたら、それでよかったのに……!」
 言った――言って、しまった。こんなふうに責めたくはなかったのに。ちゃんと正気で分を弁えて送り出せたあのときみたいに、笑って、最後まで生き抜いたことを労ってやらなければいけないとわかっているのに。寂しくて痛くて、誰にも言えずに抱え込んでいたことのすべてが、子どもの癇癪のように溢れ出して止まらない。
 情けなくて、惨めで、直ぐにでも消えてしまいたいのに、確と抱きしめられているからそれができない。もう覆しようのない現実を拒否して勝手なことばかりを口走ったのに、それでもイゾウはマルコを離してはくれなかった。
 困ったように笑って、ひとつずつ言葉を探しながらも――決して。
「せめて悔いなく命を使いたいとは、ずっと思っていた。おれたちが希望を、未来を切り開けるかもしれなかった時代はとっくに終わっていて……」
 業火の烟る城を飛んで、再び戦場へと戻るイゾウを見送ったとき。
 もう二度と会えないと思うくらい、最後に抱きしめてくれた体はボロボロだったけれど――それでも生きて帰るつもりだったこともまた知っている。再生の炎は、生きてほしいという祈りは、生きる意思を持たぬ者には宿らない。拒まれなかったことが答えだ。
「だけど、欲しかったのは生きる場所だ。死に場所なんかじゃない。お前の隣で生きるのを諦めたことなんてなかった――それが叶わないと、わかった後も」
 ――帰ってくる。必ず生きて――……お前のもとに戻る。
 その約束が、果たされることはなかったけれど。
 まちがいなくそれは、最上の愛だった。たとえ叶わずとも、マルコが何よりも欲しい言葉だった。
 全部、全部、全部――最初からここにあったのに。
 傍で照らしていてくれる光を失えば容易に、何もかもを見失った。本当に何も、見えなくなっていたのだ。
「連れて行かなかったのは……よくないものが、あの場にいると思ったからだ」
 溢れる涙を掬う指先が、拭った傍からまた濡れていく。引鉄と柄の痕が残るその手に何度も触れて、触ってもらった。治療のたびに、褥を共にするたびに。そのすべての時間が大切だった。
 張り裂けそうなほどの胸の痛みを伴って、愛おしい記憶たちが帰ってくる。
「よくない、もの……」
「これは結果論だが……おれはCP0と戦って死んだ」
「……っ!」
「奴らと対峙したのがおれだけでよかった。おれは避けられたはずの戦いに義を通した愚か者だが……お前がいても奴らが会わなかったことにした保証がどこにある? 戦って、共に死ねるならまだいい。お前が生け捕りにされて、手の届かない場所で尊厳を踏み躙られて、能力を奪うために殺されたかもしれないと思うと……そんなのは耐えられない」
 かねてより噂程度に囁かれてきた悪魔の実の『継承』方法は、マリンフォード頂上戦争のあの場において、多くの海兵や海賊の知るところとなった。世界政府やサイファーポールには、おそらく以前から周知のものであったのだろう。抵抗にあった場合の損耗を恐れてか、彼ら暗部の手が自身の元まで及ぶことはなかったものの――機が熟せば、忘れ形見のあの島が戦火に呑まれる可能性は十二分にあった。非加盟国の民間人にどれほどの被害が及ぼうと、政府がそれを顧みることはない。
 力及ばず、己が敵の手に落ちたとして。四皇『白ひげ』の、エドワード・ニューゲートの庇護を失ったマルコを体制側がどのように扱おうと、組織立って奪還或いは報復を行う力など、今の自分たちに残されてはいない。況して手負いのまま単騎で立ち向かうなど、以ての外だ。それでも彼らも――イゾウも、取り戻そうと足掻いてくれることを、マルコは痛いほどに理解している。
 だから――誰にも告げたことはないけれど。そうなる前に自分は海に命を返さなければいけないと、二年前の敗走の日からずっとマルコは考えていた。死に場所を探していたのは自分の方だ。
 マルコ自身にとっては肝心な時に役に立たない力であろうと、生と死の境界さえも超越し得る動物系幻獣種の実を、世界政府は可能ならば手元に置いておきたいはずだ。何のためにCP0があの場にいたのかをマルコは知らない。しかし何か別の――本来の目的を優先して、素知らぬ振りで通り過ぎてくれる確率は低いだろう。
 仮に向こうが開戦を拒む素振りを見せたとて――イゾウが戦うと決めたのなら、マルコも運命を共にする。その先に待ち受ける未来が、今ある現実より残酷なものだとしても。
 結果論だとイゾウは言うけれど。それが、あのとき行動を共にしなかった選択が、結果としてこれまで生きてきた中で最大の危機からマルコの命を救ったのだ。生きたまま心臓を抉り出され、悪魔の実ごと誰とも知らぬ誰かに奪われる――誰だって親しい相手に負わせたくはないだろう、そんな惨い終わりから。
「わかってくれ。お前が盾になってくれようとしたのと同じように、おれだってお前を守りたい。守りたかったんだよ……」
 ――昔から、そうだった。
 すぐに治るから、痛くないから大丈夫だと言っても聞かなくて。狙撃手が敵の手に落ちればどれほど酷い目に遭うかわかっているのかと、何度やめさせようとしても。砲火の集中する最前線、或いは殿へ、いつだってイゾウは駆け付ける。
 助けなくたってどうせ最後まで生き残る――そう、何度も言ったのに。
「っ……守らなくていいって、言ってる。ずっと……」
「ああ」
「勝手、すぎるよい……」
「ああ……わかってる。わかってるよ」
「なのに、うれしかった……たすけてくれて……。ほんとは、助けてって心の中で叫んでた。一人で死にそうになるたび、帰り道がわからなくなるたびに、何度も……!」
 痛くないわけがない、すぐ治るなら傷だらけになっていいわけじゃないだろ――出会ったばかりの打ち解けてもいない頃から、そう言ってくれていた。
 お前が最後まで生き残るなら、おれが最後まで守り抜く――想いを交わしてからは、怪我をして帰るたびそう言い聞かせて、抱きしめてくれた。
「……あのとき、本当は。気をつけろでも一緒に戦うでもなくて……行くなって、言いたかった。他の誰がどうなっても、あの人の仇を討てずに終わっても、お前にだけは……生きていてほしかった……!」
 その優しさが狂おしいほど愛しくて。
 何に代えても、喪いたくなかった。
 ――危険を承知で死地へと連れて行ったくせに。その覚悟に泥を塗りたくないと、物分かりのいいふりをして見送ったくせに。本当に勝手なのは、自分の方だ。
「ごめ、ん……ごめん、イゾウ……許さ、ないでくれ……」
 手放す覚悟も、添い遂げる勇気も持てぬまま。
 生を終えてから後悔をぶつけて困らせた。
 やはりこんな人間には、幸せになる資格などないのだと――ずっと帰りたかった腕を、振り解こうとして。
「……許すなと、言うなら」
「っ……」
「許すなと言うなら、おれの方だ」
 いっそうきつく、痛いほどに抱きしめられて、マルコは逃げ場を失った。
「どういう、こと……」
「お前に、忘れないでほしいと願ったんだ。この命が尽きる瞬間に。……傷つけるのはわかっていたが、お前をここまで追い詰めることになるとは、思わなかった」
 吐露するイゾウの声には苦渋が滲んでいる。
 その告白を聞いてマルコが感じたのは、悲しみでも怒りでも、絶望でもなかった。もっとずっと、身勝手で理不尽で。
「……さいご、まで」
 最後と、絞り出した言葉が震える。
「想ってて、くれてうれしい……うれしい、よい」
 そう――これは、置いていかれたことへの悲嘆などよりよほど身勝手で理不尽で、醜悪な感情だ。果たせなかった約束と共に繋いだ手が触れたあのとき、とっくに自分たちの別れは済んだものだとマルコは思っていた。
 その命が尽きるときに、思い浮かべてもらう資格さえ、自分にはないのだと――。
「ごめ、ん……ごめんな、その時間をもっと他の大事な人たちに使ってやれって、言わなきゃいけないのに……っ」
「ったく……何だってそう自分を卑下しやがる。お前を好きになったのも、最後までお前が心配だったのも、全部おれの勝手だろうが」
 今ひとたび頬を伝う涙を、節くれ立った指が、唇が掬い上げる。目の端から頬へ、そして顎へと降りてくるその感触にマルコが身を震わせたことを、イゾウは見逃してはくれなかった。
「……なあ、マルコ。触れてもいいか」
 それが今与えられている抱擁や、手を繋いだり涙を拭ったりするような温かいだけの触れ合いを指すのではないことくらい、すぐにわかった。
「お前を愛したい。この一年、会えなかった分も。……だめか?」
 イゾウが言葉を重ねる。少し掠れたその声は本当に触れたいと、求めてくれているとわかるような熱を孕んでいて、しかしマルコには、少しばかり不安があった。
「だめじゃ……ねえ、けど……」
「けど?」
「……前よりずっと、抱き心地悪いと思うよい」
 この数週間で随分と痩せた自覚はある。正気でいられる時に鏡を見てぎょっとした記憶がおぼろげながらも存在した。ずっと睡眠は休息になり得なかったし、戦いで負った傷は再生しきらず、まともに食事もできなかったのだから当然だ。
 もとより柔らかさなど持ち合わせてはいない体だった。あの海を生き抜くために鍛えた筋肉があれば骨を抱くよりはマシだっただろうが、それすらも今は落ちてしまった。
「……確かに随分痩せたとは思うし、体が辛いなら無理強いはしないが」
「全然、どこも辛くなんて……!」
 弾かれたようにマルコは顔を上げた。そうして、首を左右に振る。現世で自死を試みるまでは自覚がなくとも体も悲鳴をあげていたが、ここへ来てからは不思議な程に落ち着いている。
「どんな姿だろうとお前はお前だし、もうとっくにおれのものだろ。――いいから、全部寄越せ」
 どくんと、心臓が大きく跳ねた。榛色の瞳に射抜かれて、体の奥底からじわりと熱が沸き上がる。
「はは……海賊みてえ」
「何だ、知らなかったのか?」
 はにかむような笑みと共に引き寄せられて、しかしそこには確かに、強い意思を宿した眼差しがあった。包み込む腕は優しいのに、どうしたってこの瞳からは逃げられやしないと――ずっと前からマルコは知っていた。
「……うん。全部、あげるよい……」
 身を委ね頬を擦り寄せれば自然と、唇が触れ合いそうになる。多幸感に満ちた体はふわふわと熱を孕んでいる。
「ん……ぁ、はあ……っ」
 吐息が混ざり合うほどの距離で、榛色の瞳が揺れる。未だ唇は重ならずに、繋いだ片方の手や抱き寄せられた腰を、さわさわと指先が撫でていく。
「何て声出してんだ、これだけで……」
「だっ、て、さわりかた、あっ、やらしいよい」
 それだけでだめになる。弱いところをじっくりと溶かされたときを思い出す。肚の奥を掻き回された感覚が返ってきてしまう。だって――だって、最後に抱いてもらったのはいつだっけ。熱に浮かされた頭でマルコは記憶を手繰った。
 ――一年前のあの日だ。二人きりの隠遁生活が終わる前夜、永遠にも思えるほど長く抱き合って、少しだけいつもより激しくて。別れを暗示するかのような夕暮れが、痛くて堪らなかったのを覚えている。
「は……っこんなんじゃなくて、もっと」
「もっと?」
「……ちゃんとさわって、抱いてほし――んぅ」
 真っ直ぐに目を見て懇願して、ようやく口づけが降ってくる。ふにふにと何度も優しく啄んでまた焦らされるから、袖を引いて、はやく暴いてと促した。
 先をねだったときにイゾウが焦りと苛立ちを滲ませた表情をするのを、薄く開いたまぶたの隙間から覗くのが好きだった。著しく低下した視力に回復の兆しはなかったけれど、この間近の景色だけは以前と変わらない。彼の優しさも誠実さも独り占めにしていいものではないけれど、夜に垣間見せる、海の男らしい苛烈な独占欲だけは、誰にも――……。
「ん……ふ……っんぁ、んん」
 唇と歯列をこじ開けた舌が、蕩けたがっている粘膜を蹂躙する。余すところなく形をなぞって口腔を侵される。被虐趣味などないはずなのに、支配なんて大嫌いな言葉なのに、征服されているようでぞくりと背筋が震えた。
「んんぅ、ん、~~っ!」
 下腹が痛いくらい熱くて、怖くて逃げそうになる腰をがっちりと捕えられている。逃げられない。この船が生と死の狭間にあるからか、能力も発動しない――暴発させて快楽を逃がすということが、できない。腰を抱く手がトン、トンと不規則に尾てい骨の辺りを叩いて、そのまま尻のあわいを掻き分けていきそうな際どい場所まですりりと撫でる。だめなのに、尾羽根の付け根は人獣のときに触られたら耐えられないくらい弱いのに。
 もうとっくに、下着はぐじゅぐじゅに濡れている。愛撫をつづけるイゾウの腕にぎゅっと縋りつき、されるがまま受け入れることしかマルコにはできなかった。くらくらと酩酊する。だめ、だめ、キスだけでいく――そんなはしたない言葉が、声にならぬまま喉元でわだかまってそうして。
「っふあ、あぁあ、あッ……!」
 今の今までされていた気持ちいいことだけでも、だめだったのに。
 服の上からぐりぐりと胸の粒を押し潰されて、頭の天辺からつま先までぱちぱちと何かが駆け抜ける。仰け反った拍子に離れた唇から、己のものとは思えないほど甘ったるい嬌声がこぼれ出て反響する。
「本当に、弱いな……ここ」
 いつの間にか布地を押し上げるほど隆起していたそこを、指の腹が撫でて、爪の先でカリカリと引っ掻かれて。
「あッ、あぁ、んっ……! やあっ、も、」
「可愛い……」
「んん、んーーっ……!」
 とめどなく与えられる甘やかな絶頂ごと、深い口づけに溺れていく。
 ――もう、どこでいってるのか、わかんねえ……。
 こんなふうに弱いところを全部責められながら、キスもしたまま、怒張で突き上げられたら――だめなところを抉じ開けられてしまったら。空想に下腹部が疼く。今よりもっと深く激しく、マルコの体はされたがっている。身も心も全部イゾウのものだと、何度でもわからせて刻みつけてほしいと。
「ん、ん~~っ、は、んぁう……!」
 息も絶え絶えに果てる。
 弛緩し崩れ落ちそうになる体を抱き留められて、しかし安堵する暇すらなく、骨ばった手がベルトの留め具を外しはじめた。
 暴かれてしまう――まだ触れられてもいないのに吐精して、ぐしょぐしょになった股の有り様を。
「すげえ濡れてる……ほら、糸まで引いて」
「っ……だって、気持ちいいの、つよすぎるから」
 下着ごと衣服をずり下ろされると、粗相をしたみたいに濡れた下生えが露になる。そこを掻き分けられるだけでもおかしくなりそうなのに、粘ついたものを見せつけるように掬い上げた指がその口元へと運ばれていった。
「や……! ば、ばかっ、そんなの舐めるな!」
 精液とカウパーの混じり合ったそれが、赤い舌の上に落ちる。飲み下して上下する喉の動きを知っている。唇を合わせただけで固くなるはしたない胸の先を、しとどに濡れた核心を口でされたときの、頭が真っ白になりそうな快感ごと、思い出してしまう。
「もっとすごいことしてんのに、今更じゃねえか?」
「そ、だけど……あうっ」
 ぬるりと、萎れたペニスに手のひらが這う。滴る体液ごと扱かれて、先の気持ちいいところを抉られて、堪らず指先がきゅっと丸くなった。
「も、勃たない、出せないから……! そこやだっ、や、あぁあっ!」
「出せなくてもよくなれんだろ」
「やだ、ナカがいい……! 腹ん中、はやくこれで……犯して」
「~~っ……お前なあ!」
「一緒にいきたい……」
 熱を帯びた瞳を間近から見つめて、固く兆したものを撫でる。愛しくて何度も指を這わせれば、苦しげな吐息が耳朶を擽った。
 自惚れでなければこういうとき、こうやってマルコが何かをねだるのにイゾウはめっぽう弱い。それくらいは知っている。マルコの無自覚な恋が一足飛びに愛へと形を変えるよりもずっと前から、想っていてくれていたことも。大好きな友達だからとはしゃいで飛び付いては肩を組み、手を繋いで、そのたび逸らされる真っ赤な頬の意味に気づいた時は、さすがに申し訳無さを覚えたものだ。
 苛立ちをぶつけるように乱雑に、イゾウが結い上げた髪を解く。貫かれているときに解きたかったなと、少しだけマルコは残念に思った。長い黒髪が夜の帳のようで、どこにいても世界に二人きりみたいで好きだった。
 尤も、そんな感傷に浸る余裕はすぐに根こそぎ奪われてしまったけれど。
「ったく……ここが一番弱いくせに」
「あっ、あ、ゆび……はいって」
「一緒にイくまで――トぶなよ、マルコ」
「ぅあ……! あッ!」
 一段低い声で――こんなタイミングで名前を呼ぶのは、ずるい。
 入ってくる。狭い肉襞を掻き分けて、ごつごつとした指が彼のためだけにひらかれた場所を征服していく。その形のすべてをマルコは覚えている。中に突き立てられぐにぐにと内側を押し広げる指も、首に縋り付いて見下ろした視線の先、腹に付きそうなほど怒張したこの男のペニスも。
「あ、ふぁあ、ああっ」
 挿れられればすぐに欲しがって、絡みつき締め付けてしまう。
「こら……指、食い千切る気か?」
「らっ、て、すき、すきで、あっ、そこ、つぶしちゃや……っ」
 指の腹の固い部分が、ぐりぐりと前立腺を押し上げる。視界が白みかけて、マルコは必死で己を暴く男に縋った。
 しがみついた肩から外套が滑り落ちる。弱い場所を掻き回されては身を擦り寄せるそのたびに、薄紫の着物も乱れていく。イゾウの、裸の背に――光月家の家紋に爪を立てたくなくて、こうやって向き合いながら愛されるとき、いつもマルコはどうしてよいかわからなかった。
「んぁ、あ、はっ……」
 行き場に困った、快楽に打ち震える両の手で辿々しく、長い髪を撫でてみる。身じろぐ都度少しずつ、少しずつ体勢が崩れ、胸元に頭を抱きかかえるようになっていって。
「っあん……!」
 ぬるりと、舌が乳嘴を捕らえる。
 自ら弱点を差し出す形になっていたと、気づいたときには遅かった。
「あ、らめ、いまっ、ちくび、だめ……!」
 唇で軽く挟んでから、形を確かめるように、或いは押し潰すように、淵から先端までを舌が這い回る。少し痛いくらいに歯を立て、きつくきつく吸い上げる。ナカを拡げる指はそのままに、余すところなく胸を愛撫されている。
「わかるか? 指動かしてねえのに、ここでイくたび締まってる」
「そ、こぇ、しゃべっちゃ、あっ、あン! ぁ~~っ……!」
 ふわふわと甘く痺れて、戻ってこられなくなりそうだった。
 殆ど意識は飛びかけていて、一緒に果てたいという切なる願いが、かろうじてその糸を繋いでいた。
「は、……はぁっ……ぁ……」
「……そろそろ、いいか? おれも限界なんだが」
「げん、かい……?」
「ずっと耳元で、可愛い声で鳴かれてどうにかなりそうだよ」
「ん――ばか、やだ……そういうの、」
 可愛い、だなんて。愛おしいと同義ではなくそれ以上の意味を込めて言われるのは、この男に閨で可愛がられているときくらいで。
 体が覚えている。可愛いと囁かれた後、どのように溶かされるのかを。
「ぁ……」
「マルコ……ッ」
「う、んぁ、イゾ……っ」
 指が引き抜かれてから間髪を入れずに、もっと太くて固いものがみちみちと後孔を押し広げ入ってくる。感じやすい場所をカリが引っ掛けては責め立てる。ああ、だめ、下から突き上げられたら、最初から奥に――与えられるソレ思い描きマルコが身を捩った瞬間にはもう、びしゃりと腹に温かいものが散っていた。
「は……ひ、ぅあ、あ……ッ」
 洪水のように鈴口から透明な液体が溢れて止まない。二人の腹を、結合部を、大腿を濡らしてシーツにまで滴っていく。
「っ……ハメただけで潮吹いて……敏感、すぎだろ……!」
「あ、ア! らぇ、いま、うごいひゃ……!」
 とちゅとちゅと花芯を捏ねられている。そこを抉じ開けて、更に奥を蹂躙するための準備をするように丹念に、執拗に。
 その奥がほんとうに、子を成すためのゆりかごだったらよかったのにと何度も想像だけはした。幻獣に性別の概念はないという解釈を能力の運用レベルまで落とし込めば、おそらくは実現可能だった。そうしたらずっと隣にいることだって――忘れ形見を抱いて、生きていくことだって――何度も思っては、産み落とされる子の尊厳を顧みもしない考えに嫌気が差した。子どもは親の欲求を叶えるための道具などではないと、誰より尊敬する父はその背中で語っていたのに。
「は――だめって言う割に、考え事する余裕は、あんのか……!」
「あぁうっ、ひ、あ~~っ!」
 一旦浅瀬まで引き抜かれた剛直が、再び奥へと叩き付けられる。ぶつかった場所でごぷりと、熱いものが爆ぜるのを感じてまぶたの裏で火花が散る。感傷は有耶無耶に消し飛んで、ただ快楽に揺さぶられるだけの器官と成り果てたペニスの先端から、また、ぽたぽたと潮が滴った。
「う……っはぁ、ハ……」
「ぁ――おな、か、あつ……」
 降りてきて、はくはくと口を開いては閉じるそこは、今にも内側へと肉棒を迎え入れてしまいそうだ。ベッドに寝かされていたならまだ、抉じ開けられるまでは耐えられた。しかし腿の上に抱え上げられたこの体勢では、幾度も昇り詰めた余韻に打ち震える体を支えきれない。
「は……っ、危ないから、そろそろ外そうな」
「ふ、ぅあ……だめっ、イゾ……んん、」
 眼鏡を外そうとする指先が頬を、耳を掠める刺激さえもぐずぐずに蕩け切った体は過敏に拾い上げる。
 自重でずりずりと滑り落ちていく。ナカで再び勃ち上がったものが、膨張しながら入り口を押し広げる。止めてと言い募るはずだった唇をキスで塞がれて、口内を犯される快楽にいっそう、触れ合った奥は従順にひらいていって。
「んぁっ……あ、いっかい、ぬけって、え……」
「どうして? できるだろ、このまま」
「だ、め、よい……なか、で、おっきくしちゃ、ぁん、だめっ、あし、ちから、はいんな……っ」
「は……無理な相談、だな……っんな、可愛い声で鳴かれちゃ」
「~~っあ、いっ、おく、おくあいちゃ、あッ」
 ――限界だった。
 がくんと、膝から力が抜ける。
「ひああっ、ぁ、あ、あぁッ、あ~~っ……!」
 カリの最も太いところが、引っ掛かっていた淵を越え、ぬるりと最奥に滑り込んだ。そこはまるで蜜壺のように熟れ切って、咥え込んだ愛しい男を離さず、もっと犯してほしいと言わんばかりにきゅうきゅうと絡みつく。
 頭の天辺からつま先までひっきりなしに駆け抜ける快感に溺れ、マルコはただただ、目の前の恋人に縋りつくことしかできなくなった。
「うっ……」
 くぐもった声が胸元でこぼれ、吐息が肌を柔く撫でる。
「ぁ……わ、りぃ、せなかっ」
 その背に爪を突き立ててしまったのだと、一拍遅れて理解が追い付いた。奥を拓かれて理性が効かなくなるときはいつも、そうだ。イゾウの背中に、そこに刻まれた誇りに絶対に傷を付けたくないのに、とめどのない耽溺が恐ろしくて縋ってしまう。
 血が滲むほど食い込んだ爪で、痛みに低く呻かせて、ようやく己が何を仕出かしたか気づく。申し訳なさと恥ずかしさが込み上げて、快楽とは別の涙が溢れそうになる。しかし服だとか、シーツだとか、別のものにマルコが縋ることを、イゾウは決して許さなかった。
「いいから……っ、いい子……ちゃんとぎゅってできて、えらいな」
「ふあ、あ、そえ、やめっ……わけ、わかんなく、なるっ……」
 あまつさえ、頑是ない子どもにするように頭を撫でて、爪痕を残してまで縋り付いたことを褒めるのだ。マルコが甘やかされることに弱いと知っていて、更にぐずぐずに蕩かして、離れることなど許さないとでも言うように。
 背骨のラインをなぞりながら、するすると、汗ばんだ手が滑り降りていく。
「っあ! やあぁ……っ!」
 尾てい骨のあたりで止まった指先は、尻のあわいをゆるやかに往復しながら、今は幻出することのない尾羽の付け根をくるくると弄ぶ。腰を支えてくれていたはずのもう一方の手は反対に、脇腹を撫で上げて上へ上へと向かう。安定を失った体が傾いで、ますますマルコは己を翻弄する男へと縋り付くしかなくなって、そうして。
 気づいたときには胸まで辿り着いたイゾウの手が、指の腹が、ぷくりと膨れ上がった乳輪の淵から敏感な突端までを掻き撫でていた。
「あぁうっ……! あ、あァっ! はぁあっ……」
 ――こ、れ、だめ、だめなやつ……!
 尾を弄び、乳首を捏ね回す指が。ぐずぐずに蕩けきったナカを突き上げる怒張が、逃げ場のない快感をひっきりなしに叩き付けてくる。くたりと下を向いたままのペニスの先端から、びしゃびしゃと体液が滴ってまた脚を濡らす。
 されたくて、されたくなかった、大好きで怖いことがすべて、真綿のように全身を包み込んでいた。
「は……っ、こうされたかったんだろ? さっき、全部声に、出てた……ッ」
「~~っ、ひ、あッ、うそ、ぁ、あふ、ん、んんぅっ!」
 突き付けられた事実への驚愕と羞恥で、真っ白になった頭が追いつかないまま、唇を嬌声ごと塞がれる。
 あのとき。キスをしながら弱いところを愛撫して、腹の奥も埋めてほしいと――もっとめちゃくちゃにされたいと、思い描いていたはしたない願望を、全部口に出してしまっていたなんて。恥ずかしくて、気持ちよくて、叶えてくれたことがうれしくて――だいすきで、なにも、かんがえられなくなっていく。
「――ぁ、ふ、うあ、やだ、キス」
 口づけが止んで、てらてらとひかる唾液が糸を引く。
「後で嫌ってほどしてやる、から……っ、今はイってる声、聞かせろよ」
「あぎゅ、ひ、あッ、だ、め、らえなのっ、も、きもちいの、あふれちゃ、あぁあっ、あ……ぁ、あぁ……っ」
 名残惜しさにじっと見つめた唇の、真っ赤な紅は殆ど滲み、落ちてしまっている。あの赤色が自身の唇に、胸に、口で愛撫されたばしょの全部にうつって、この男のものだと記されていくのが堪らなく好きだった。
 そんな感慨に涙を滲ませながら、くらくらと、意識が効かなくなっていく。奥に捩じ込んだ肉棒でぐりぐりと花芯を蹂躙されるたび、バチリ、火花が散って視界が目映く白む。
「ぁ――あ、す、き……っイゾ、すき、だいすき……っ」
「~~っ……ぅ、あッ、マルコ……!」
「っふあ、ぁ……!」
 体中を激しく掻き乱されたのに、深い眠りに落ちていくように穏やかな多幸感がそこにあった。子宮になりそこねた揺籃へと、熱い飛沫が、溢れてしまいそうなほどとめどなく叩き付けられる。
「あ……は、ぁ……ん、んん……」
 質量の半減したペニスがずるりと引き抜かれ、その荒々しさと入れ替わるようにくちづけが降りそそぐ。溺れながら酸素を分け合うように、乱れた呼吸を整える間もなく、柔い粘膜を侵されていく。在りし日のまぼろしの中で、互いの吐息が、熱が、触れ方のすべてが、生前に愛し愛されたかたちのままで――まるで。
「ん……へへ……」
「どうした?」
「……ほんとに、キスしてくれたなあって。思っただけだよい」
 まるで失意と絶望の奥底で息をしていた昨日までが悪い夢で、今ここにある幸いが現実なのだと錯覚しそうになる。否、現実だと、そう思いたいのだ。
 ――だって。どれほどの猶予を与えられたって、耐えられるわけがない。受け入れて生きていくなんてできやしない。それができるなら、自ら命を絶つような真似はしない。
 こんなにもあたたかくて、まだ傍にいて、愛してくれているのに。
 なのに――触れ合った体からは、心臓の鼓動だけが聞こえない。これは夢なのだと、この夢から醒めて明日を生きていくのならば、もうどこにもイゾウはいないのだと、そのことが、堪らなく苦しかった。
 ああ――だめ、だめだ、困らせるだけなのに。熱が引いて、快楽が緩やかな余韻へと変わっていくにつれて、たやすく絶望の足音が耳に届く。
「マルコ……?」
 ずっと抱き留めてくれていた腕を引く。抱擁を解かぬままふたりシーツの海へと溺れて、長い黒髪が夜の帷のように視界を少しだけ暗くする。その景色がマルコは好きだった。
 ――好きだった、なんて。なにひとつ過去にしたくはないのに。
「言えよ、思ってること全部。ここにいる間は叶えてやるから」
「……そんな気前のいいこと言って。後悔しても知らねえよい」
 琥珀色の瞳が間近で瞬く。
 星のようだった。何度見ても色褪せない、近くて遠い願いの星。
「お前の我が侭なんて可愛いもんだったろ、昔から」
「なら……もっと、触って。キスして、抱きしめて、手も、繋いでてほしい」
「ああ、それくらいお安い御用だ」
「色んなこと喋りたい。何でもないことでいいから、お前の声、聞きたいよい」
「そうだな。おれも……そうしたかった。多分、ずっと」
「……頭ん中、真っ白になるくらい。ぜんぶ触って……愛して」
「ああ。……それから?」
 ささやかな、けれど本当ならもう叶うはずのない我が侭をひとつ、またひとつとマルコは並べていく。言葉にした傍から、頬を撫でた手が髪を梳いて、慈雨のごとく口づけが降る。すっかり落ちてしまった紅の名残を追うようにその唇をなぞれば、指先を絡め取られて、額がこつりと触れ合って。生きて傍にいられた頃の、世界の残酷さの隙間で寄り添い居られた、幸福な時間のようだった。
「もう、ひとりにしないで……ずっと、そばにいてほしい……」
 そんな穏やかな日々を、マルコは当たり前だと信じていた――否、信じた振りをして、喪うことに怯え続けた。あるはずもない永遠を手放したくないと、もっと早くに告げていれば結末は変わったのだろうか。
 結末、そう――結末なのだ。二人で生きる未来は既に閉ざされ、死という別離は刻まれて消えることのない過去だ。
 これは束の間の、泡沫の夢。
 幸せを、愛しさを噛み締めるたび、辿り着けなかった明日が棘になる。
「それ、は……お前を連れて逝って、いいってことか」
 苦しげにイゾウの声が揺れる。そのまなざしにも苦渋の色が滲んでいるとわかるのに、何故だか視界がぼやけてマルコにはそれを見て取ることができない。おかしいな、ここでは以前の視力を取り戻しているのに。眦をそっと拭う彼の指先がその答えだと知っていて、マルコは気づかない振りをした。
「違うよい。……わかってるくせに」
「……すまないが、それだけは」
 無理だと、そう告げる声を聞きたくなくてキスで塞ぐ。宥めるようにそっと、隙間なく抱き寄せられても、胸に空いた穴は塞がらない。
「わかってる。ごめん、困らせて……でも」
 絶対に叶うことのない一番の願いを、口にせずにはいられなかった。これの、こんな我が侭のどこが、可愛いものだと言うのだろう。
「一緒に、帰りたい……」
 このまま、ずっと二人でいたい――生きることも命の廻りへと還ることも捨てて、海の底で溶け合って消えてしまいたかった。
 そんな選択は今日までに皆からもらった、すべての愛への冒涜だとわかっている。泣くことが報いることかと、何度も思った。この再会の場という奇跡だけでも、一生を差し出してさえ足りぬほどの得難いものだ。
 それでも停滞の心地よさを忘れ去るには、まだ時間が必要だった。
 幸福に満ちた今を手放すには――どれほど時間があっても足りなかった。






◆◆◆





 ああ――……しくじった。
 見上げた空が、ところどころ赤く欠けている。海水に浸った体から力が抜けていく。この状態では能力による再生も見込めない――早く船に戻らなければと思うのに、血を流しすぎたせいか、指先ひとつ動かせそうもない。
 嵐の中で戦端が開かれ、見習いと非戦闘員が船室に押し込められようとした矢先のことだった。避難する者たちへと向けて飛来した砲弾を、防げる大人は誰もいなかった。咄嗟にそれを受け止めたマルコは、船外へと放り出され岩礁に叩きつけられた。
 戦いはまだ続いているのだろうか。だとしたら、迎えを寄越せるような状況ではないはずだ。きっと助けが来る頃には、この命は尽きている。
 短い人生だったなあと、諦めにも似た思いが浮かぶ。
 たった数年の船旅だったけれど、それでも、確かに幸せな日々だった――本当に?
 欲を言えばもっと旅を続けたかったし、最近仲間に加わった彼らとも、ちゃんと仲良くなりたかった。未練を手繰れば涙が滲む。
 でも、だけど――それでも、きっと。こんな痛い思いを他の誰かがするよりは、これは正しいことのはずで。だから寂しいなんて、思うことが間違いで――。
「――……!」
 声がきこえる。誰かが、波を掻き分けて近づく人影が叫んでいる。そうしてこちらへと伸びる手が、あって。
「ッ……マルコ!」
 人の体温に、触れる。先ほど思い浮かべた内の一人が、イゾウが、今にも泣きそうな顔で沈みかけていた体を支えてくれている。
 ――なまえ、はじめてよんでくれた……。
 そんな場違いな感慨が胸に満ちた。同じ年だと聞いていた。もっと話をしたかったけれど、彼はきっと、あまり自分たちのことを好きではないと、あと一歩が踏み出せずにいて――なのに。この嵐の中を、戦いの続く中を、助けにきてくれたのか。
「ぁ……」
「喋るな……! 絶対連れて帰るから、だから――」
 助けてくれて、迎えに来てくれてありがとうと、言わなければいけないのに。
 涙が溢れて、苦しくて、そこでマルコの意識は途切れた。背丈も力も、そう変わらないはずの腕の中がとてもあたたかくて、父と慕う人の背中の次に安心できると――……。
「……ん、」
「気がついたか」
 ひどく喉が渇いていた。数年に一度あるかないかの、風邪をこじらせた時のように。実際、ずきずきと頭の芯を刺す痛みは、発熱に伴うそれだった。
 まだ眠っていたいと、そう思うのに。手を握っていてくれたのが誰かを確かめたくて、マルコは重い瞼を持ち上げた。
「う……イゾウ……?」
「ああ。……よかった、もう、目を覚まさないんじゃないかと」
 いつも険しいばかりの顔に安堵の色が滲む。こんなふうに笑うんだ。こんなふうに、心配してくれるんだ――熱のせいではない、何かが。あたたかいものが胸に込み上げる。
「水、飲めるか?」
「うん……」
 抱き起こして、背中を支えてくれる手がひやりと心地よかったから。水を注いだ吸い飲みを差し出す方の手に、思わずマルコは頬を擦り寄せていた。
「っ……!」
 びくりとイゾウの肩が跳ねる。
「……あ。わりい、イヤだったか?」
「べ、つに! 嫌じゃ! ないが……! 他の誰にもするなよ、こういうこと」
「なんで……?」
「何ででもだ!」
 ふいと背けられた頬が赤い。風邪ではなく、おそらく出血のショックによる熱だから、うつしてしまったということはないはずだけれど――なぜだろう。首を傾げてもよくわからずに、頭がくらくらするばかりだ。
「あ、そうだ……ありがとうな、助けにきてくれて」
 船室にいて、こうして看護を受けているということは、あの後無事にモビーに帰れたということだ。あんな危険な状況下で、イゾウが助けにきてくれなかったら――きっと今頃自身の命はなかっただろう。
「それは……礼を言うのはこちらの方だ。あのとき、お前が砲弾を受け止めてくれなければ、どれだけの被害が出たことか。……だが」
「……?」
「もう、あんな無茶はするな。血だらけのお前を見て、生きた心地がしなかった……」
 震えるその声は、とても痛そうだった。
 肩を組んで歌い踊るのも嫌がっていた男に、ぎゅっと、抱きしめられている。――自分以外の、心臓の鼓動を感じる。
「あれくらい、平気だよい。傷だってほら、なーんにもなかったみたいに全部治ってる」
「熱出して寝込んで、三日も目を覚まさなくて……どこが平気だって言うんだ」
 腕に込められた力が強くなる。ああ、こうやって優しくされるのは少し、痛い。ずっと前から家族だったこの船の皆もきっと同じように叱って、心配して、抱きしめてくれるのに――どうして。
「でも……他の誰かが、同じ怪我したら。きっとそのまま、死んじゃうから」
「……それはお前が、無茶して死にかけていい理由になるのか。治せるからって痛みを感じないわけじゃないだろ」
 どうして、そんなことを言うのだろう。治せるのだからそれでいいじゃないか。家族を守って怪我を負うなら、それはマルコにとって少しも痛いことではなかった。化け物と蔑まれたこの力が、誰かの役に立つのなら。攫われていいように扱われて、再生するからと何度も嬲られた地獄のような苦痛に比べれば、痛くなんてなかったのに。
「この船の連中は、命懸けで盾にならなきゃお前を捨てるような奴らなのか?」
「違う! 何でそんなひどいこと言うんだよい……!」
「じゃなきゃ何だってあんな真似をする!」
 マルコは顔を上げ、抱擁を解いてはくれない男を睨みつけた。怒鳴ったせいで頭痛が増して、じわりと涙が滲む。眦を吊り上げたイゾウの顔を見れば嫌でもわかった。彼が家族を――マルコのいっとう大切な人たちを貶めるために言ったのではないことくらい。
「……だって、誰にも、いなくなってほしくない」
 やっと見つけた止まり木。なによりも大切な宝物。
 この船に集う人たちに、ずっと健やかでいてほしい。それを守るために自分が消えて、そのせいでいっとき、翳りが落ちたとしても。そこに自分がいなくても。
 拭おうとする手が持ち上げられなくて、後からあとから、あふれる涙が頬を伝いながら落ちていく。ああ、いやだな。まだ何の役にも立てない見習いだけれど、人前で泣くような歳の頃は、とっくに過ぎ去ったつもりでいたのに。
 ハア、と溜息がひとつ落ちる。それがやけに大きく響いた気がして、マルコはびくりと肩を震わせた。呆れられたくない、嫌われたくないと、目の前の相手に対して思っている――こんなに長く言葉を交わしたのは、初めてのことなのに。
「だったら……おれが守ってやる」
「え……」
 思いもしなかった言葉と共に、再び痛いほどに抱きしめられている。
「お前が自分で、自分のことを大切にできないって言うなら――……」
 まだ、出会って間もないのに。あまり好かれてはいなかった自覚もあるのに。どうしてそんなことが言えるのだろう。彼には自分なんかよりもずっと、守りたくて守らなければいけない、大事な人がいるというのに。いつかはその人と、帰る故郷があるくせに。
「なんで……そんな、こと」
「わからない。わからないが……どうしても、嫌だ。お前が傷つくことが」
「ずるい奴……だよい……」
 曖昧に濁されたその想いを知るのは、それから数年後のことになる。
 わけがわからなくて、ずるいとか、ひどいとか、言いたいことはいくらもあった。それでもマルコは、イゾウの腕を振り解くことはしなかった。だって、あのとき、死に瀕した冷たい水面で感じたことは間違いじゃなかった。ここが父の背中の次に安心できる場所だと、そう思ったのは――……。
 だから――だから。足枷にだけは、なりたくなかったのに。
「ッ……あぁああああ!」
 視界が真っ赤に染まる。
「ゼハハハハハ! アンタのそんな悲鳴、初めて聞いたぜ……!」
 何も視えなくなって、暗闇をただ墜ちていく。そのまま甲板に、或いは海に叩き付けられて、失血と落下の衝撃によって自身の命は終わるのだと思っていた。
「……っおい、マルコ! マルコ……! しっかりしろ!」
 ――なのに、優しくてあたたかい腕の中にいる。守らなくていいと何度言っても聞かなかった、誰より愛しい男が、こうしてまた助けてくれた。
「へへ……おまえなら、たすけてくれるって……しんじて、た」
 放っておいてくれていいのにと心底思う一方で、きっと心のどこかでは、助けを待っていたのだ。安堵が胸を満たしていく。たとえ差し伸べられた手が間に合わずに絶命したとて、この腕に帰れたのなら幸せだった。
「そ、んなこと……言ってる場合か、クソ……! なんで、なんで再生しない……っ!」
 助けたいと願ってくれている、悲痛な声に胸が軋む。
 それでも――今、せいぜいあと数分の猶予を与えられた自己の再生のために炎を灯すわけにはいかなかった。そんなことをすれば、今なお戦い続けている皆に分けた守護の力を保てなくなる。
「おいて、にげて……も、う……飛べねえ、から……」
 どのみち、飛翔するほどの余力はもう残されていない。息を吹き返したとて戦うこともできやしないのだ。まだ動ける者たちを、体力も機動力も失ったお荷物に付き合わせて死なせるわけにはいかない。
「お前……ッ馬鹿! おれたちに分けてる炎を早く消せ……!」
 最後の船長命令に自分は背くことになるけれど、あのひとの亡き今、一人でも多くを生きて帰すことが次席としての役目だろう。それがあの苦い敗走の日から、今日まで生きてきた意味だった。
 誰に強制されたわけでもなく、命の順番ならば決まっていた。最後まで生きて彼の人の盾となることが叶わなかったいま、果たせることがあるとすればそれだけだから。
 ――なのに。
 どうして、まだ、守ろうとするのか。
 どうして――置いて逃げて、くれないのだろう。
「やめ、ろ……やめてくれ、頼むから……! 生きろ……おれのために、生きてくれ……」
 雨が降っていた。星も月もない真っ暗な夜だというのに、あたたかな雫が頬へ、瞼へと落ちてくる。
 命より大事な人に、生きろと、望まれている。
 自分が生きることが、この男にとっての救いとなるのなら。
 それが――まだ生きていていい理由だと、いうのなら――……。