ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー
4/ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー
正射必中。その心構えは、弓をつがえる時と変わらない。呼吸を整えて標的を見据え、そうして引鉄を引く。
ダァンッ!
銃声が夜の空気を震わせた。騒がしかった宴席が、一瞬にして静まり返る。――そうして、暫しの沈黙の後。
「お……おおお……!」
「すげえ! 何だ今の! すげえじゃねえかオイ!」
「こりゃ宴だな! 飲まずにいられねえ!」
「あっはっは! 酔っ払いども~~もう飲んでんだろ!」
割れんばかりの歓声と拍手、もう何度目かもわからないジョッキをぶつけ合う音がそこかしこで響く。等間隔に並べられた樽の上の廃材と、その向こうにある的の中心を、弾丸は正確に射抜いていた。
しかしどれほどの称賛を浴びようとも、それをイゾウは、素直に喜べなかった。
「何だどうした、浮かない顔だな」
「……ビスタ」
何かと兄貴面をして世話を焼いてくる青年が、ぽんと肩に手を置く。気遣ってくれていることはわかるが、それだけに余計、複雑な気持ちになった。この男が、剣士だから。
「こんな、余興にしか使えないものが得意で何になる」
「何言ってんだ、戦闘で飛び道具があるとないとじゃ大違いだぜ。誇っていい特技だろうに、どうしてそんな卑屈になる?」
「だが……おれは、侍だ。あの方の剣でなければならないのに……皆には遠く及ばない」
故郷に残してきた彼らが、口では素気なくあしらいながらも、影で血の滲むような努力を重ねて主君の技を会得したことを知っている。イゾウはその境地に至れなかった。共に剣の道を志したというのに。
「皆がどうした。お前はお前じゃねえか」
「お前に何が――」
「侍ってのは大事なモン守るために命懸ける奴らなんだろ? いいじゃねえか、得意技で守ろうぜ」
「……!」
目から鱗が落ちるとは、きっとこういうことなのだろう。得物はあくまで手段に過ぎないと、在り方こそが本質なのだと――そんなことは今まで考えもしなかった。
何で守るのかではなく、何を守るのか。憧れた強さへの未練は尽きないけれど、
「イゾウ!」
ふわりと眼前で揺れた幻影の翼が、一瞬にして人間の腕へと転じる。そうして視界いっぱいに柔らかな金糸と、きらきらと輝く瞳が揺れた。
「うわっ……! 銃持ってんのに飛び付くな! 危ないだろ……!」
「すっごかった……! すごかったよい! なあもう一回、もう一回やって!」
守りたいものの中にはいつしか、この船の上ひしめく笑顔も含まれていた。叶うなら、どちらも手放したくない。すべてを守りたい。それから――……それから。
「……イゾウ?」
「何でもない……」
感激したり心配したり、そんな感情の発露と共に直ぐ抱きついてくるこの少年を。その眩しさに焦がれては、危うさに心乱される。稀有な能力ゆえの無茶をやめるつもりがないのなら、守ってやらねばと思うのだ。
他の誰でもなく自分が、一番近くで――守りたいと。
その感情の名前を、イゾウは知っている。出国の夜、空に光を散らした幻影の翼に目を奪われたあの時から――たぶん、一目惚れだった。
「顔、赤いよい。熱でもあんのか?」
もう何年も傍にいて気づきやしない鈍ちんが、ずいと顔を近づけてくる。
「な、何でもないって言ってるだろ! うわバカ、やめ――」
「おーおー、お熱いねえ。いや若いってのはいいなあ!」
「おでん様……!」
こつんと触れ合った額が火傷しそうなほど熱い。こういうとき真っ先に囃し立てる主君を中心に、何に盛り上がっているのかもよくわからない連中まで陽気に笑いだし、宴席がいっそうやかましさを増す。秘めた恋情に気づいている大人たちの生暖かい視線が居た堪れなくて、イゾウは咄嗟にマルコの手を引いてその場から駆け出していた。
触れられて、動転するあまり自分から手を伸ばして。
頭はとっくに茹だっていたから、二人で何を話したのかよく覚えてはいないけれど。
そんな穏やかな日々がずっと続くのだと、信じていた。
この海の残酷さも、故郷が様々な問題を依然抱えていることも知っていたのに――馬鹿な夢を見たものだと思う。
「ちっと頭を冷やせ。てめえの命も顧みられねえ、そんな愚か者に育てた覚えはねえぞ」
感情を押し殺した声で告げ、この海で父と呼んだ人が去っていく。育てられた覚えなどないと反目するような時期はとうに過ぎ去って、イゾウはエドワード・ニューゲートを心から慕っていた。
荒々しく閉められた扉には、外側から鍵がかかっている。この『空き部屋』へ引きずってこられた時、自決できぬようにと得物や紐状の物は取り上げられた。船底の牢屋にぶち込まれないだけ温情があるとはいえ、これは謹慎ではなく軟禁だ。
――舌を噛み切る可能性を考慮していないのは、少し甘すぎやしないかと思うが。
或いは、考慮するだけの余裕がなかったのかもしれない。あの人を悼んでいるのは自分だけではない。あの人はニューゲートの『弟』だった。
帰りを待っていた主君の、光月おでんの訃報がモビー・ディック号へと届いたのは、一年だけという約束で彼の人がロジャー海賊団の船に乗ってから八年後のことだった。
事が起きたのは二年も前で、今や故郷は――ワノ国はカイドウ率いる百獣海賊団の完全な支配下にあるという。鎖国国家であるワノ国の情報は、そう易々と出回らない。その弊害をこのような形で思い知らされる日が来るとは思わなかった。
知った時にはすべてが遅かったなどと、悔やんでも悔やみきれない。
ワノ国へ進路を取ってほしいという嘆願は、当然のことながら却下された。強大な戦力を有する海賊団同士の激突など、民にどれほどの被害が出るかわからない。海軍の横槍が入れば更なる悲劇を招く可能性もある。それらの懸念は至極当然のことで、努めて冷静に諭そうとするニューゲートの握った拳から血が滴るのを見てしまっては、イゾウは反論することなどできなかった。
だから密かに船を飛び出そうとした。そして失敗した結果が現状だ。
トキ様は、モモの助様は、日和様は――弟は、同心たちは。誰の安否もわからぬまま、不安と後悔を抱えもう二度と心の底から航海を楽しめぬまま、この船で死んだように生きていけというのか――……。
そんなのは御免だと頭を振る。武器は取り上げられたが、椅子を振りかぶれば窓はぶち破れるだろう。或いは具合が悪くなった振りをして、様子を見に駆け付けた誰かを制圧する――だめだ、家族相手にそんな真似はできない。そんなことをしたら。
コン、コン。誰かが扉を叩く音が、暗澹と沈む思考を途切れさせた。
「……イゾウ?」
ひそやかに、様子をうかがうように。今、一番会いたくない奴の声がした。
「なあ、まだ起きてるか……?」
わざわざそんなことを問うのなら、眠った振りをして息を潜めていれば立ち去ってくれるのか。その期待も虚しく、扉の外鍵がカチャカチャと音を立てた。
なぜ鍵を持っているのかと舌を打つ――否、考えるまでもないことだ。オヤジはどこか、依怙贔屓だと誹りを受けない程度にだが、マルコには甘いところがあるのだから。
「……何しに、来た」
「飯、まだだったろ。無理に食えとは言わねえけど」
木製のトレーに乗った握り飯はひどく歪な形をしていて、きっと本職のコックではなくこの男が用意したのだろうと一目でわかった。好いた相手が手ずから作った食事。こんな状況下でなければ、柄にもなく舞い上がり賑やかな連中にからかわれて、騒がしくも幸せな日々の一端となっただろう。それすらも今のイゾウには、ひどく空虚で、煩わしく、苛立たしいばかりだった。
「……出て行け」
「たぶん明日まで出してもらえないよい。諦めて今夜は休んどけ」
掠れて、ひりついた声の制止も聞かずにマルコは部屋へと踏み入ってくる。何年も使われていなかったであろう机の埃を払い、その上にトレーを乗せる背中はひどく無防備で、手負いの獣がすぐ傍にいることなど何もわかっていないようだった。
あまりにもいつも通りの、何事もなかったかのような――こちらを気遣っているがゆえだとわかるその振る舞いが、腹立たしくて。
「眠れなくても、横になるだけでいいから――」
「出て行けと言ってるだろ……!」
鈍い音が響く。僅かに苦悶に呻く声も。気づけばイゾウは無警戒に振り向いたマルコの胸ぐらを掴み、硬い床へと組み敷いていた。
「呑気な奴だな……おれが『家族』には何もしないとでも思ったか。お前を人質に船を奪うことだってできるんだぞ!」
マルコは小さく咳き込んで、しかし抵抗や反撃のひとつもしなかった。ただ静かに凪いだ瞳でイゾウを見上げてくる。その目の端は赤く腫れていた。泣いた痕だと、一拍遅れてその意味を理解して――たった今自分が仕出かしたことが、どれほど短慮であったかを思い知った。
目の前の男が、主君に懐いていたことを。船医見習いとして奥方を気にかけていたことを。御子女とよく遊んでいたことを、知っているのに。
「……すればいいよい。それでお前の気が済むなら」
――できるわけが、ない。
そんなことをしたが最後、イゾウはこの船の裏切り者だ。鉄の掟を破ろうとした愚か者をたとえマルコが許したとしても、ニューゲートは、他の兄弟たちは処断せざるを得なくなる。一度は家族と呼んだ者を手にかけさせることになる。
自分の大切な人を、同じくらい大切に思ってくれている人たちに――共に旅路を行きたいと心から慕った人たちにどうしてそんな真似ができようか。
脅しのつもりで口にするだけで胸が張り裂けそうだった。
だから放っておいてほしかった。こんなふうに、手を上げたくはなかったのに。
「正論も慰めも綺麗事も、今のお前は聞きたくないだろ。だから言わない。言ってやらない……でもひとつだけ、おれだけがしてやれることがある」
蒼い炎を纏ったまぼろしが、目の前で翼の形を成す。否が応でも、あの嵐のごとき出航の夜を思い出さずにはいられなかった。まさかと、イゾウは思った。
「……一緒に、帰るか? ワノ国に」
そのまさかを、マルコは口にする。
「きっとすごく怒られるけど、お前ひとりくらいなら内緒で連れてってやるよい」
――嘘つきめ、耳障りのいいことばかり言うな。お前がオヤジの信頼を裏切れるわけないだろう。
そう、否定したいのに。戯言だと一蹴したいのに。それができない。マルコが、こんなときに都合のいい嘘を吐くような人間ではないと、どうしようもなく理解している。
「お前が命を捨てても一矢報いるっていうなら、一緒に死んでやる」
慈雨のように降り注ぐ優しさが、痛い。
差し出されるほどに、思い出さずにはいられなくなる。誰より近くで、ずっと守ってやりたいと――そう願った過日を。
「……なんで、そんなことが言える。おれの特攻に付き合って心中して、お前に何の利があるって言うんだ」
あたたかな翼に、イゾウは震える手で触れた。応えるようにヒトの腕に戻った、その指を絡め取り問いかける。
そんなわかりきったことを、聞かなければよかったのだ。聞かずに突き放して、独り死出の航路へと勇んでいれば、きっともう少しだけ傷つけずに済んだ。無謀で愚かで、ほんの数年だけ兄弟だった男のことを、いつかマルコは思い出にしただろう。
「言いたく、ない……言ったらイゾウ、自由じゃ、なくなっちゃう……」
その震える声に滲む想いを。
繋いだ指先に灯る温度を。
きっと、人は愛と呼ぶのだろう。
「言えよ……おれも同じ気持ちだから」
嘘を吐いた。この想いは、今まさに眼前に差し出されている愛情のような綺麗なものとはまるでちがう。
こんなにも愛おしい生き物を、自分だけの宝箱に鍵をかけて閉まっておきたい。人知れず波間に散るはずだった淡い初恋から転じた――もっとずっと重たくて、歪で、醜悪な欲望だ。
「……好き。イゾウのこと、好きだよい」
真っ直ぐに、掛け値なく想いを口にするマルコの薄青の瞳に張った水の膜が揺らぎ、溢れてその頬を伝い落ちる。
「大好き……だから。ひとりで、いなくなるなよ……」
思慕と呼ぶにはどこか幼く、親愛の情との区別も曖昧なソレを――差し出されるまま喰らい、溺れてしまえば、きっと少しだけ呼吸は楽になるのだろう。繋いだ指を、その形を確かめるように握り直して、硬い床に組み敷いてしまった体を抱き寄せる。マルコが身じろぐたびに梔子のような薫りがした。眩き太陽の作り出すひだまりそのものの如き常の印象とはまるで違う、どこか艶めいたありように眩暈がする。
そうして唇が重なりそうになったところで――はたとイゾウは我に返った。
「イゾウ……?」
絡めた指先が微かに、震えている。平生を取り繕った声は揺れていて、間近で感じる呼吸は浅い。今まさに塞ごうとした唇には、噛み締めたのか薄っすらと血が滲む。
――当たり前だ。怖くないはずがない。それが合意の上であっても、命を捨てることすら厭わないほど思い詰めた男に体を差し出すなど。
馬鹿な間違いを犯そうとした頭が、すっと冷えていく。
「大丈夫、だから。何してもいいから、離れないで……。お前が独りになる方が、怖いよい……」
先を促すように、繋いだ手に頬を擦り寄せられてイゾウは頭を振った。――駄目だ、本当に大切に思うのなら、それだけは。守ってやりたいと、この恋を自覚して芽生えた情動すら忘れてしまうところだった。
ただ目の前の存在を掻き抱く。壊してしまわないように、しかし決して、離れていかないようにと。
「……しねえの?」
「ああ」
「なんで……?」
「お前が大事だから……そんな理由で、したくない……」
どれほど大切な、命すら捧げると決めた人を思うが故の悲しみだとしても。他の誰かに心を向けながら体を重ねるなどという真似を、したくない。今目の前にいる彼は、遣る瀬無さや悔恨をぶつけるための捌け口などではない。
父と慕う人を裏切って、勝ち目のない戦いに付き合って心中してもいいとさえ言ってくれた――その愛を、ひたむきさを、己の弱さで汚すことだけはしたくなかった。
「なあ、マルコ……」
「うん」
「明日まで、このまま傍にいてくれるか」
間近で見下ろした薄青の瞳がぱちりと瞬く。虹彩が蒼炎の色を宿していないことに、イゾウはひそやかに安堵した。空を駆ける美しさにどれほど焦がれても、マルコには人でいてほしい。人の理を外れることなく、あたうかぎり長く、健やかであってほしい。
「……明日まで、だけじゃなくて……ずっと。傍にいるよい」
柔らかな髪が喉元を擽る。強張った背を抱き返し、寄り添っていてくれる体温が、こんなにもあたたかくいとおしい。
「お前が嫌だって言うまで、ずーっと」
海のようだと思った。その優しさを、愛の深さを。きっと自分は碌な死に方をしないだろうと、漠然とだが予感があって――それでも、このあたたかな命のもとへ最後に帰れるのなら。それは夢を失い、絶望に倒れ、後悔を引きずりながらも生きていくこの先の人生において、一匙ばかりの救いとなるだろう。
「嫌だなんて、言うものか。そんなこと言って、逃がしてやれねえぞ……」
「いいよ。ぜんぶ……全部、あげるよい」
その夜は結局、一睡もできなかった。ただ静かに抱き合って、とりとめのない話ばかりをして。時折思い出したように溢れる涙を互いの指先で拭う内に朝を迎えた。二人して風邪を引き、脱走を試みた時よりも叱られたことだけは笑い話だ。代わる代わる見舞いに訪れた兄弟曰く、冬島に接近し、船外には雪が降っていたらしい。
――それが、少年でいられた時間の終わり。
苦い記憶の傍らにある、木漏れ日のような思い出だった。
「ッ……あぁああああ!」
絶叫が暗く染まった空に、海に響き渡る。
斬られようと刺されようと、その生命力が続く限り灰燼の内から再生できたはずの男の苦悶に満ちた声に、誰も彼も対応が遅れた。気づいたときには遥か上空で、幻影の翼が掻き消えていた。
墜ちる――墜落する。あの高さから、生身で。
「マルコーーーーッ!」
最悪の想像が結実し、その体が折れたマストへと叩き付けられる寸前。辛くもイゾウが伸ばした手は届いた。受け止めた勢いのまま甲板を転がり、落下の衝撃を殺す。辺りには血と硝煙の匂いが満ちている。
「ゼハハハハハ! アンタのそんな悲鳴、初めて聞いたぜ……!」
一度は家族と思った男の、不愉快な哄笑が木霊する。守るべき命が腕の中になければ、すぐにでも殺してやりたかった。最優先すべきは安否の確認と撤退だ。一人でも多く生きて帰ることだ。ジョズとハルタがティーチを抑えに向かった。今は怒りと憎悪を飲み込んで、信じて任せるほかにない。
鉄の匂いは間近にあった。そうしてようやく視線を落とし目にした光景に、イゾウは瞬間、言葉を失った。
「……っおい、マルコ! マルコ……! しっかりしろ!」
抱き留めた体は今にも崩れ落ちそうなほどぐったりと弛緩し、その瞼は固く閉ざされ夥しい量の血に塗れていた。
傷の走り方を見て理解する。理解せざるを得なかった。あの悲鳴が耳に届いたとき、何が起こったのかを。
マルコが両目を横に一閃、切り裂かれたのだということを。
「へへ……おまえなら、たすけてくれるって……しんじて、た」
「そ、んなこと……言ってる場合か、クソ……! なんで、なんで再生しない……っ!」
出血が止まる気配はなく、復活の炎がその身を包む様子もない。幼い日、いつか、岩礁に叩きつけられ死に瀕していた姿が脳裏を過る。不吉に過ぎる想像を振り払わんとイゾウは頭を振った。しかし腕の中で着実に、マルコの体温は失われていく。
トリトリの実幻獣種モデル『不死鳥』の能力は万能ではない――ということになっている。術者本人の肉体とて無限に再生できるわけではない。大元の生命力が底をつこうとすれば、その分だけ傷の治りは遅くなっていく。実を食べた者を、生と死の境を超越した埒外の化け物へと変えてしまうことはない。
そうであれと、大海賊エドワード・ニューゲートは愛する息子に暗示をかけた。
人の道を外れて、いつかマルコが独りになってしまわないようにと。
「……その結果が、これなのか……?」
――一人きりで残される辛さを、イゾウも少しはわかっているつもりだった。
だからニューゲートの考えは理解できる。ただ生き残ってしまっただけでも耐え難いほどの後悔と痛みを味わうというのに、本当に実が冠した名の通り不死性を得て取り残されるなどと、自分ならばきっと正気ではいられない。
しかし今、目の前でその命が失われゆく様を見て願ってしまった。
どれほどの孤独に苛まれ、苦しむ道であったとしても――どうあれ生きて、生き延びてほしいと。
それがマルコにとってどんなに残酷な願いであるかを、ずっと近くで見てきた。知っていたのに。
「……な、あ……イゾウ、」
「っ……マルコ!」
「おいて、にげて……も、う……飛べねえ、から……」
「バカ言え! 絶対に離さないからな……!」
弱々しく袖を引いたマルコの指先から力が抜け、そのままぱたりと滑り落ちる。
世迷言を一蹴し、抱き留めた体を取り落とさぬように抱え直す。そうしてイゾウは、はたと気づいた。あまりにも、軽すぎると。無論、その体躯を苦もなく抱き上げられる程度の鍛錬は積んでいる――しかしそれでも、自分よりも上背のある男を抱えれば肉体に相応の負荷は掛かる。
それが全く感じられない。まるで命の重さまでも失われているようだと――マルコの命がどこにもないようだと、更に不吉な考えが脳裏を過る。
そもそも重力と加速度を伴い落下してきた人間ひとりを受け止めて、その衝撃も甲板を転げる痛みも殆ど感じなかったのはどういうことだ。
「許さないからな! お前だけは、絶対に……ッ!」
悲しみと怒りに満ちた声が耳に届き、イゾウは後方を振り仰ぐ。そして視界に飛び込んできた光景に驚愕した。剣を振りかぶるハルタの両腕に、青い炎が点っている。その背中を守るジョズにも。
目の前で弱まりゆく鼓動が気がかりで、今の今まで気づきもしなかったが――自身の肩にも、その加護は未だ寄り添いつづけていた。
ひゅう、と喘鳴のように喉が鳴る。
「お前……ッ馬鹿! おれたちに分けてる炎を早く消せ……!」
腹の底から叫んだ。しかしその切なる懇願にも、マルコはふるふると力なく首を振るばかりだった。昔から、いつだってそうだ。まだ戦闘員ですらなかった頃からこの男は、彼自身の命を勘定に入れていない。来歴を考えれば仕方のないことなのかもしれない。
それでもやめさせたかった。もっと自分自身を大切にしてほしかった。何年、何十年とイゾウは言葉を重ねてきた。立場に伴う責任が大きくなるにつれ、後先を考えず盾になるようなことをマルコはしなくなったはずだった。
今――ここにはもう、最後まで生きて、立って、守らなければならない人がいない。自身を捨て石とするような無茶はそれが故か。
「やめ、ろ……やめてくれ、頼むから……!」
そんな真似をさせないために、ここにいるのに。誰より近くで守ってやると、あの幼き日に誓ったのに。悔しさに滲んだ涙が、ひとつ、またひとつと、マルコの青褪めた頬に落ちていく。
「生きろ……おれのために、生きてくれ……」
滴り落ちた水の粒に呼応するように、ふるりと血に塗れた瞼が震えた。その目の端から涙が伝ったのを皮切りに、自身の肩に点されていた青く輝く灯火が消えていく――ああ、よかったと、イゾウが安堵の息を吐いたそのとき。
「ふ、んぐッ……!」
剣戟の音が間近で鳴る。受け止めた得物の重さに低く唸る声も。視界の端で、決して楽観視できない量の血飛沫が舞い上がる。
「ビス、タ――」
「構うな! その強情なクソガキ連れて早く逃げろッ!」
身を挺して守られるまで、迫りくる攻撃にも気づかなかった。手負いの仲間に更なる負担をかけてしまった――それほどまでに、喪うことへの恐怖に動転していた。しかし己の失点を恥じて、悔いている暇などありはしない。行動を起こさずにいれば何が起きるか、たった今思い知ったのだ。
叱咤する声に背中を押されるまま、守るべきものを腕に抱いて、イゾウは敗走の途へと駆け出した。海に飛び込み、駆け付けた救援の元へと流れ着き、永久指針を頼りに楽園の島に辿り着くまで――……決して、振り返ることをしなかった。
そうして、丘の上の水車小屋に身を隠しひと月が過ぎた。
月も星もない夜だった。わき机のランタンが照らす薄暗がりの中で、時折か細く弱い炎が灯っては掻き消える。悪魔の実の能力は通常、宿主の意識がない状態では効力を発揮しないはずだが、この底知れぬ幻獣だけは勝手が違う。マルコの中にいる不死鳥は、よほど今の宿主を死なせたくないらしい。
「頼む……連れて、いかないでくれ……」
生きていてほしい。ヒトの側に留まっていてほしい。二重の思いを込めた祈りは、果たして届いているのだろうか。あの戦いからずっと、マルコは目を覚まさぬままだった。当人の意識の外で発動する能力によって、見かけ上の外傷は癒えている。呼吸も、心臓の鼓動も耳を寄せれば聞こえる。
ならば――なぜ? あのときの無茶で、命そのものを使い果たしたとでも言うのか。最悪の想像が過っては、眠れぬまま夜を明かした。
再びぱちりと、蒼い炎が燃え上がる。固く繋いだ指先にまで点るそれは、術者本人の意思を外れた今この瞬間、まるですぐ近くに在る他者の生命力を求めているかのような、不吉な輝きを放っていた。
「……いいさ。それでこいつが、生きられるなら」
マルコではなく、その心臓に根を張る悪魔へとイゾウは語りかける。
「何だってくれてやる、全部……!」
熱を持たぬ炎が、ごうと天井まで吹き荒れた。金と青緑煌めきを纏った粒子が、海中に降る雪のように舞い落ちてくる。それが本当に自身の持つ何か――寿命だとか、生命力だとか呼べるものを差し出した結果なのかはわからない。そんなことはイゾウにとって重要ではなかった。ひと月も閉ざされたままだった瞼が震え、薄青の瞳がゆっくりと瞬いたことの前では、すべてが些事だった。
「マルコ……」
「ぅ……あ……」
何度か瞬きをして、徐に起き上がろうとしたその体が敢えなく寝台へと崩れ落ちる。
「っ……おい、無理するな!」
病み上がりだという自覚がないのだろう。血と消炎の匂いに満ちた戦場で意識を失ってから、ずっと眠り続けていたのだ。その分だけ筋力が低下しているということにも、おそらくはまだ、マルコは気づいていない。
「その、声……イゾウか……?」
少し痩せた背中を支えて抱き起こせばようやく、意味のある言葉をマルコが発した。本当に意識が戻ったのだという安堵に、しかし水を差す懸念があった。
「あ、ああ……どうし――」
――どうしてそんなことを聞く。問おうとした言葉が、喉につかえて途切れる。間近で見れば見るほどに憂慮が募る。先ほどからずっと、マルコの目の焦点が合っていないような、そんな気がするのだ。
あの戦いで、マルコが受けた傷は――それを治すことを後回しにして、最後まで味方の護りに能力を注ぎ込んだのなら――……。
「見えてねえんだ、殆ど」
その懸念はやはり、杞憂には終わらなかった。
「殆ど……って」
「言葉通りの意味だよい。……こんなに近くじゃなきゃ、お前の顔もよくわからない」
あと少しで唇が触れ合うほどの距離で、不安げに揺れるまなざし。少しでも安心させてやらなければと思うのに、イゾウにはかけるべき言葉が見つからなかった。
暫しの逡巡の後、恐る恐る伸ばした手で、少し痩けた輪郭に触れる。マルコは心地よさそうに目を細めて、手のひらに頬を擦り寄せた。幼い頃から、まるで変わっていない仕草だった。
自身も寝台に腰掛けて、イゾウはその肩を抱き寄せる。
「これ……傷? あのときの……?」
今度はマルコの手が、自身の額に触れていた。瞼まで線状に走った傷の痕を、労わるように指がなぞる。
「ああ」
「……ごめん。治してやれなくて」
「気にするな。お前のせいじゃないだろ、何も」
イゾウにとっては、そういえばそんなものもあったな、程度の認識だった。誰に付けられたのか、流れ弾に当たったのかも定かではない。あの場から無事に離脱できるかということ、この島に辿り着き身を潜める日々の中で一向にマルコが目を覚さないことに気を取られるうちに気づけば塞がっていた。それ以上でも以下でもない。
現に、完全な失明にまでは至らなかったとはいえ、両眼を切り裂かれたマルコの方がよほど重篤な後遺症を負っている。宿主の意思を離れた力による再生が始まった時にはもう、治癒できる段階ではなかったということなのだろう。
だというのにこの男は、イゾウの傷を治せなかったことを――船医として立ち回れなかったことを悔いている。どこまでも自分のことは二の次なのだ。
「男前が上がったと言ってくれ」
伏し目がちな瞼にそっと口づける。抱いた肩が、ぴくりと揺れた。
「うん……へへ、本当だ」
そう言ってマルコは、今にも泣きそうな顔で笑う。敗走の責もすべて自分にあるとでも言いたげな、苦しげな笑顔だった。
「……なあ、イゾウ。ありがとうな」
「急にどうした」
「あのとき、とっくに諦めてたおれの命を……諦めないでくれて」
「言っただろ。お前が自分で自分を大事にできないなら、その分おれが守るって……ずっと前から」
まだ、この想いが淡く不確かな恋だった頃。先のことなど何もわからないのに、逸る気持ちのまま抱きしめた夜を思う。その体が常人ならば死に至るほどの傷を負う前に守れた試しなど、片手で数えるほどしかなかったが――それでも少しは、助けになれたと自惚れていいだろうか。
「意識はなかったけど、ずっと感じてた。傍にいて、手を繋いで、話しかけてくれてるの。だから平気だった。寂しく、なかったよい……」
溶けるような笑みだった。無邪気でいられた頃のようにいとけなく、しかし帰る場所を失った諦念が翳りを落としてもいた。
堪らず抱きしめれば、肩口がじわりと濡れていく。まだ自分が逃げ場を作ってやれることに、この腕の中でマルコが泣けることに、イゾウは心底から安堵した。
「あ、れ……わりい、涙……なんで」
「無理しなくていい。止めなくていいから……」
もういいんじゃないか――そんな考えが、脳裏を過る。多くを失い、重い後遺症を負って、こんなにも追い詰められて、それでも生きていてくれるだけで充分だろう。嵐のように立て続いた凶事の中でも諦めずにマルコは足掻いたのだ。このまま羽根を休めたとて、誰にも非難される謂れはない。その傍らに、いてやりたいと思う。その身に宿した類稀なる力を奪わんとする者から、或いは四皇『白ひげ』の残党を殲滅せんとする勢力から、マルコを傷つけようとするすべてのものから――今度こそ傷を負う前に守らなければと、そう思う。
そうして過ごす時間が主君の、父の、兄弟の無念を晴らせぬ停滞に満ちた余生だったとしても――もう、あんなふうに傷つけられる姿を、見ることは。
「……イゾウ」
静かに、夜の海が少しだけ波立つように。マルコの声が二人きりの暗がりに響いて、溶ける。
「もう少し……もう少しの間だけ、傍にいてくれるか?」
「妙な遠慮するなよ。これからずっと、お前の傍に――」
「ううん。慣れればきっと、前みたいに動けるから。命や意思を持つものなら、見えなくても覇気でわかる。だから……まだ、戦えるよい」
顔を上げたマルコの眦に、もう涙の痕はない。ひそやかに、仄かに点った蒼い炎が、滴る雫ごと掻き消すのを見てしまった。
ああ――そんなことではなく。そんな、持っていて当たり前の痛みを、弱さを消すためではなく、その目を治してくれたならどれほどよかったか。そのためなら己の命くらい、何ひとつ惜しまずイゾウは差し出せた。
「戦うって……無茶言うな! 危険すぎる、そんな体で……!」
言い募れどもマルコは首を振る。その瞳に宿った意思は揺るがない。
「おでんの仇、討つんだろ」
「っ……!」
ひゅう、と喘鳴のように喉が鳴る。目を背けようとした傷跡が、生涯抜けることのない棘が、じくじくと膿んで痛みだす。
「お前が本当にもう仇討ちなんか忘れて、世間の目からも隠れて穏やかに過ごしたいって言うなら止めない。お前が、イヌやネコが、あのとき出会った奴らが――……そのために命張るよりも、少しでも永く生きて幸せになってほしいって、きっとおでんはそう思ってる。それくらい、おれだってわかるよい。あの人はオヤジの弟で、一緒にいたのはほんの数年でも、家族だったから……だけど。それじゃ、だめなんだろ?」
覇気を研ぎ澄ませたままだったのは失敗だった。このひと月、ずっと追っ手を警戒しながら暮らしていたから。声に出す言葉とは裏腹のマルコの内心が、制御を外れて流れ込んでくる。
――行かないで。このままずっと、この島で傍にいて。もう誰も喪いたくない。もう独りに、なりたくない……。
「行こう。本当に二人だけになっちまったけど……お前ひとりくらいなら、連れてってやるよい。そのときが来たら、必ず」
泣いている。本当は行ってほしくないと、イゾウに死地へ赴いてほしくないと、マルコの心は悲鳴をあげている。それでも本音を押し殺して気丈に笑い、あの日と同じ言葉を口にするから。その献身に応えなければ嘘になる。
こんなにも愛おしくて、離れがたくて、危険な場所になど二度と立たせたくはないけれど――一度選んだ生き方を、曲げることだけはできない。立ち向かわずに逃げ出すことだけは、したくなかった。
「……マルコ」
「ああ」
「マルコ」
「そんなに呼ばなくても、聞こえてるよい」
「マルコ……」
名を呼ぶたびに、想いが溢れる。涙が、そっと頬に触れるマルコの指先へと伝い落ちていく。
「――……愛してる」
「うん。知ってるよい、ずっと前から」
「すまない……一緒に、死んでくれ……ッ」
強く――強く、イゾウはその体を掻き抱く。
ひどいことを言った。生きろと、呪いをかけたばかりなのに。誰より愛しくて、大切で守りたくて、なのに――救われてばかりで、何ひとつ守れやしない。それどころか己の勝手で、その生き死にさえも縛り付けて。
「……うん。それも、もうずっと前に約束した……」
そう遠くない未来に訪れる決戦の時は、厳しい戦いとなるだろう。四皇の称号を背負う者の強さがどれほどのものか、嫌というほどに知っている。味方の戦力がどれほどかもわからない。挑めば、誰の命も保証できやしない。
それでも――どうか。もしも悲願を遂げた先に、明日があるのなら。
その時こそはきっと、胸を張って、共に生きていきたいと願う。死に場所を探しながら今日まで生きながらえたわけではないのだ。忠義を捧げた人を、守りたかった場所をことごとく失くした人生だったが、探しつづけたのは生きる場所だ。
波の音が、記憶の奥底で残響する。
帰りたいと願っていた。今もずっと願っている。
あの輝きに満ちた海へと、そして、この気高くもかなしい魂のもとへと――……。
助太刀ならば大宴会場だという『海賊狩り』の言葉通り、その場は乱戦の様相を呈していた。大看板二人の攻撃が、凶報に戦意を殺がれつつある味方に降り注ぐ。掛かる火の粉を河松と振り払う中、視界の端を過る蒼炎がイゾウはずっと気がかりだった。先刻、降りしきる雪と共に仰ぎ見たときよりも、弱く翳っているような――今にも掻き消えて、なくなってしまいそうな、そんな予感がして。
程なくして、その予感は的中した。
「花形、登場だよい」
麦わらの最高戦力たちがキングとクイーンを引き受ける。間違いなくこの場において一番の脅威であった猛攻から解放されたマルコは、瓦礫に座り込み宙を見上げていた。否、見上げてなどいない。その瞳はもう、この戦場にある何も映してはいなかった。
凪いだ海のようだった。死を悟り、その帰結を受け容れた者の眼差しだ。
いくつもの銃口に狙い定められていると、気づきもしないで――気づいていても、回避する余力などないとでも言うように。
「マルコ……!」
ドン、ドンッ!
鈍い銃声が二発、戦場に響き渡る。それが己の短筒の放ったものであることに、腕に抱えた体から血が流れてはいないことに、イゾウは一先ずは安堵した。
「何ぼーっとしてる! 戦場だぞ……!」
「へへ……お前の助けを、待ってた……」
「バカ言え……ッ」
ひどい嘘だ。待ってなどいなかったくせに。あのまま命を落としても悔いはないと、そのまなざしは物語っていたのに。今もそう、飛来する銃弾から助けることができたとはいえ、予断を許さない状況だ。確かにこの腕に抱いて繋ぎとめているはずの、マルコの命がどこにもないような感覚がする。
――あのときと、一年前と同じだ。
ぞっとするほど軽い。こんなのは到底、成人した男一人の体重とは言えない。幻影の炎を燃やした分だけ、命の重さが失われている。置いて逃げろなどと世迷言を言わなくなっただけ良いものの、これ以上戦場に立たせれば、どうなるかは明白だった。
「とにかく、ここを離れるぞ……!」
一度離脱して、休ませる必要がある。麦わらの船医と付き従うミンクたちに任せることも考えたが、彼らに火の粉が降りかかるようなことがあれば、この幼馴染は躊躇うことなく命を捨てて守ってしまうだろう。その選択を咎めはしないし、きっとイゾウも同じことをする。
けれど、それでも、今は。まだ『もしも』が起きていない今は、守りたいと、ただ生きていてほしいという我欲を、捨て去ることができずにいた。
「は……はあッ……ハ……」
その背に守るべき者たちが遠ざかるのにつれて、苦しげな呼吸が聞こえ出す。目に付いた納戸に飛び込めば、幸い敵の姿はなかった――あったところで排除するだけだが、余計な消耗を強いることはしたくない。味方であれ敵であれ、間近で命の終わりを視ることは、生命の感知に特化した見聞色を有するマルコにとって、今は激毒にも等しい負担だと知っていた。
「う……ぁ……イゾ、ウ……」
弱々しく蒼炎が揺らめく。その碧色を映し取って人ならざる輝きを宿す瞳の、焦点が定まっていない。すぐ傍にいることもわからないとでも言うように、ふらふらと差し伸べられた手を確と握る。
「なあ、オヤジが言ってたの、ほんとう、だった……」
「ハァ? 何だ、こんな時に!」
「本当に、あかい壁のうえに……神の国、が」
この世で一番温かいはずの手のひらが氷のように冷たくて、そのくせ繋いだ傍から灯火を分け与えようとするから、イゾウは声を荒げずにはいられなかった。
「っ……いいから! 後でいくらでも聞いてやるから! 自分の怪我だけ治してろ!」
「でも……」
「死にかけなんだぞお前……!」
そういう危うさを愛している。その情の深さを、高潔さを誇りに思う。けれど今だけはやめてくれと、握りしめた指先を額に押し当てた。それは祈りというよりも懇願だった。
思いが通じたのか、維持するだけの余力がなかったのか、炎は宿主の体だけを包みはじめる。
これ以上この男を戦いの場に置いておきたくないと、心の底からそう思う。それが、どれほど味方の命と彼我の戦力差を顧みない、身勝手な願いかを理解した上で尚。すべてが終わるまで、一騎当千の防衛戦力を兼ねた癒し手を遊ばせておく余裕などない。そもそもこの孤島に退路も、安全な場所もありはしない。それでも考えずにはいられなかった。最も生存確率の高い場所はどこか、自分が傍にいれば守り切れるのか、或いは、却って危険に晒すことになるのかを。
「……ふふ。どうしたんだよい。こんな戦場で」
堪らず掻き抱いた体には、確かに命がそこにあると言える重さと微かな温もりが戻り始めていた。むずがるように緩く、マルコが首を振る。柔らかな金糸が喉元を擽った。
「悪い……どうしても、確かめたくて。お前がここいいること……」
触れるほどに込み上げる愛おしさを、未練と呼ぶことを知っている。今宵、この戦場で命を『使う』ことはまちがいなく本懐だ。そしてこのぬくもりを手放したくないという思いも、紛れもなく本当だった。
悲願を遂げてなお、生きられる明日があるのなら――生きていく未来を、もしも許されるのなら。こんな銃声と剣戟の只中でなく、いつかの、失意と絶望に満ちた敗走の果てでなく。帰り着いた楽園の島で、ただ穏やかに寄り添っていたいと――……。
《報告ーー! 城内二階にて、得体の知れない巨大妖怪出現!》
「……!」
不安を煽るような甲高い声が、都合のいい夢を霧散させた。百獣海賊団の『目』による通信だった。
「巨大な妖怪だと……?」
「どこにそんな敵がいた?」
《妖怪は壁をすり抜け、何かの亡霊のように移動中! 城内はもう火の海です!》
妖怪と呼称されるその存在は、何らかの悪魔の実の能力者であると考えるのが妥当だろう。この世に存在する人智を超えた異能は、大抵それで説明が付く。しかし亡霊と、そう表される在りように対しイゾウは、嫌な予感を拭い切れずにいた。
亡霊――怨念、執念、執着。
野心を隠し通したマーシャル・D・ティーチ。
或いは、正体を悟らせなかった黒炭カン十郎。
苦いばかりの記憶に胸がざわつく。別の戦場へと向かった菊之烝は、錦えもんは無事だろうか。行かなければと、そう思った。まだ、自分は動ける。こんな傷だらけの体でも、できることがある。
火の海と化した城内に、消耗を避け最速で辿り着く方法ならばわかっていた。四皇と大看板に、そして相対する若者たち。或いは未だ覆らぬ彼我の戦力差。そういった障害を物ともせず、文字通り飛んで行ける方法が、正解が目の前にある。
背に回されていた腕がするりと解けていく。蒼炎が翼を形作った。
「行くんだろ?」
イゾウの取ろうとした行動も、そのために躊躇した選択肢もお見通しだと言わんばかりに、マルコは不敵に笑んでみせた。疲弊し弱りきった心身を鼓舞する、生命そのものとも呼ぶべき炎が褪せることのない美しさを宿している。
「ああ。……悪いな、まだ傷も治りきってないのに……」
「怪我人に無茶させるってんならお互い様だよい。さっき……ありがとな、助けてくれて」
そうして二人、飛翔する。宙を翔けるたび決まって、嵐のようにこの国を出奔した、始まりの夜を思い出した。
「っ……すごい火だな」
程なくして、火炎に呑まれた城内へと辿り着く。ごうと煙と火花が吹き荒れ、堪らず咳き込んだ。通信にあった巨大な妖怪と思しき姿は見当たらない。既に二階からは移動したと見るべきか。
「気ィ抜くなよい」
「ああ……!」
マルコの目に光が戻ったのは、信念と使命感、そして安堵が故だろう。この先に待ち受ける敵に、共闘してなお歯が立たなければ、イゾウと逝けるのだという安らぎ。もう独りにならなくていいのだという、苦難の連続だった人生における救い。
それをイゾウは、これから裏切る。
「――……それと、ありがとう。ここまででいいから、お前はライブフロアに戻れ」
最速で駆け付けるために力を借りておいて、不義理にも程があるのはわかっている。期待を裏切って落胆させるくらいなら、自分だけでここへ来るべきだった。
それでも一人残していくことが不安で、せめて傍にいる間だけでも守りたくて、少しでも長く目の届く場所にいてほしくて――こんなところまで付き合わせてしまった。
「は……? なん、で」
蒼炎の色を映した双眸がはっと見開かれ、虹彩に翳りが落ちていく。絶望と恐怖がその面差しに滲む。そうさせるとわかって行動を共にしたことも、ここで手を離すことも、何もかもが悪手で我欲だと自覚はある。
「こっちはおれ一人で充分だ。……戦力を遊ばせておく余裕なんてないだろう。向こうにいる奴らを守ってやってくれ」
まがりなりにもかつては四皇の幹部を務めた自分たちという戦力を分散することは、大局を見れば理に適った行動だ。正しさという建前で、イゾウは私情をひた隠した。せめて少しでも味方が多く、死角が少なく、未知の脅威が襲来する可能性の低い場所にいてほしいという願いを。
「馬鹿言うなよい! そんな体で、一人で……!」
どうか気づいてくれるなと背を向ける。言い募るマルコの声は今にも泣き出しそうに揺らいでいて、ひどく胸が痛んだ。
「そう心配するなよ。ちょっと様子を見たら、すぐに戻るさ」
それでも突き放したのは、そう。よくないものがいると直観したからだ。妖怪などと称される未知の敵は勿論のこと、もっと別の――自分たちにとって、忌むべき何かが。四皇『白ひげ』の庇護を失って晒された、世界の悪意そのもののような――……。
この先に危険が待ち受けるとして、今の手負いの自分ではマルコを守り切れるかわからないとイゾウにはわかっていた。そうして力及ばず死なせてしまうことも、自分が死ぬ姿を見せることも嫌だった。自分が死ねば、今度こそきっとマルコは笑えなくなるかもしれない。自惚れではなくそう思う。
惨敗に終わったティーチとの戦いのあの日、とっくに壊れかけだったマルコが今日まで生きてこられたのはイゾウのためだ。生きろと、腕の中で潰えかけていたその命に呪いをかけた。その魂を、もっとも手酷く毀損する呪いを。
死の淵から目覚めて、散り散りになった家族は遠く、視力の殆どを失って朧げに霞んだ世界はどれほど恐ろしかっただろうか。なのにマルコは、気丈に笑ってみせた。遠い昔の約束を覚えていて、共に行こうと言ってくれた。
そうして今宵、命まで懸けて力を貸してくれた。そのことが狂おしいほど愛しくて、死出の旅路さえも共にと連れ去ってしまいたくて――だからこそ、生きて未来へと辿り着いてほしかった。
二人で行く方がずっと、少なくとも自身の生存確率は上がるだろう。イゾウの盾となって死ぬことを、マルコは幸せだと笑うだろう。
だとしても。
どれほど傷つけて泣かせて、その心を支えていた薄氷を踏み砕くことになるとしても。
手放すことで、守ると決めた。
「……本当に、帰ってくるつもりで行くんだよな……?」
トン、と背中に体温が触れる。項に温い雫が落ちてくる。震える指先が腕を掴んで、弱く儚い、吹けば消えてしまいそうな青い炎を灯していく。その、命そのものと呼ぶべき温度を分けてくれるなと、もうイゾウは言わなかった――言えなかった。
「帰ってくる」
再生の炎という祈りが何の意味も為さないほど、既に己の体はボロボロだった。それが正確に伝わってしまうとわかっていて振り返り、抱き返す。限界に近いのはマルコも同じだと、触れるたび思い知る。ならば連れ去って共に逝きたいと、決意を揺るがそうとする歪な執着を、もう何度目か、飲み下した。
「必ず生きて――……お前のもとに戻る」
「ん……」
ほんの一瞬、されど永遠のように思えた口づけは、血と涙の味がした。
「待ってる、よい。ずっと待ってるから……」
誓いをしるべとして帰るつもりは本当にあったのだ。
最後まで――最期までずっとその腕に、海のようにあたたかな灯火の元へと還りたかった。否、帰ると決めたのだ。この命が潰えて、魂だけとなっても。心だけは他の誰にも、何にも奪わせはしないと。
――そうして長い、旅路の終わり。
崩れ落ち、制御を失った体から、最後にほんのひとかけら残った蒼炎が掻き消える。爆ぜる火炎と喘鳴のようにか細い己の呼吸を、イゾウはどこか他人事のように聞いていた。
CP0のエージェントが、何事かを苛立たし気に吐き捨て去っていく。刺し違えてようやく一人――口惜しいが、死に体でやり合ったにしては上出来だ。時は稼いだ。あちらの戦力も減らせた。少しくらいは、この命を使ったことにも意味があったと信じたい。
懸念していた『よくないもの』の中でも最悪の部類の敵と遭遇し、イゾウがまず思ったのは、鉢合わせたのが自分だけでよかったということだった。用があるのは麦わらの一味だけだと仕留め損ねた仮面の男は言ったが、状況が変わる可能性はいくらでもあった。十全ならば容易に手出しはできない、世界政府も喉から手が出るほど欲しいであろう幻獣種の『実』が手負いで、目の前に転がっていたとしたら――彼らが、端から全力で奪いにこなかったという保証はない。
だから、これでよかったのだ。守り切れずに喪うことも、互いを庇い合って共倒れることも、まだ覆せるかもしれない死をマルコの眼前に晒すこともせずに済んだ。ニューゲートが生前、最も危惧していた形の不死鳥の『覚醒』は、真なる不死性を得ることではないとイゾウは察していた。自身も同じことを思ったからだ。
伝承の幻獣がその涙でもって為す奇跡を、死者の蘇生を人の身で成し遂げるために――術者本人の命を代償とすること。それを為してしまえるだけの条件が、今宵、この戦場には揃っていた。マリンフォードで末の弟と船長を喪ったあの時とはちがう。隊長としての責務も、最後に託された船長命令もなく。生きて夜明けを迎えればイゾウの故郷はすぐそこにある。
ならばと、命を譲ってしまえるようなあの男の危うさを、イゾウは憂いていた。もうこの手で守れないなら、生に繋ぎ留めることが叶わないのならば、よりにもよって自分のために命を捨てさせるわけにはいかない。マルコのいない世界で生きていたくないのは、イゾウも同じだ。
この選択は正解だった。こうなることを寸分違わず予見したわけではないが、あの場にいる味方を守れと、必ず生きて帰ると呪いを掛けたから、マルコはライブフロアを動けないはずだ。生命を感じ取ることに特化した彼の見聞色が弱りゆき途絶するイゾウの鼓動を捉えても、すべてが終わるまで戦いと、その後に続く負傷者の救護を投げ出しはしないだろう。
だから、大丈夫だ。
あの薄青の瞳に、救えるかもしれない命として映ってしまうその前に。手を伸ばしても決して届かない遠くへ、イゾウは死者の国へと渡る。己が最愛の犠牲の上に息を吹き返すなどという、生き恥を晒さずに済む。
「かえ、る……いきて……」
ああ――だけど。太陽のようだったくしゃくしゃの笑顔も、この腕の中でひそやかに肩を震わせた泣き顔も、等しく胸に突き刺さる。
死に場所はここでいいのかと問われ、是と答えた気持ちに嘘はない。命の優先順位ならばずっと前から決まっていて、それを果たせぬたびに絶望した。使えるものは何でも使って勝利を収める、その選択肢には当然己の命も入っていた。けれどそれは、死を望んでいたということでは、ない。
「帰る、から、マルコ……お前の、ところに……」
叶うなら、本当は。生きて隣に在りたかった。この手で幸せにしてやりたかった。この先、イゾウを忘れて生きる方が、マルコは幸せでいられるだろう。あんなにも強く、優しく、それでいて脆くもある男を、慕う存在はいくらでもいる。
それでも嫌だ――無理だ、到底受け容れられるはずがない。他の誰かが、傷ついた翼ごとあのしなやかな体を抱いて、涙を拭い、心を埋めて寄り添うなんて耐えられない。
殆ど消えかけの意識の中で、胃の腑を焼くほどの激情が渦巻いていた。
何て様だと自嘲する。一生、自分だけを想っていてほしい――守りたくて、傷つけることを承知で手を離したのに。生きてすべてを守り切るだけの力がなかった、己の弱さが招いた結果だというのに。
「……あいして、る……だから――だから、」
すまない。どうか、忘れないでくれ――……。
そんな未練を最後に、イゾウの四十五年の生涯は幕を閉じた。
――そうして。気づけば水底のような、雲上のような曖昧な、けれど確かに在りし日のモビー・ディック号を核としたどこかに、先に逝った者たちと共にいた。
懐かしい顔ぶれと言葉を交わし、涙し、叱られて、笑い合って。海に命を帰すのも、気が済むまで親しい者を待つのも自由だと言われて、真っ先に思い浮かんだのは置いてきてしまったばかりの男のことだった。
あんな形で死に別れて、傷つけて、何年或いは何十年か先にここへ来るときに、待っていてやらなければと思った。罵倒され、手酷く振られるかもしれないなと苦く笑う。
本気で言っているのかと、心底気の毒そうにサッチが顔を顰めたその意味を――イゾウは程なくして知ることとなる。
薄靄を隔てて遠い空を仰ぎ見るように、現世に置き去りにした肉体の周辺での出来事を垣間見ることができるらしい。試しに様子を見てみれば、死を迎えてからそう時間は経過していないようで、自身の肉体は燃え落ちた城の跡に横たわっていた。戦いは終わり、夜が明けて忙しなく人々が行き交う中で、誰の目にも留まらず。そのうち誰かが見つけるだろうと、イゾウが繋いだ視界を閉じようとした、その時だった。
翼を纏った影が頭上を旋回する。逆光の中で表情はよく見えなかったが、地上にあるものに気づいたその人影はふらふらと、殆ど墜落するように不時着をした。
「……マルコ」
――ああ、よりにもよってお前が、見つけてしまったのか。
泣き叫ぶマルコの瞳から、次第に光が失われていく。だというのに数分にも満たぬ嗚咽の後、そこには無理やりに取り繕った笑顔があった。物言わぬ骸へと何かを語り掛けるその声は、海の底へは届かない。
傷の治りきっていないボロボロの体で、それでもマルコは、イゾウの遺体を背負い歩きはじめた。焼け跡を、生き残った者たちの待つ場所を、そして雪の降りしきる鈴後の地を休みなく。
「やめろ……やめろ、お前がそんなこと、しなくていいんだ。他の誰かに任せて休んでくれ、頼むから……!」
言い募る声は当然、現し世へと届くはずもない。
痛々しいほど赤くなった手足の霜焼けにさえ気づく様子もなく、マルコはずっと、歩きつづけた。
長屋に遺体を横たえ、少しでも腐敗を遅らせるためにと蒼い炎を点しつづけ、寝食さえも疎かにするその姿を水底から見上げるたび願わずにはいられない。誰かあいつを助けてやってくれと――隣を譲っても、忘れられてもいいからと。
それでも、焼け跡で泣き崩れたあのときを最後に、マルコは一度も取り乱したりはしなかった。涙をこぼしても笑顔で取り繕いつづけた。誰かの目があるときも、そうでないときもずっと。
「大丈夫だ……おれは――おれたちは、イゾウが生きてる間の時間を充分すぎるほど、もらってる」
「しかし……!」
突然、今まで少しも聞こえなかった現し世の言葉が、明確な音となって水底へ届いた。
「鈴後の弔いの風習も、あいつに聞いて知ってる。どうかもう……これ以上あいつを、減らさないでやってくれ……」
涙を拭う幻影の翼が、赤く腫れた眦さえもなかったことにする。体の傷も一向に治しきらぬまま、そんなことのために能力を使って。本当に良いのかと念を押す錦えもんにマルコは頷いてみせた。
「故郷の土が一番! きっとイゾウも、そう思ってる……」
それは、死出の旅路へと踏み出した者たちが最後に残したのと同じ、どこか遠くを見据えた笑みだった。凪いだ海のように、終わりゆくさだめを受け容れた穏やかさを湛えていた。あの戦場で間一髪、助け出した時と同じ――……。
幻影の翼をはためかせマルコは飛び去っていく。
「……馬鹿野郎。お前が望むなら」
遺品でも遺髪でも、何だって持ち帰ってくれてよかった。それが少しでも慰めとなるのなら、鈴後ではなくあの楽園の島で、父と末弟と共に眠ることだって――……。
故郷への帰還を願わなかったと言えば嘘になるし、彼の地にて弔ってくれる同心たちの計らいには感謝しかない。それでも、とうにイゾウは生きる場所を海の上と定めていた。
どちらに埋葬されても構わなかった。残していく者たちが少しでも心穏やかにいてくれるのなら、本当に。
嫌な胸騒ぎを覚えながらもイゾウは、故郷の者たちに見送られ土に還る自身の肉体と繋いだ視界を閉ざした。
それから暫くして――最悪の形で、その見通しは現実となった。
きらきらと、術者を生かそうとする蒼炎が灯りかけては燻って、消えて、海の底へと落ちてくる。固く閉ざされた瞼と薄く開いた唇は青褪めて、業火に烟る城で別れた時よりもずっと、痩せ細った体がそこにある。
「マルコ……!」
甲板を蹴り、その存在が海底へと墜ち切る前に抱き留める。ひどく衰弱しているもののまだ生きていると、触れればわかった――生きているにもかかわらず、死者の国へと渡ってきてしまったのだということも。
「……たい……」
色を失くした唇が、声なき悲鳴を形作る。消えないでくれと強く願いながら、イゾウは粒子へと解けかけていくマルコの指先を握った。泡になり霧散したその言葉で、どれほど傷つけたかを思い知った。後を追おうとしたのですらないことにも、とうに察しが付いていた――けれど。
「この馬鹿。やっと手放してやれると思ったのに、後追うような真似しやがって。どれだけ……連れて逝きたかったと思ってる……」
泡沫の方舟で目を覚ました彼に、それを問うことはしなかった。気づかなかった振りをした。そんなことをすれば、罅割れた魂に取り返しのつかない亀裂が入る。連れて逝くことすらできないほど、跡形もなく砕けてしまう。
「イゾ、ウ……」
己の名を呼ぶ声も、抱き返してくる腕も、沙汰を待つ罪人のように震えている。幼い頃のように衒いなく笑いかけて、無邪気に飛び付いたとて誰もそれを咎める者などいないのに。
あの忌まわしき裏切りの夜から連鎖した多くの家族の死にも、あの戦場でイゾウが命を落としたことにも、なにひとつ負うべき責任などないというのに。そんなことさえ今のマルコはわからなくなっているのだろう。
そうさせてしまった。その心が壊れる最後の引鉄を、イゾウが引いた。
「マルコ……会いたかった……」
嘘偽りのない本心を告げただけで、触れ合った胸から伝わる鼓動に動揺が滲む。存在することの痛みに、耐えられないと泣いている。
本当に、心の底から望むのなら終わらせてやる。行き着く先が地獄だとしても、共に命を解き、海へと帰ることに躊躇いなどない。
――だけど、本当はどうしたって、生きていてほしいから。そこに自分がいなくとも、他の誰かに隣を取って代わられることがどれほど許し難くとも。その願いだけは揺るがない。
夜空を駆ける願いの星のような、美しさに目を奪われて。
掛け値なく、分け隔てなく降り注ぐひだまりのような笑顔を、いつしか自分だけのものにしたくなって。
命を捨てても一矢報いるなら一緒に死んでやると、そう言われたあの夜に、命の順番は定まった。何を置いても守り通すと決めた。
「おれ、も……会いたかったよい……」
だから――今だけ、あと少しの間だけは、傍で愛おしむことを許してくれ。これはお前の傷を癒すための猶予期間なんかじゃない。おれが後悔を拭いたいがための――……。
◆◆◆
緩やかに意識が浮上する。もはや睡眠を必要としない体だというのに、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。
早く目覚めなければと逸る気持ちと、もう少しだけこのまどろみに身を委ねていたいという気持ちがせめぎ合う。胸元を擽る柔らかな髪や、そっと自身の髪を梳く指先の感触を離しがたい。
ほんの一瞬、重ね合わせられた唇からは涙の味がして――ああ、目覚めなければと、そう思った。
「ん――……マルコ……?」
重い瞼を持ち上げる。海中の淡雪のような光に包まれて、柔らかな日差しの中でマルコが微笑んでいる。その姿は、慈愛に満ちた笑みは人あらざる生き物のようにうつくしかった。それでいて確かに、優しさと隣合わせの危うい脆さを湛えてもいた。
「うん。……おはよ」
壊れ物を扱うようにそっと、マルコはイゾウの髪を撫でつづけている。その指先をイゾウは掬い取り、祈るように口づけた。
「答えは決まったか」
本当は、そんなことを聞きたくはなかった。このまま海の底に、この腕の中に閉じ込めて鍵をかけて、二度と離したくないと今も思っている。
それでも――願ったのは、共に生きる幸せで。
見守っていてくれる人たちに顔向けのできないような、破滅の道へと引きずり込みたいわけではない。
「ああ……でも、その前に。少しだけ外が見たい」
生きることをマルコが諦めないのならば。せめて笑って――今度こそ、手を離さなければと決めていた。それだけが、あの日未来を選ぶ権利を失ったイゾウが贈れる、たったひとつの祝福だった。
そうして、春の夢が終わる。
幾度も喪失の痛みを背負いながらも確かに満ち足りていた、愛おしく眩しい、とこしえの季節が。