ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー

3/マリンスノーの約束




 水底に届く海の音は、波というよりも星そのものの胎動だ。鯨がその生を終える時は、星に命を返すようにして海底へと沈み行くのだという。ならば白鯨の船に揺られて生きた自分たちが、生と死の狭間でこうして海の深くに安息の地を探すのは、至極当然のことなのかもしれない。
「ん……」
 腕に抱いた確かな体温。身動ぎに伴って金糸が揺れる様を、こうして眺めているのがイゾウは好きだった。二度と見ることは叶わないと思っていた。まだ生の途上にあるその命を投げ出させてしまったことへの悔恨は尽きないが、再び触れ合い、言葉を交わせることが至上の喜びであるのも事実だ。
 最後に気をやってからマルコは眠りつづけている。体を拭き清め、服を着せ替えて寝台に横たえても目を覚まさない。どこかいとけないその寝顔を、飽きることなくイゾウはずっと見つめていた。生前に贈りたくて、贈れずにこの船と沈んだ浴衣の藍の手網柄をあしらった白地が、血色を取り戻した肌によく映えた。
 その内側に碧い瞳を閉ざした瞼を、今もまた涙の伝う頬をそっと指先で撫ぜる。泣き腫らした目尻が赤く染まって痛々しい。昨夜は――時間の流れから切り離されたこの場所で呼称するのが正確かはわからないが――散々泣かせてしまった。もう二度と会えないと思っていた、手放して逝く覚悟をして尚余りある未練の分をぶつけるようにして荒々しく抱いた自覚はある。いつかこの束の間の逢瀬が終わるときの、どちらを取ることにも痛みが伴う選択を突き付けもした。
 自分がいなくなった後に、そう易々とマルコが立ち直れないだろうことならば予見していた。それでも時の流れと共に傷は癒えて、いつかは穏やかに笑って日々を過ごせるのだろうとも。その認識が誤りであったことを、こうして死んで、望外の奇跡を得たことで初めて知った。ならば他にあの混戦の最中で選べる道があったのかといえば、殆どないに等しいが――……。
「とんだ大馬鹿者だな、おれは……」
 依存しているのは自分ばかりだと思っていた。マルコの弱さも脆さも誰よりも近くで見て知っていたのに、それを補って余りある強さに目が眩んで、その中に潜む虚勢に気づけずにいた。
 もしも、あのとき伸ばした手が届かなかったら。
 自分ではなくマルコが命を落としていたら。
 何を仕出かすかわからなかった。後を追うことはなくとも、きっともう二度と、正しくも優しくも在れなかった。
 それと同じことだ。生きることを諦めずにいられた最後の理由そのものを失って、どうして平生でいられようか。
「……なあ、マルコ。お前は、どうしたい?」
 選択を問われることが、今のマルコにとってどれほどの苦痛であるのかは十二分に思い知った。だからこうして穏やかな眠りの中にあるときに、応答がないと知りながら無意味な問いかけをする。その傍らに自分がいなくとも、生きていてほしいという願いは揺るがない。しかし死出の旅すらも共にしたかった気持ちも本当で、もしも――……。
「海賊らしく行こうぜ。欲しいもんは力ずくで奪えよ」
「なあ……それ、まだ生きられるのに無理やり連れてくってことだろ? ひどくね? なんでサッチって時々極悪人みたいなこと言うんだ?」
 二人きりの静寂は、やかましい闖入者の前に崩れ去った。ドアに凭れかかる特徴的なリーゼントの男と、行儀悪く机に腰掛けるテンガロンハットの青年。気を利かせて姿を消しているものと思ったが、やはり懐かしい顔を一目見たいという欲求には抗えなかったらしい。まったく、素直でよろしいことだ。
 彼らにだって、生きたまま冥府へ渡ろうとする兄弟を心配して、諭して、現世へと叩き返す権利はある――あるのだが。
「……おい、お前ら見んな。減る」
 気に入らないものは気に入らない。平時ならともかく、憔悴しきって泣き腫らした顔も、しどけなく事後の色香を漂わせた肢体も、いかに双方が思慕の情を持ち合わせていなかろうと他の男に見せたくはなかった。
 イゾウは足元に追いやられていたブランケットを拾うと、マルコの体を覆い、そのままそっと抱え上げ壁際にいた自身と位置を入れ替えた。
 じとりと呆れたような視線が突き刺さる。
「……あのな。お前にとっては可愛い可愛い幼なじみの恋女房かもしれんが、おれらからしたらただのオッサンだかんな、そいつ」
「あぁ? こいつの愛らしさがわからねえだと?」
「わかるつったら銃ぶっ放すでしょうが! もうヤダこの子! 情緒どうなってんの!」
 心底から嫌そうな表情を浮かべ、サッチは自慢の前髪をガシガシと掻き乱した。大きな声を出すなと叩いてやろうとして、しかしそれは叶わなかった。いつの間にやら――おそらく、抱えて移動させたほんの数瞬で、袂を緩く掴まれていて動けない。万が一この状況下で起こしてしまえば、マルコは昨夜以上にひどく取り乱すだろうから。
「ハア……んなピリピリしなくても、起きてる時に邪魔なんざしねえし乳繰り合ってんのも覗かねえよ……」
「当たり前だろうが。覗いてたら脳天ぶち抜くぞ」
「だ~~もう! 脱線すんなオッサンたち! 話進まねえじゃん……!」
 先にしびれを切らしたのはイゾウでもサッチでもなく、エースだった。眠る人間に配慮して小声で叫ぶ、などという器用なことをやってのけるのだから、そこで騒いでいる変な前髪よりも余程大人だ。最後まで手のかかる弟だったが、そういうところはちゃんとしている。
「だーれがオッサンだ若僧」
「いでっ」
「ああ、まあ、ともかく。おれらはただちょーっと心配で様子見に来ただけだって。二人してぐるぐる悩んで、誰も幸せにならねえ道選ぶんじゃないかってさ」
 どきりと、拍動を止めたはずの心臓が跳ねたような気がした。見透かされている。もしも生きることをやめるとマルコが言ったなら、或いはそれすらも選べないと心を閉ざしたなら――その先に待つものを人は、きっと幸福とは呼ばないだろう。
「おれはさ……恋とか愛とかよくわかんねーけど。二人がそういう仲だってのも、未だにいまいちピンと来ねえし。でも大事だったんだって、それだけはあの頃からわかってた。だから笑っててほしいよ。どうなるにしても……」
 自分とマルコとの行く末を憂いてくれる末弟の寂しげな顔に、イゾウとて思うところがないわけではない。
「選択するのはいつだって生者だ」
 それでも、もう。命の使い道を決めて、使い果たしてしまった。
 別の未来を選ぶ権利を、あの日イゾウは業火の中で失った。
「何の因果か奇跡か、こうして干渉できたが――まだ生きている奴の未来に口出しする権利なんて、本来死人が持ってちゃいけないものだろ」
 だから今のイゾウにできるのは、ただ傍で見守り、目いっぱい甘やかしてやることだけだ。――見守るだとか甘やかしてやるだとか、そんなものは体の良い言い訳で、自分の望むことをしているだけに過ぎないが。
 好いた相手を優しく柔らかいものだけで満たしたいと願うのは、人として当たり前の欲求だろう。
「へーえ……でもよ、もう選びたくないって泣かれたら?」
「……それこそ奪うさ、海賊らしくな」
 もう何も選ばなくていいように。険しい道を歩み続けたその魂が、これ以上毀損することのないようにと。真綿で包み込み、鍵をかけ閉じ込めて、二度と離しはしない。それがこの兄弟の言うところの、誰も幸せにならない道だとしても――……。





◆◆◆





「……なあ、マルコ。お前は、どうしたい?」
 波の音が雨のようだった。まるで誰かが泣いているみたいな、どこか寂しげな音がまばらに耳朶を打つ。イゾウの声がする。懐かしく、惜しい誰かの声も。浅い眠りの中で遠く、おぼろげにたゆたう残響をマルコは聞いていた。
 生と死の狭間にあるこの方舟で、本来は睡眠など必要ないのかもしれない。選択を迫られる刻限まで、意識を保ったまま一分一秒すら無駄にしたくないという思いもある。それでも――眠ってくれと、瞼を撫ぜる手のひらの優しさには抗えなかった。いつだってそうだ。人らしく在ってくれとイゾウが望むなら、その望みをこそ叶えたい。
 ただ幸いだけがあったとは言い難い人生だけれど、こうして愛する男の傍らで眠る時間には、何にも代え難い安心があった。そのことを噛み締め思い出していた。知らず知らずの内に涙が溢れて止まないほどに、心は凪いでいる。
 すっかり傷が癒えたなどとは到底言えないが、少しだけ、悲しみ以外にも目を向ける余裕が生まれ始めていた。
「……それこそ奪うさ、海賊らしくな」
 ――だから、その苦しげな吐露が鮮明に意識の底へと届いたとき。穏やかなまどろみは終わりを告げた。
 目を開けてすぐに、枕元に置かれていた眼鏡を掛ける。ここでは必要ないのだとすぐに気づいたが、すっかり習慣と化していた。
「ん……ぅ……」
 そうして涙に滲んでぼやけた視界の中で、マルコは薄紫の袖を手繰り寄せる。まだ少しだけ瞼が重たくて、気を抜けば再び眠りの淵へと落ちてしまいそうだった。そうして、存在を確かめるようにマルコはその名を口にする。
「イゾウ……」
「悪い、起こしたか」
 イゾウが振り返るのに合わせて、後ろでひとつに括った髪が揺れた。
 その面差しは、本当になにひとつ、生前と変わらない。美しく気高くて、いっとう優しい。声も仕草も触れ方も。
「……ううん。誰か、来てたのか?」
 たおやかなようでいて、間近で見ればきちんと節くれ立った手が伸びてくる。彼のまなざしに僅かばかり、躊躇いと動揺が滲んでいた。マルコはその指先の方へ、ほんの少しだけ首を傾けた。指は擽るように柔く、前髪をかき混ぜ撫でていく。
 体は怠く重たいものの、眠る間に拭き清められていたようだ。服も着替えさせられている。惜しいことをしたなと思う。意識のある内にそんなふうに甲斐甲斐しくされるのはひどく恥ずかしいけれど、恭しく触れてくれる真剣な面持ちは見ておきたかったから。
「お前の想像してる通りの奴らだよ。……会いたいか?」
 答えを聞いて、ああやはり――と、胸に少しの苦さが落ちる。夢うつつに聞いた声は、確かについ先程までここにあったのだと。会いたいかと問われれば、無論会いたいに決まっている。けれど。
「会いたい、けど……会えねえよい。おれなんかに生きてほしいって、言わなくても思ってるだろ、あいつらは。そしたら……」
 暫し言葉に詰まったのち、マルコは首を横に振った。先に逝ってしまった友に、弟に、会って伝えたい言葉ならいくらでもある。自身も死者の国へ渡ったのだと思っていた昨夜は、一刻も早く会いたかった。
 しかし、今。生き続けることも終わりを選ぶことも自らの手に委ねられた今は、彼らに会うことが怖くて堪らない。優しくて人の好い奴らだ。会えばきっとマルコの好きなようにしていいと、逃げてもいいのだと労ってくれるその内心で――こんな自分に、生きてほしいと願っている。心の底から。それを突き付けられればもう、期待に応える道しか選べなくなるのは明白だ。
 それがどれほど正しい選択だとしても、選ぶことはまだ、本意ではない。
 また視界が滲み出す。泣いたらイゾウを困らせることくらい、ずっと前からわかっているのに、どうしても涙を止められなかった。子どものように感情の制御が効かなくなることを恥じる一方で、こんなふうにすべてをさらけ出せるのは、それだけこの男に愛されているからなのだという自負が胸中で確かな形を取り戻しつつもあった。悲しくて、寂しくて生きていてほしくて目の曇っていたあらゆることが鮮明になっていく。
 知っている――船に乗ったばかりの頃から好きでいてくれたことを。出会って日が浅くとも、マルコが人あらざる化け物ではなく人であることを、いつだってイゾウは望んでくれていた。自分のことならいくらでも治せると言っても聞かずに、命懸けで助けて、そうして、この目が殆ど効かなくなった時も我が事のように泣いてくれた。
 そんな、過ぎるほどの優しさが堪らなく愛おしくて。だからこそ安心して寄り掛かり、他の誰にも言えない弱音さえ吐露できた。甘えることができた。今もこうして甘えているのに、それをイゾウは――どこか、いまひとつわかっていない節がある。
「ばか。何か余計なこと考えてんだろ」
「っ……」
 幼子の熱を測る時のように額を合わせる。煩悶に揺れていた琥珀色の瞳が、ぱちりと間近で瞬いた。
「……こんなの、お前だけなんだからな。迷って、悩んで、何にも選べない情けない姿見せて。泣いて縋って、困らせるのなんか……」
 こんな自分に――どうあれ生きてほしいと願ってくれているのは、きっとイゾウも同じだ。それでも、真っ先に、連れて逝きたかったと言ってくれて嬉しかった。
 だから、もう少しだけ――本当に選ばなければいけなくなるそのときまで、あと少しだけの間。まだ恋も知らず、愛が遠い他人事で、何のしがらみもなく『大好き』を伝えられた頃のように甘えていたい。
「……って、人が真剣に話してんのに、なに明後日の方向見てんだよい」
 ふいと逸らされた真っ赤な顔を、半眼で睨めつける。
「悪い……ちょっと、それ以上は勘弁してくれ。ベッドから出してやれなくなる……」
「な――な、何、言って……!」
 何てことを言うのだ。瞬く間にこちらまで顔が熱くなった。
 昨夜もあんなに激しく愛されたのに、いつまで、どれほどの熱量を注ぐ気なのか。閨での睦言でもない、ただ甘えてみただけのことが、どうしてこんなにもイゾウの琴線に触れたのだろう。
 溺れるように抱き合ってさえ、いずれ訪れる決断の時を思ってどこか心が翳っていたのに――ただとめどのない愛おしさと気恥ずかしさが、ここにはあって。
 少年の日に取り残されたままの初恋を、やり直しているような心地がした。
「……別に、いいけど」
 口火を切るには、少しだけ勇気が必要だった。
「は――」
「全部あげるって、言ったよい。お前がしたいなら、どうされたって、いい……」
 琥珀色がこぼれ落ちそうなほどにイゾウが目をみはる。
 紛れもない本心だった。何をされたっていい。本当にベッドから出られなくなるまで抱かれても、多少手荒くされても、この泡沫の逢瀬では意味を為さないけれど――海楼石の錠で自由を奪われたって。それほどまでに愛されているあいだじゅう、この男の視線は自分に注がれつづけているのだから。
「あ、のなあ。マルコ――」
「こんなもんまで着せて、後で脱がせる気だったくせに」
 目覚めた時からマルコは気になっていた。寝台も備え付けの家具も、すべて在りし日のまま再現されたかつての自室に着替えくらいはありそうなものだというのに、何故この格好なのだろう――と。確か浴衣と言うのだったか。生地の種類によって呼称が変わるワノ国の服装を正確に理解しているとは言い難いが、要するにこれは、男は何のために好いた相手に服を贈るのかという、そういうやつだ。或いは自身の服を着せたりだとか。
 昨夜から散々泣いて喚いて、少しだけ落ち着きを取り戻した頭で記憶を手繰ってみれば――そう、イゾウはそういう奴だった。何というか、わかりやすいシチュエーションが好きなのだ。
「それは……っそうだが!」
「……いや、何だ? どういう感情なんだよい、それは」
 何故そんな酸っぱいもでも食べたように、ぎゅっと眉間に皺を寄せているのか。
「……今すぐ抱きたい。それはもうめちゃくちゃに。抱き潰したい」
「お、おう……」
「けど、もう少し堪能してたいんだ。お前の愛らしさを……その浴衣もよく似合ってるし、こう、素直に甘えてくる時の声も、仕草も全部――」
「す、ストップ! 待った! 一旦落ち着け……! どっから出てくんだよいその恥ずかしいセリフの数々は……!」
 顔から火が出そうだった。悪魔の実の力が使える状態であったなら、火というか――頭部だけ鳥になるという、何とも不気味な形で暴発していたかもしれない。
「仕方ないだろ。お前が初恋なんだから」
「っ……! そ、れは……おれも、そうだけど……」
「だから……その、だな。つまり」
「つまり?」
「……デート、しないか。少しだけ。見飽きるくらい見慣れた船だし、お前がつらいなら無理強いはしないが」
 ぱちぱちとマルコは目を瞬いた。面映ゆそうに、そして気遣わしげにイゾウが口にした提案が、思いもよらないものだったためだ。
「……す、する! 勿論するよい!」
 一も二もなく飛び付いた。
 ――だって、いわゆる恋人らしいデートなんて数えるほどしかしたことがない。互いへの感情を確かめ合った時には無邪気なだけではいられなくなっていたし、気づけばあまり表立って、特別に仲良く接するようなことは憚られる立場を任されていた。手配書の金額が億を超え、更にその差が倍以上に開いてからは、安心して傍にいられるのはこの船か縄張りの島くらいだった。しかしそこには当然、家族や島民の生温い視線があるわけで。
 今にして思えば、それが何だと笑い飛ばして、堂々と見せつけてやるくらいでよかったのかもしれないけれど――自分はともかく相手を傷つけたくないという気持ちは、たぶんお互い一緒だった。
 そんなわけでマルコは、年甲斐もなくはしゃいで、浮かれていた。そうして幼い時分のように、ぴょんとベッドから飛んで降りようとして――。
「いっ……!」
「マルコ!」
 べしゃりと、それはもう勢いよく膝から崩れ落ちた。
 腰が立たないのである。
 当然だ――あんなにも丹念に執拗に、疲れ切って泥のように眠りに落ちるまで愛されたのだから。
「なあ」
「……悪い」
「もうベッドから出られなくされてるよい」
「悪かった……!」
 じとりと床から見上げれば、いっそ面白いくらいにイゾウが焦っている。別段マルコは怒ってなどいないのだが、本当に真面目で誠実で人が好いものだと感心してしまった。
 ――本当に、怒ってなんかいない。けれど。
 もう少し困らせてみてもいいかなと、童心に帰った心地になる。ここにいる間は全部叶えてやると、そう言ってくれた言葉に甘えて――我が侭を、言ってみたくなった。
「ん」
「マルコ……?」
 困惑した様子のイゾウに両腕を差し伸ばす。
「連れてって」
 まだ想いも自覚していない見習いの頃は、はしゃいで飛び付いたりもしたけれど。
 何度も戦場で、絶体絶命の窮地から、抱えて助け出してくれたけれど。
「あのとき――助けてくれた時みたいに」
 抱き上げてほしいと自分からねだったのは初めてだった。少年の時分にすら願い出はしなかったことを、こんな今更いい歳をして、自分の方が上背だってあるというのに。
「……べつに、重いし、無理にとは言わねえ――うわっ」
「無理なわけあるか。もっと普段からこうしたかったし……今のお前は軽すぎだ」
 それはもう軽々と、イゾウはマルコを抱え上げてみせた。自分から言い出したこととはいえ、やはり横抱きにされるのは少し、いやかなり恥ずかしい。もっと資材や食料みたいに雑に扱われたとて文句はないのに、こんなふうに甘えてみせればイゾウが優しくしてくれることをマルコはわかっていた。
「あのな、イゾウ」
 そう、わかっているのだ。
 だから、昨夜までは考えたくもなかった話を切り出すことができた。
「何だ?」
「怒らねえ……?」
「内容によるが」
 少しずつ、だが確実に心境が変わり始めている。きっと、これは今だけのことで。もしもこの優しい夢の終わりに生き続けることを選んでも、奇跡みたいに大丈夫になんてなるはずもなくて――それでも。愛されているという自負が、勇気を取り戻させてくれた。
「……食っても吐いて、だめだった。お前がもういないこと、忘れてまで自分の心を守ろうとして……そんなこと、できるはずなくて」
 誰かに――況して当人になど絶対にするつもりのなかった話を、こうして取り乱すこともなく口にできている。少なからず察しは付いていただろうし、改めて言葉にすればいっそうイゾウが気に病むことはわかっていたものの、ただ伝えたかったのだ。
「……怒るわけねえだろ。馬鹿野郎が……そんなの、おれの方が」
「ううん――いいんだ、もう。今ここにいてくれるから、それで。ただ、伝えたかっただけだよい……それくらいお前のことが大好きで、大切で、いなくなったら何にも見えなくなったこと。ちゃんと、今、自分の言葉で」
 首に腕を回して頬を寄せる。嗅ぎ慣れた香の薫りは二人の体臭に溶け合って、少し薄れてしまっている。
 きっと、もう答えは出ているのだ。或いは始めからわかっていたのかもしれない。どれほど苦難と喪失を繰り返したとて、そうすることしかマルコにはできない。他に報いる術を知らない。
 けれど何も見えなくなるほど絡まった糸を独りで解くことはできなくて、本心から消滅を願っていた心を包み込み癒やすことができるのはイゾウ以外の誰でもなくて、この場所での得難い時間はすべて必要なことだった。
 だから――どうか、あと少しだけ我が侭を許してほしい。
 優しい夢が覚める、その時までは。



◇◇◇



 あたたかな腕の中で、波に揺られるような心地のまま船内を進んでいく。ここが生と死の狭間の、どことも知れぬどこかであるからか、つい最近と三十年以上前との景色が、ところどころで入り乱れていた。ずっと昔に船を降りたはずの誰かの部屋が存在したかと思えば、どこぞのヤンチャな火の玉小僧が壁をぶち抜いた痕もある。これは百度のうち何戦目のものだったか、或いは単に年の近い連中とふざけていた時の事故だったか――……。
 カタンと、不意に物音がした。大所帯になり広々とした時代の食堂からのようだ。
「……あいつら」
 イゾウの眉間にギュッと皺が寄る。誰のことを指しているのか、言葉にせずともマルコにもわかった。
「ここはやめとくか?」
「いや……ちょっとだけ」
 会うことが怖いという気持ちを、今は少し好奇心が上回っている。
「あと、もう降りるよい」
「は? 危ないだろ――」
「だから手、繋いでて」
 そうして踏み入った食堂には、つい今しがたまで誰かのいた形跡があった。一人分の席に山と積まれた空の食器に、あたたかいスープと香辛料の匂い。おおよそ一人分とは思えない量を物凄い勢いで掻き込む末の弟と、その様子に呆れながらも相好を崩し次々と料理を出してやる特徴的な髪型の兄弟の、在りし日の姿が直前までそこにあったのだろうと予感させる。
「何か食うか? ……言えば何でも出てくると思うが」
 言われて、厨房の側へとマルコは視線を向ける。すると、明らかに人の手が掴んでいるのだろうなという動きを伴って、どこからともなくカウンターの上にトレーが置かれた。事情を理解していなければちょっとした恐怖体験だ。
「……言わなくても出てきたよい」
 味見用の小皿にけ注がれたスープと、サラダボウルの半量くらいまで盛られたパイナップル。食欲がなくとも少しは口にしてみるかとマルコが思える、そんな取り合わせだった。
「……何だってあいつがこんなにお前を理解してやがる」
「そこは職業柄ってやつだろ……」
 医者とコックには船の上で逆らうな、というやつだ。食の好みから健康状態、生活習慣、平常時とそうでない時の対応といった諸々を把握してこそ務まる役目なのだから。――とはいえ自分も逆の立場なら、多少なり妬いただろうけれど。
 むすりと眉間に皺を寄せたイゾウの手を引いていく。何かを美味しそうだと思うのは久しぶりだった。
「……ん」
 美味しいと――味を感じることができたのも、本当に。ワノ国での戦いを終えてからずっと、何かを口にしても得体の知れないものを噛み締めているような心地がしたから。
「マルコ」
「っ……へへ、ごめん……。なんか、ちゃんと美味いなって、思ったら……」
 視界を滲ませた雫を、優しく拭う指先をつかまえて抱きしめる。そうして肩口に顔を埋めた。あたたかさを知るほどに痛くて、切なくて苦しいのに、自分の泣き顔を他の誰かに見せることをイゾウは嫌がるだろうなあと、そんなくだらなくも愛おしいことを考える余裕が生まれていた。
 そういう、些細なことで嫉妬するような可愛いところが。それほどまでに好いていてくれる一途さが大好きだったーーこれからも、ずっと好きだ。
「……ありがとな」
 イゾウにだけ向けたのではない感謝の言葉は、届いただろうか。厨房の片隅でよく見知った後ろ姿がひらひらと手を振っているような、そんな気がしたけれど、マルコは振り返ることをしなかった。
「もう、いいのか?」
「ああ。急に普通の量食べたら、胃がびっくりしちまう」
 再び手を繋いで、食堂を後にする。廊下へと足を踏み出す刹那、あたたかい風が頬を撫でていった。
「……ずっと二人きりがよかった?」
「べつに……お前がもう大丈夫なら、何だっていいが……」
「っはは、可愛い奴」
「~~っ……こら、からかうな」
「いつものお返しだよい」
 大浴場、医務室、武器庫――様々な思い出の眠る場所を横目に甲板へと続く階段の前を通りかかると、波の音がはっきりと聞こえるようになった。雨のようにどこか寂しげでありながら、優しく海の底へといざなう音が。
「外にも行けるのか?」
「ああ。モビーを離れられるかはわからないが……どうする?」
 正直なところ興味はある。現実から隔絶されたこの不思議な場所であれば――今、能力を喪失したに等しい状態の自分ならば――海に嫌われ、溺れることもないのだろう。
 見習いとして乗船するより遥か以前、物心ついた頃には既に悪魔の実の力を得ていたマルコには『泳ぐ』ということをした記憶がない。生身で海中にいる状況といえば戦闘行為や不慮の事故によって転落したか、同じく能力者の追手を撒くため非能力者に身を預ける形で戦線を離脱したかのいずれかである。或いは、ここへ来た切欠――自死を望み、海へと身を投げたあのとき。何にせよどこか苦い記憶ばかりだ。その苦さすべての傍らには、いつだって助けてくれる人がいたという得難い幸福もあるけれど。
「……やめとくよい」
「そうか」
「ちょっと……怖い」
 繋いだ手に力を込める。イゾウは何も言わず、そっと肩を抱き寄せてくれた。
 誰に迷惑や心配をかけることもなく海に触れられる、ということへの憧れは尽きないものの――やはり外へと踏み出すのは怖かった。
 甲板といえど、何かが変わってしまったら。時計の針が早く進んで刻限が訪れてしまったらと、そんな想像に怯えている。
 ――不意に、体がふわりと宙に浮いた。
「っ……! もう歩けるって!」
「甘やかしたいんだよ。おれの我が侭も聞いてくれ」
 抱き上げられて見上げたイゾウの面差しが、くしゃりと屈託のない笑みを描いている。こんなふうに屈託なく笑う姿を見るのはいつ以来だろうと記憶を手繰れば、ほんの最近のことだった。苦難はあれどもこの船に皆でいられた愛おしい日々に、確かに笑っていてくれた。
 ――思い出せてよかった。此処に引き留めて不幸にしたのではないということを。
「へへ。大好き」
「~~っ……不意打ちはやめろ……」
「……ふ。あはは、難儀な奴だよい!」
 首に腕を回しぎゅっと抱きつけば、たちまちその頬が朱に染まる。それが何だかおかしくて、堪らなく愛しくて、マルコは声をあげて笑った。変わったものも失ったものも多くあるけれど、きっと自分たちの根底は変わってはいない。
「……マルコ」
「うん?」
「無理して笑ってないか」
 そう問われて、マルコは暫し思案する。
「無理してなんかねえよ。……そりゃあ、多少は、前を向かなきゃって今は思ってる……けど」
 それは決して、虚勢などではない。寄せては返す波のように、喪失の痛みと寂寞は今も押し寄せるけれど――今はイゾウが、密やかに見守る家族たちがいてくれるから立っていられる。気を抜けば容易に悲嘆へと呑まれ、本当の意味で立ち直れる日など永遠に訪れないのだとしても。
「この先どうなるにしても――どうすると、しても。ちゃんと笑った顔も覚えててほしいなって……それだけだよい」
 少しだけ、怖い想像をした。
 もしもこの先、生きることを選んで――そうしていつか自身が、命の終わりを迎えるとき。この身に宿した悪魔の力を燃やし尽くして為せる何かがあるのなら、それが先に逝った者たちに誇れる道であるのなら、躊躇なくマルコはそれを選べる。魂も残らず燃え尽きて、きっと待っていてくれる人たちのもとへ還れない。この水底の、泡沫の日々が本当に最後になる。
 そうなった時に、悔いを残したくない。
 情けなくて、弱くてどうしようもない部分もすべて曝け出して、今ここに在る奇跡の中で我が侭を言うと決めたけれど――それだけでは、だめなのだ。イゾウが許してくれたとしても、マルコ自身の気が済まない。
 ――誰かを遺していく側の覚悟が、少しだけわかった気がした。せめて笑って見送ってほしいと、少しでも安心させてやりたいという思いが。
「……また泣いたら慰めてくれるか」
「当然だろ」
「お前が、いなくなった時も……もっと人目憚らずに泣いてれば、こうして迷惑かけることもなかったのかなって、ちょっと思うんだ」
 燃え落ちた城の跡と、雪の降りしきる寒い場所で二度、己の心を殺した。痛いばかりの記憶を手繰れば今もまだ、胸が押し潰されそうになる。
「でも……できなかった。柄にもなく、分を弁えなきゃなんて思って……きっと故郷の人たちには、お前を連れ出したこと恨まれてると思ったから……」
「それはないと思うが……そんなこと、話してみなきゃわからねえだろ。少なくともイヌとネコは絶対にお前の味方だ」
「はは……本当に、その通りだよい」
 もとより、たとえあのとき平静を保っていられたとしても辞退するつもりではあったものの、彼らの方から形見分けの話を切り出してくれたのだ。そこには間違いなく、肉親からの許しがあったはずで――。
「お前が分を弁える必要なんてどこにある。同じ人と盃交わして、父と呼んだ家族だろ」
「うん……」
「そうなる前から友達だったし、他の誰より特別だった」
「そう、だな……本当に、そうだった……」
「――……愛してる」
「ん……おれも……」
 ぽつりぽつりと、他愛のない話をして。時折内緒話のように、互いを慕う気持ちを囁き合う。
 平時だというのに抱きかかえられて移動することにも、次第にマルコは慣れていってしまった。いい年をした大人がそれでいいのかという葛藤がないではないが、童心に帰ったようで心地よくて、やめたいとは言い出せなかった。
 そのようにして一頻り船内を散策した二人は、ひときわ大きな扉の前へと辿り着いた。――船長室だ。扉の向こうに、人の気配はない。
「……マルコ」
「いいんだ。……いいんだ、今は……会えない方が」
 命を投げ出したことを叱ってほしいという思いは、確かにマルコの中にある。しかしそれ以上に、生き抜かなければ合わせる顔がないとも思っていて、他の誰でもなくニューゲートに会うことが一番怖かった。息子の不始末に失望するような人ではないと理解していて尚、心が軋む。
 穏やかな最期ではなくとも間違いなく誇りを抱いて逝ったあの人に、きっと、ひどく心配をかけた。どれだけ大切にされていたか、どれほど愛されていたか、そんな何にも代え難い記憶さえも見えなくなって、自分は――……。
「……ガキの頃はさ。よくこっそり船長室に忍び込んだよな」
「おい……待て、お前まさか」
「そのまさかだよい」
 マルコは殊更に明るい声を出して、童心に帰ったような素振りをした。寂しさと罪悪感を押し殺したことはきっとイゾウに見抜かれていて、それでも今は泣きたくないという思いが勝った。
「ったく……お前らは本当に! おれは止めたからな」
 呆れ顔で昔と同じことを言うイゾウを促し、マルコはそっと扉を押す――鍵は、開いていた。
 室内の様子は最後に見た時とあまり変わっていない。気になるとすれば堂々と置かれた酒瓶くらいのもので、咎める者もいないのだから当然かと、少しばかり寂しさが胸を軋ませる。同時に、ニューゲートが病から解放されたのだという気づきもあった。あの人の最期に、あの戦場にマルコが遣る瀬無さを覚えない日はなかったが、もう船医として釘を刺し愉しみを奪うような真似をしなくていいのだと、そのことだけは喜ばしく思えた。
 大切な人たちには自由に、好きなことを好きなだけ楽しんで、笑っていてほしいから。
「なあ……こっち」
「わ、あっ……ぶねえだろ!」
 抱かれたまま袖を引いて、もつれるようにして二人、広いベッドへと倒れ込む。
「へへ」
「こら、ちょっとは反省しろ」
「お前なら落とさないって信じてた」
「……そういう問題じゃねえ」
 船長室に忍び込んだ見習いたちは、よくこうしてはしゃいだものだ。はしゃぎ疲れてそのまま朝まで眠る侵入者たちを、父は笑って許してくれた。姉貴分に――ホワイティ・ベイに見つかった時は、それはもう大目玉を食らったけれど。
「……そういえば、結局あれは何だったんだ」
「あれって?」
 不意にイゾウが切り出した。何のことかと、マルコは首を傾げる。
「あのときお前、死にかけだってのに酔ったオヤジみたいなこと……後でいくらでも聞いてやるって言ったのに、反故にしたからな」
「真面目か。すっかり忘れてたよい」
 確かに言われてみれば、ワノ国のあの戦場で、そんな出来事があった。本当に今の今まで、マルコは忘れていた。大切だったのはいつか父と酒を酌み交わした思い出だけで、わずか一時交戦した大看板の素性など、すっかりどうでもよくなっていたから。
「……内緒」
 せっかくイゾウが覚えていて聞いてくれたその問いに対する答えを、しかしマルコは口にしなかった。
「は? なんでだ」
「じゃあ聞くがお前、家族以外の男の話を今、ここで、おれがして、妬かずにいられ」
「絶対に無理だが?」
 自分で聞いておいて顔が熱くなる。こんなにも優しく、強く美しい男を他にマルコは知らない。そんな稀有な存在に、烈しい執着と共に愛されているという事実を思い知るたびどうにかなりそうだった。
 本当は、第三者に水を差されたくなかったのはマルコの方だ。苦楽を共にした家族ならば許すけれど、今この時、イゾウの関心が他へ向くのがどうしても嫌だった。
 するりと頬を撫で、耳朶を擽るイゾウの手のひらが熱い。
 ――こうやって過ごす前に、『デート』をする前に何と言われた?
 ベッドから出してやれなくなる、今すぐ抱きたい、抱き潰したい――熱いまなざしを伴い向けられた言葉たちが、とっくに茹だった頬をいっそう火照らせていく。
「……こ、ここじゃ……やだ」
 何とか絞り出した声で制止する。引き返せなくなる前に。尊敬して止まぬ父の寝台で、などという狼藉を働くのは絶対に嫌だった。
「それは……まあ、確かにそうだな」
「っ……あ、ぅわっ!」
 イゾウも同じ思いでいてくれたことに安堵の息を吐く間もなく、マルコの体は宙に浮いていた。抱き上げてほしいという我が侭に応えるでなく、半ば強引に甘やかされるのでもなく、有無を言わさず閨に連れ込むために横抱きにされている。
 よく見知った廊下を、つい先ほども通った道を引き返していくだけなのに、その道すがら既にマルコは沸騰しそうだった。意識の外側に追いやっていた、これから襲い来るとてつもない多幸感への甘やかな期待が、みぞおちのあたりをじわじわと煮立たせる。
 気づけば自室を通り過ぎ、隊長に割り当てられた個室の区画内で一番遠い部屋――イゾウの部屋の前まで来ていた。ふるりとマルコは身震いをする。まだ明確にそういう触れ方をされたわけでもないのに、そうせずにはいられなかった。
「マルコ」
「な、なに」
「期待しててくれたのか?」
「……悪いかよい」
「いや、うれしいよ」
 はにかむイゾウのまなざしが熱を帯びている。熱い視線に射抜かれたままドアノブを回せば、どこか懐かしい花の薫りが微かに漂ってきた。その薫りが鼻腔を擽る夜には、どのように蕩けさせられたかという逃れようのない記憶と共に。
 部屋の内装が変わっていないことに、マルコはひそやかに安堵した。イゾウの隊長就任の祝いだと皆で資材を持ち寄り、船大工の知恵を借りて畳状の小上がりを取り付けたあの頃から。いつ訪れても物が少なく見えるのはきちんと整頓されているからで、毎年の誕生日の贈り物はすべて大切に仕舞っていてくれることを知っている。
「ん……ふ、」
 丁重に寝台へと降ろされて、口づけが降り注ぐ。触れ合う舌から熱く、口の中が蕩けていく。これから、もっと足腰が立たなくなるまでされるのだという期待が、体中の感覚を鋭敏にさせる。
 きっとすぐにでも、わけがわからなくなってしまうような予感がして、マルコは首に回した手でイゾウの後ろ髪を結ぶ紐を解いた。そして程なくして、その予感は的中することとなる。
「ん、ぁふ、そこ……だめ」
「は……だめじゃないだろ」
 触れられる前から固く兆していた突起をキスの合間に弄ばれ、マルコは堪らず身を捩った。浴衣の、いつもとは違う布地の上から与えられる慣れない刺激に、腰のあたりがぞわぞわする。
「や、あっ、すぐいっちゃう、から、あんっ、んんぅ」
 乳輪の淵や先の弱いところを短く切り揃えられた爪でカリカリと引っ掻かれて、形ばかりの抗議の声も、合わさった唇の内側へと飲み込まれた。昨夜嫌というほど愛撫されたそこが繊維と擦れ合いながら抉られるたび、とろとろと股の間から先走った蜜が垂れていくのを感じる。
 イゾウとこういうことをする仲になったのが二十を少し過ぎた頃で、ただ好きな相手に触られているから、という以上に過敏に快楽を拾い上げてしまうようになるまで、そう時間はかからなかったと記憶している。
 ――つまり、一晩に受けた愛撫がどうだとか以前に。二十年以上かけて、触れられれば触れられるほど弱くなっている、わけで。
「んっ、ぅ、ふあぁっ、あ……!」
 甘やかな痺れが背筋を駆け抜けて、マルコは寝台に崩れ落ちた。じんじんと下腹が疼いて止まず、座っていることさえできなくなった。
「ひ、んッ! らめ、いま、いって」
「イってるときに触られんの、好きなくせに」
「やぁ、だっ、ぃや、よい、すき……だけどっ」
 夜の帳のような長い黒髪が、光を遮り肌に落ちる。余韻に浸る暇すらなく、意地悪な指が追い打ちをかけてくる。身じろぐ内に大きく開いた浴衣の合わせはいともたやすく侵入を許してしまって、固く尖った突端をすりすりと柔く撫でられた。
 こんなのを続けられたら、最後まで保たない。たくさん触れて、思うまま貪ってほしいという気持ちに偽りはないけれど、与えられるばかりでは気が済まないと、なけなしの理性が働いた。
「マルコ?」
「おれも……さわり、たい……」
 やわやわと胸を這う手の片方をマルコは捕まえる。節くれ立って、柔らかいところなどどこにもなくて、武芸への弛まぬ努力の痕が残る――大好きな手だ。
「んぅ、ん……」
 長い指の先にそっと口付ける。そうして形を確かめるように丹念に、指の腹を、股を舐め取っていく。肉茎に奉仕するときのように、或いは口内を暴かれるときのように。
「ん、ふは……きもち、いいか……?」
「っああ……」
 熱い吐息が答えと共に首筋を擽って、マルコは小さく身震いをした。まだもう一方の手には乳嘴を転がされていて、ほんの少しの刺激でも容易に、また身も世もなく喘いでしまいそうになる。
 揺さぶられてわけがわからなくなる前にイゾウの感じ入る表情を見る機会はそうあるものではなく、いつも以上に胸が高鳴るのを感じた。榛色の瞳が熱を帯びて、蜜のように甘く溶けている。
「マルコ……っ」
「ぅん、ん、なに」
 甘噛みをした瞬間、きゅっと寄せられる眉根が愛おしい。見惚れている間に口腔から指が引き抜かれて、代わりに自身の手と絡み合う。てらてらと唾液に塗れたまま繋いだ手をイゾウは、下腹の方へといざなっていく。
「もういいから、こっちを……」
「! あ、つ――」
「……魔羅を、触ってくれないか」
 布地を押し上げる怒張に触れさせられて、びくりと背がしなる。それで貫かれる瞬間を、あやまたずマルコは想像してしまった。
「す、ご……もうこんな、なってるよい」
「は、お前が……っそうさせ、たんだろ」
「ん――ぁ、あ! だめ、それだめ……っ!」
 ぬるりと、胸を掠める感触があった。促されるまま触れた陰茎の熱と質量に、感嘆するばかりではいられなくなる。
「ひうっ、ぅ、あ、はぁあっ、だ、め、ちくび」
 唾液にぬるついた指で、口で、両方を責め立てられている。ぐにぐにと押し潰す指が滑り、思いもよらぬ強さで乳頭を弾く。微かな水音を立てて吸い付いた唇の内側で、舌が全体を舐め回す。
 負けじと動かす指先の感覚も次第に曖昧になって、形作った輪の中でびくつく太い幹の形を確かめるだけでマルコは精一杯だった。そんな覚束ない愛撫でも、手のひらに蜜を垂らし膨張していってくれることが、堪らなく嬉しい。
「あぅ、ぁ、あ……っも、むり、いくの、とまんな、い」
「ん……手ェ止めてイっていいぞ、ほら」
「~~っ! や、ら、いっしょがい……っ、きもちいの、ちゃんと」
 イゾウにも、あげたい。
 陶然と口にした己の声が、どんなはしたない喘ぎよりもいっそう甘く蕩けているのを、どこか他人事のようにマルコは聞き届けた。そうして。
「マルコ……!」
「ぁ、んう、ん――……!」
 息をつく間もないようなキスに、荒々しく口内を貪られる。それだけでもどうにかなりそうだというのに、下腹がこれ以上ないほどの熱を持った。甘やかに昇り詰める都度しとどに濡れて半分萎えかけたペニスを、なにか固くて熱いもので犯されている――硬度と質量を保ったままのイゾウのソレと、一緒に擦り上げられている。
「んく、んッ、んぁ、あ、あ、ア……!」
 重ね合わせて共に果てても、再び兆してナカを暴くことが自明の肉棒に外側から翻弄されて、マルコは腹の奥までもが掻き回されているような錯覚をおぼえた。ただ気持ちよくなって濡れそぼるばかりの、そういうふうに目の前の男のために作り変わった自身の性器とはまるでちがう。踏み入って、揺さぶって、子種を刻みつける力強さに、触れ合った場所から火傷のように熱く蕩けてわけがわからなくなる。
 それでも少しでも与えられたものを返したくて拙くも手を動かせば、自身の性感も同時に高めることになっていき――……。
「ふ、あッ、あぁあ……!」
「っぐ……!」
 ばちりと火花が爆ぜる。イゾウの低く呻く声が、その吐息が首元に触れるのさえも鋭敏に体は拾い上げて、まるで吐精せずに達したときのような長く、ふわふわとした多幸感からマルコは暫し降りてこられなくなった。
「ん――なに、して……っ」
 脱ぎかかった浴衣を汚し、腹の上に飛び散ってどちらのものともつかなくなった精液を長い指が掻き混ぜる。臍や筋肉の溝に入り込んだものを掻き出すようにされると、一度は弛緩したつま先が、再びシーツを掴みながら丸まっていく。
「あん! や、ぁ……ッ!」
 にゅるりと、悪戯な指が乳頭を捏ねた。掬い上げた白濁を塗りたくるようにして。精を吐き出したばかりの鈴口から、また小さく潮が吹き上がる。
「はは……かわいい。本当に弱いな」
「だれの、せ……だとッ、ひあ! らぇ、も、くりくりって……!」
 抓んだ先端を執拗に、何度も擦り潰されるたび腰が跳ねて、洪水のようにとめどなく下肢を濡らしてしまう。せっかく着せてくれた浴衣もぐっしょりと肌に貼り付いて、きっと傍目から見れば粗相をしたような有り様なのに――かわいいと、イゾウは思ってくれているのだ。他の誰に言われても何ひとつ響かないその言葉に、胸がじわりと暖かくなる。
「な……まって、イゾウ……おね、がい」
「何だ? ……どうしてほしい?」
「――……ぎゅって、してほし、よい。もっとちかくで……」
 袖を引き、マルコは懇願した。はしたないことをねだる時よりも、ずっとか細く震える声で。
 ぱちりと榛色の瞳が瞬く。そうしてふっと柔らかく、花が綻ぶように溶けていく。
「……参ったな。んな愛らしいこと言われたら」
「ん……ぁ」
「抱き潰せなくなるだろ……」
 自身を組み敷いていた男がすぐ傍らに横たわるまでの、ほんの数瞬からマルコは目が離せなかった。寝台の下の収納から取り出した容器を枕元に置いた手が、次いで二人分の帯を解く。あらわになった肉体の、鍛え上げられたうつくしさに目を奪われているうちにギシリと木板が鳴り、シーツが少しだけ沈む。
 そうして隙間なく抱き寄せられて、まるではじめからそうあるべくして自分たちが結ばれたような、そんな勘違いをしそうになった。
「……いいのに。好きにしてくれて」
「バカ言うな。もうとっくに腰立たなくなってんだろ」
「むう」
「拗ねんなよ……ほら、ゆっくり溶かしてやるから」
「あっ……」
 尻のあわいを指がなぞる。しとどに溢れた蜜で十二分に濡れた場所に、潤滑剤を纏い、つぷりと分け入ってくる。
「っふ、ぅあ、あ」
 二本の指がじくじくと、マルコの裡で燻る熱を掻き乱す。大好きで、覚えていて、昨夜も優しく内側をひらいたその形を受け容れているだけで、いともたやすく解れてしまう。ぎゅうぎゅうと指を締め付け、馴染み、奥へと誘いながら、マルコの体はその先を待ち望んでいた。
「や、あッ、も、昨日、したから、へいき……っ」
「だめだ。万が一にもお前を傷つけたくない」
 とうに準備はできている。もっと太く固いもので突かれても壊れたりはしないのに、怖いくらいに蕩けさせられていく。
「~~っ、あ、だ、めッ、ゆびだけでっ」
 堪らずにしがみつけば、熱を帯びた吐息が耳朶を、首筋を擽った。自らのソレと擦れ合う性器は先ほどよりも固く反り返っていて、こんなはしたないばかりの痴態にイゾウが興奮してくれているとわかる。注がれつづけた愛が、器から溢れ決壊する。
「ぁ――い、く、いっちゃ、うッ、あ……!」
 まだ貫かれてもいないのに、頭の中が真っ白になるようだった。びくんと、マルコは大きく仰け反りそうになり、しかし固く抱き寄せられていてそれは叶わない。逃がしようのない快楽に抱擁の内で身悶え、浅い呼吸を繰り返す。
「……っは、ぁ、ハァッ……」
「マルコ」
「ん……んぁ」
「少し休むか?」
「うう、ん……へいき、だよい。このまま……」
 気遣わしげに揺れるイゾウの、榛色の瞳の中に、いったいどれほどしどけない姿で自身は映っているのだろう。そんなことを胸の片隅で思案しながら、眼鏡を外す手にマルコは頬を擦り寄せた。
「……な、イゾウ。きて」
「っ……足、こっちに回せるか」
「ん――こう、ぁ、あっ……」
 受け入れる姿勢を作るために持ち上げた片足を、そのままイゾウの腰へと回す。ひくつくアヌスに先端が触れて、それだけで内側までもがふるりと震えるのを感じた。
「は……ぅあ、ア……!」
 襞を掻き分け、押し上げ、剛直がナカを登ってくる。ゆっくりと、いっそ焦れったいほどに優しく、余すところなく形を刻みつけるように。
「あ、らぇ、これ……っ、とけ、て」
「ン、ぁ――……好きか? こうやって……ゆっくりなの」
「いい、の、すき、きもちい、あッ、ふぁ、あぁあ……っ」
 昨夜ひらかれたばかりの無防備な花芯に、トン、と軽く亀頭が触れた。びりびりと頭の天辺を突き抜ける感覚にマルコは身震いをして、自身を暴く男に縋り付く腕から力が抜けないように必死だった。
「マルコ……マルコ、」
「ぁ……ぁ~~っ、あ、やあっ」
 名前を呼ぶイゾウの声が耳朶を打つたび、ぴんと伸びた足の先が空を切る。傍目には想像もつかないほど厚い胸板に押し潰された胸の先が、疼いて、濡れて涙が滲む。触れ合うすべてが気持ちよくて、蕩けて、戻れなくなって、とうに萎れて揺さぶられるばかりのマルコの性器は、先端からとめどなく雫が溢れてやまなかった。
「ふ、ああっ、ぁ! イ、ゾ、すき、イゾウっ、あ、ぁん、ん――……!」
 呼ばれた分だけ名を呼び返せば、甘ったるく溶けた自身の声など比ではないほどの、甘やかな口づけが降り注ぐ。びくびくと、腹の奥で熱く脈打つものを感じる。舌を吸われ、歯列を舐め取られて下肢がきゅんと疼くたびに、その鼓動は大きくなっていった。
「ん――ふ、ぅ、ああっ、あ、ぁ……!」
「う……ッ、あ、マルコ……っ」
 苦しいほどにきつく、抱き寄せられて。奥の口を捏ねるペニスがひときわ大きく膨張する。子宮になりそこなった温い揺籃に、星が落ちてくる――……。
「ぁ……あッ……や、あつ、い……」
 熱い。体中が熱くて堪らなかった。たった今果てたばかりの、溢れるほどの快楽の余韻だけではない。もっと芯から、或いは心臓から、忘れかけていた何かが噴き上がるような感覚がある。
「は、――……っ!」
 制御を失ったソレが、体の至るところで明滅する。手放したはずの蒼い炎が、確かにそこに、幻影を灯していた。
「なん、で……」
「能力、使えなくなったと思ってたのか?」
「だって、半分、死んだようなもんだと……あっ、や、なんでいま、おっきく……!」
 腕が翼の、足が鉤爪の形を為す。ヒトと異形の狭間にある姿への変貌に比例するように、胎内に埋め込まれたモノが硬度と質量を取り戻していく。ごりゅ、とその先端に奥を押し潰されて、瞼の裏で火花が散った。
「っ……悪い、改めてその姿のお前も綺麗だと思ったら」
「~~っ、ひ、だめ、そこ、ぎゅーってしたら、ぁ、あん!」
「堪らなくなった……ッ」
「ぅあ、ア、あッ……!」
 頭が、体中が熱く蕩けてどうにかなりそうだった。こんなにも沸騰して酩酊しているのに、イゾウが口にしたその姿もという言葉は、正確にマルコの耳に届いていた。
 今の、人獣の姿もということは、ヒトである時もそうだと思ってくれているということで。マルコ自身にとっては美醜のどちらにおいても特徴のない凡庸な容姿に、綺麗だなんて言葉をくれるのは――惚れた欲目以外の、なにものでもなくて。
「あ、ぁ、あッ、だめ、も、おりて、きちゃ、あいちゃう、だめ、だめえッ」
 抱き合ったまま仰向けに転がされて、脚を抱えあげられて結合が深くなる。そうして、降りてきて開く寸前だった花芯を、重力を伴い押し当てられた亀頭が、ずぷりと容赦なく割り開いた。
「ぁ、~~っ、あ、おく、はいって、る」
「ハっ……締めすぎ、だ……ッ」
 爆ぜる――溶けて、掻き回されて、溺れていく。
 熱い吐息が肌を掠めるたびに背がしなり、快楽と共に蒼炎が迸り、頭の天辺からつま先まで駆け抜ける。昨夜の、激しく押し寄せる嵐のような揺さぶり方とは打って変わって、ただただ優しく最奥を撫でられているだけなのに、とめどなく溢れるもので下肢を濡らした。
「マルコ……っいいか? このまま……」
「んっ、うん、ぁッ、もっと、して……っ」
 ぎゅうと、翼に転じた腕で精いっぱい、マルコは己を暴く男に縋りついた。ヒトの腕よりも安定は悪いけれど、この翼ならばイゾウの背に刻まれた誇りに爪を立ててしまわずに済む。
「ひんっ、あ、ア! やぁあっ、そこ――ヘンに、なっちゃ、あうっ!」
 昨夜とはちがって本当に幻出した尾羽の付け根をぐにぐにと押されて、どのような姿でも余すことなく愛されていると伝わって、身も世もなくマルコは啼いた。ひらいた輪から抜けきるギリギリのところで奥を捏ねられて達するたび宙を蹴る鉤爪の先が、止まり木を求めるようにきゅうと丸まっていく。
「ぁーっ、あ、~~っ、イゾウの、びくびくって、して、」
「ん――ッああ、イかせてくれ、マルコ、お前の中で……っ」
「……ぁ! う、あ……ッ」
 これ以上ないほどに膨張しきったペニスが、今にも爆ぜてしまいそうなほどナカで打ち震えている。熱っぽく苦しげな息を吹き込むように耳元で囁かれて、そのまま軽く耳朶を食むから、それだけでまたマルコはまた、とめどない快楽の海へと叩きつけられて戻れなくなった。
「は……ぅあ、ふ……らし、て、おく,いっぱい」
 息も絶え絶えに懇願する。その間も律動は止まず、次第にどこまでが自分の体であるのかさえも曖昧になっていき、そうして――。
「ぐ、ぅうッ……!」
「あ、んん、んッ、ぁ……!」
 一番深いところで、熱い飛沫が弾ける。吐精しきるまで何度も、塗り込めるようにぐりぐりと亀頭を擦り付けられて、そのたびに白く霞がかる視界の中で、マルコは必死に目を凝らしつづけた。イゾウの長い黒髪がつくる、夜の帳のような二人きりの世界。ぱたぱたと滴る汗が自身のソレや涙と混ざり合い、頬を濡らしては滑り落ちていく。
「あ……はぁっ……」
 不意に、がくんと力が抜けた。意識が飛びかけた一瞬で、背に回した翼は腕に、きゅっと内側を向いた鉤爪は足の指に戻っていた。縋り付くだけの力はもう残っておらず、そのままマルコは四肢をシーツの海へと投げ出した。
「マルコ……」
「んっ……ま、って、きゅうけい……」
 すり、と頬を撫でられただけで脳天は甘やかに痺れて、つま先がぴんとこわばってしまう。
「もうしねえよ。汗流したいだろ、ほら」
「っあ! だ、だ、め、いまぁっ、~~っ……!」
 抱き上げられて体勢が変わった拍子に、腹の奥がきゅうと戦慄く。まるで注がれた子種を離すまいとするかのように、幾度も、幾度も。与えられた悦楽の余韻に暫しの浮遊感を味わうのはいつものことだったが、こんなにも体が追いつかないのは初めてだった。
「……大丈夫か?」
 イゾウの腕の中、ただびくびくと身を震わせるしかできずにどれくらいの時間が経っただろう。
「だ、いじょ……ぶに、みえるか、これが……」
「見えないが、まあ、一応聞いておこうかと」
「責任、取れよい」
 ――結局、風呂場まで運ばれる最中にも何度も気をやりそうになって、後処理のためにと指を体内にいざなえば、燻る火種には簡単に火が点いて。溺れるように再び求め合うことになったのは、ある意味当然の帰結だった。
 責任を取れなんて言ったけれど、本当は。
 もっと骨の髄まで甘やかして、愛して、めちゃくちゃに抱いてと、胸の内で呟いたのだから。





◆◆◆




「マルコ。……マルコ、袖は自分で通してくれ、ほら」
「んう……」
 シーツを取り換えた寝台に座らせ衣服を着せていくと、半分夢の中にいるように、うつらうつらと危なっかしく金糸が揺れる。これもまた贈れずに仕舞い込んでいた濃紺の浴衣を何とか着付ければ、ぽふりと枕を抱え、マルコはそのまま倒れ込んだ。
 本当に抱き潰してしまった――こんなにも己は忍耐の効かない人間だったかと、イゾウは頭を抱えた。とっくに腰が立たなくなっていたのに無理をさせて、さすがに吹き清めるだけでは気持ちが悪いだろうと風呂に連れて行けば、体を洗うだけで済むはずもなく。
「悪い……抑えが効かなかった」
 謝意を伝えればいつにも況して眠たげな目が、じとりとこちらを見上げてくる。そうして腕を引かれては、隣に寝転ぶ以外の選択肢はない。
「……もっとしてもよかったのに」
「~~っ……やめろ。おれを外道に落とそうとすんな」
 たちが悪いとは、まさにこのことを言うのだろう。すっかり血色を取り戻した頬を擦り寄せて、寝転んだ拍子に乱れた襟元から覗く火照った肌を惜しげもなく晒しながら、少年の頃のようにふにゃりと笑ってみせる。
 点々と咲く鬱血の中心に、朱く熟れて尖ったままの胸の先までもが見えてしまって、慌ててイゾウは目を逸らした。
「――だいすき。イゾウだけだよい、ぜんぶ」
 背けた頬に、そっと口づけが降る。声も仕草も眠たげなのに、厚い唇は未だ、情欲の色を纏い濡れていた。
「頼むから……これ以上……煽るな……ッ」
 在りし日と同じひだまりのような無邪気さと、歳を重ねるごとに増した色香が綯い交ぜの危うさ。そういうところを心底から愛しているのだと、改めてイゾウは思い知った。本当にそれがマルコの望みなら、まだいくらでもその肢体を組み敷いて、暴いて、寝かせてやらないことだってできるけれど――おそらくは、そうではないのだろう。
「あおってる、つもりじゃねえけど……でも」
「でも?」
「なんでもかなえてやりたいのは、ほんとう。おれだって、お前のしたいこと、ぜんぶ」
 どきりと、拍動を止めて久しい心臓が高鳴ったような、そんな気がした。もしかするとすべてを、見透かされているのではないかと。
「ん……ふ……」
 戯れのように、啄むように触れるだけのキスを交わす。柔らかな金糸を撫でてやれば心地よさそうにマルコは目を細めて、歌ってと、到底我が侭とは呼べぬような愛らしい願いを口にした。
「歌?」
「そう――いつもうたってくれてた、あの子守唄」
「ああ、あれか……」
 歌というものが、イゾウはあまり得意ではなかった。得手不得手というよりも、ワノ国に伝わるわらべうたと外つ国の、それも海賊の陽気な歌とでは抑揚に些か差異があったのだ。それによって生じる違和をうまく克服できなかったと言うべきか。少しばかり調子外れのビンクスの酒を、この船の家族は誰も笑ったりはしなかったけれど――そも、音楽家でもない連中の三割方は調子外れどころではない音痴である――皆が集う宴席でもない限り、人前で歌うということをしてこなかった。ただひとり、マルコの前を除いて。
「……んなじっと見られると恥ずかしいんだが」
「だいじょーぶだよい、もうだいぶ、ねむいし……」
 マルコが珍しく体調を崩した時や、深手を負い、その身に宿した異能の力をもってしても回復に時間を要した時。ニューゲートの体を蝕む進行性の病が発覚した日も、スフィンクスへと逃げ延びてその目覚めを待っていた日々も。憔悴し、涙を押し殺し、力なく横たわるマルコを前にして、イゾウができることはあまりにも少なかった。その手を握り、少しでも安心して眠れるようにと慣れぬ子守唄を口ずさむ――それくらいしか。
「花はあえかに……」
 すう、と息を吸い旋律を紡ぐ。思い出の中にある言の葉ひとつひとつに、拙いながらも祈りを込めて。腕に抱いた体が少しずつ弛緩し、とろりと、眠たげな瞼が落ちていく。
「すべての 子らよ 海に ねむれ……」
「……ん、」
 薄青の瞳が瞼の向こうへと閉ざされる刹那、緩く袖を引く感覚があった。
「な……イゾウ、やくそく」
「何だ?」
「あしたも……めがさめたとき、そばに……」
 呂律の怪しいまま言い募るマルコの声が途切れる。すう、と静かな寝息がすぐに聞こえてきた。憑き物が落ちたように穏やかで、少年の頃と同じあどけなさを湛えた寝顔がそこにあった。
 ずっと、とか、もう二度とではなく。明日とマルコは言った。
 その自覚が当人になくとも、とっくに答えは決まっているのだろう。どうなるとしても――どうするとしても、泣き顔だけではなく笑顔を覚えていてほしいと言ったあのときから。或いはもっと前、選択肢があると知った時点で。
 泣いて縋ってくれた昨夜に、てらいなく甘えてくれた今日に、どれだけの葛藤があったことだろう。無理をして笑ってはいないとマルコは言う。しかし自ら死を選ぶほどの苦しみがこんな僅かな時間で、何事もなかったかのように癒えはしないことを、イゾウは誰よりも知っている。
 自責の念に駆られるまま命を絶ちたいという衝動が、この命のすべてを燃やし尽くしても仇を討ちたいという執念に変わり――そしていつしか、悲願のため命を賭すことは辞さないが、それでも叶うなら未来へと生き抜きたいという意志に変わるまで。何十年という時間を費やした。
「無理、するなよ……。もういい、もういいんだ、マルコ」
 今この腕の中で眠る最愛がずっと寄り添っていてくれた半生をかけて、ようやく自分が生きていることを、許せるようになったというのに。
「……お前はもう、充分すぎるほど」
 よくやったし、傷ついてきただろう。
 ――続けるはずだった言葉を、イゾウは苦さと共に飲み込んだ。
 違う――違う。これは、こんなものはひとつも、彼を慮ったゆえの言葉ではない。
「ああ――……クソ、どうして」
 窓の外、深く暗い水の中を、はらはらと白い欠片が舞い降りてくる。
 マリンスノー。生を終えた、生命から切り離されたものたちが海の下層へと沈みゆく微粒子。生と死の狭間の方舟へ降り注ぐその欠片たちは、或いは役目を終えた魂そのものなのだろうか。
「……離れ、たくない」
 本当に、マルコのためを思うのなら。まだ生きている人間の未来に、死人が口を出す権利はないと心底から理解しているのなら――ここへ留め置くことなどせず、ただ現し世へと帰してやればよかったのだ。
 きっと今頃、ビブルカードに生じた異変を感じ取った兄弟たちが楽園の島へと駆け付けている。必死にその命を繋ごうとしている。目覚めれば傍に気心の知れた者たちがいて、誰にも弱音を吐くことのできなかったワノ国とは状況が違う。
 傷つけることを承知で手を離した以上、その心に、踏み入るべきではなかった。
「お前を……離したく、ない……ッ」
 滲む視界を誤魔化すように、抱きしめる腕に力を込める。起こしてしまうかもしれないと気遣う余裕は、もうなかった。顔を埋めた柔らかな金糸へと水滴が落ちる。
 連れて逝くなんてできやしない。
 どうあれ生きてほしいと願った気持ちにも嘘はない。
 それでもたったひとつ――遠い願い星のような光が、一度は手放した何よりの宝が、もう一度掌中に降りてきて。羽根を休めるまでの僅かな猶予を貰うことで拭えると思っていた未練は、触れれば触れるほどに燻り、激情が胃の腑を焼いた。
 ずっと傍にいてくれたことが、その慈しむような愛情で生へと繋ぎ留めてくれたことがイゾウにとってどれほどの救いだったか、きっとマルコは知らないだろう。
 深海の淡雪が舞う。
 波の音が、雨のように残響する。
 静謐な水底の繭の中で、イゾウはひとり思い返していた。海に生きると決めて得たかけがえのないものと、永久に失われた春のことを――……。