ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー
5/その愛は溟海の遥か
陽光が瞼を透かして、緩やかに意識が浮上する。
「まぶし……」
こんな海の底にも朝日が差し込むのかと不思議に思ったが、ここが現実から切り離された死者の国ならば、そういうこともあるのだろう。
悪夢の方が幾許かマシに思える無慈悲な過去を夢に見ることもなく、よく眠れた。体の疲れと睡魔に身を任せるまま、子守唄をねだって――あの後ずっと、抱きしめていてくれたから。
「イゾウ? ……寝てる?」
昨日目覚めた時とは違い、イゾウも今は眠りに就いているようだ。穏やかな寝息が、時折つむじを擽っていく。そっと、マルコはその胸に頬を寄せた。こんなにもあたたかいのに、生きていた頃と変わらない姿がそこにあるのに。やはり心臓の音は聞こえなかった。
「でも……あったかい……」
抱いていてくれる腕を、肩を指先で辿って、その背中に流れた長い髪を梳く。起こしてしまわないよう慎重に、少しだけ体を動かせば、うつくしいかんばせが目に入った。頬と眦に薄っすらと残る、涙の痕も。
ひどいことを、したと思う。
迷うイゾウの背中を押して死地へと送り出し、物分かりのいい振りをして見送ったくせに、いざその命が失われれば生きる理由を見失った。生と死に隔たれた後さえも心配をかけ通して、挙げ句の果てには自死を選び、こうして助け出されて。泣いて縋って甘えた分だけ、きっと――穏やかに眠れるはずだったその心を掻き乱した。
「ごめんな。結局、離してやれなくて……でも、もう」
忘れて、なんて。二度と言えない。
憶えていてほしい――ずっと愛してほしいと、願ってしまった。命を海に返しても、何度生まれ変わったとしても。
祈りのように、ひそやかにマルコは、眠るイゾウに口づけをした。そうしてまた、そっと髪を撫でる。おとぎ話のような奇跡など、なにひとつ起こせないと知りながら。
「ん――……マルコ……?」
ゆるりとひらいていく瞼の間から、榛色の瞳が覗く。
「うん。……おはよ」
淡い光が、海中に降る雪のように二人を取り囲んでいた。その光はマルコの体から発せられていて、髪や指の先が少しずつ、粒子へと解けかけている。刻限が迫っていた。生と死の狭間を揺蕩う曖昧な存在のまま、死者の国にいられる時間はもうすぐ終わる。
「答えは決まったか」
優しく掬い取られた指先にひとつ、口づけが落ちる。誓いのように厳かだった。今から出す答えを、きっとイゾウもわかっている。
「ああ……でも、その前に。少しだけ外が見たい」
◇◇◇
甲板へと続く階段を上り、扉を押し開ける。
――そこには、広大な海中の景色が広がっていた。船内から、或いは魚人島の中でしか見ることの叶わなかった光景に、マルコは思わず感嘆の息を漏らした。
「なんか、変な感じがするよい。海の中なのに息ができて、苦しくもないなんて」
「お前、いつも気づくと溺れてたからな。本っ当に世話の焼ける……」
「い、いつもは言い過ぎだろうが……!」
手を繋ぎ、片時も離そうとはしないくせに、イゾウは少しばかり意地悪だった。しかし世話が焼けると言われてしまえば、マルコはあまり強く言い返せない。いつも溺れているなんてさすがに誇張が過ぎるが、生きて傍にいられる間に心配をかけなかった日の方が少ないのは、きっと事実だ。
「そう膨れるなよ。んな顔しても可愛いだけだぞ」
「か、わっ……! またそういう恥ずかしいことを!」
むすりと、つい幼い日のように膨らませてしまった頬を悪戯な指がつつく。
おかしな話だ――ここは命の洗われるあの世との狭間で、これからする話は決して、どうあれ明るい未来になど繋がらないというのに。柔らかな日差しと、役目を終えた命が織り成す淡雪の降り注ぐ中で、在りし日と変わらずじゃれ合っている。
「事実だろ、お前が愛らしいのは。――少なくともおれにとっては、誰よりも」
「うぅ……何言ってんだよい、こんなときに」
「こんな時だからだろ。どれだけ愛したって足りないんだ」
「イゾウ……」
寂しげに笑うイゾウの横顔を、舞い落ちる光と雪が彩っては泡と消える。はくりと、マルコは口を開いて、閉じた。こんな時だから。そう、こんな風に優しい時間はもう、終わろうとしているのだ。
トン、と甲板を蹴ると海中の浮力で体が浮かぶ。そのまま外套を羽織った肩に頭を預ければ、壊れ物でも扱うようにそっと抱き寄せられた。
「……大好き」
「ああ……知ってる」
「何度忘れようとしても、思い出して、だめになって。神さまなんて少しも信じちゃいないけど、きっと運命だったんだよい。生まれ変わってもまた、絶対にイゾウのこと、好きになる……」
答えの代わりに額へ、瞼へ、頬へ口づけが降り注ぐ。間近で見たイゾウの瞳は星のようだった。願いをかければ叶えてくれて、手に入れたから傷つけた。それでも生涯、死が二人を分かつとも手放せなかった――マルコだけの、一番星。
眩しさに目を細めて見上げた空を、いくつもの帆を張った船が飛んでいく。
「あれ、は……?」
「空船だな、火祭りの」
「そっか。あれが、そうなんだな。あの夜、何かが光ってるのだけは遠目に見えたけど」
侠客団の船を飛び立ち、鬼ヶ島へと向かう中で見た光。死者を弔い、笑顔で送り出す風習のことは、決戦の日取りと共にネコマムシから聞いていた。こんなにも綺麗であたたかく、人の強さに溢れたものだということを、この目で見るまで気づけなかった。
「来年、からは……さ。あの中に、きっと……誰かがお前を思って飛ばす船も、あるんだよな……」
ああ――だめなのに。最後はちゃんと笑っていたいと、決めたのに。
涙に濡れて、ようやく紡いだ言葉が揺らいでいる。
「……そうだな」
「いつか……あの島を長く離れても、大丈夫になったら。皆が残したものを、ちゃんと守れたら。おれも一緒に、弔っても……許されるかな……」
忘れないために、生きていくために。イゾウのいない明日を、あの場にいた彼らとも共有したかった。同じ航路を旅した大切な時間を、あの日までイゾウが生きた証を、聞いてほしいとそう思った。
「それが――……お前の出した、答えなんだな」
「っ……そう、だよい……やっと、やっとわかったんだ……」
きっといつまでも悲しくて苦しい。誰かが傍にいてくれても、一人で過ごす時間も。どのような形で死者を弔ったとて――本当の肉親や故郷の人々が許してくれたとしても、二度と生きては会えない現実は変わらない。
生涯傷が癒えることはなく、命が終わった後にこんなにも優しい時間があるのなら、すぐにでも一緒に行きたいと何度も思った。今でも、マルコの内に根ざしたその衝動はなくならない。助けてと、身も世もなく泣いて、叫んで、縋りたかった。
それでも――死を選べばその傷さえも、イゾウと、皆と生きた証さえもなくなってしまうのなら。
「生き、たい……生きていたい……」
何十年かかってようやく、ただ幸せだった日々だけを懐古し愛おしむことができるようになるかもわからない。そんなふうに割り切れる日が来るよりも前に、きっと自分はこの激動の時代の中で命を落とすだろう。
未来を切り開く力を持った、あの輝かしい若者たちの背を押して。或いは、迫りくる荒波から忘れ形見の島を守って。
それがもしも明日なら、今死ぬこととさして変わらない――……だけど。
「一緒に生きたくて、死ぬときも一緒がよくて……それでも、二度と会えなくても生き延びてほしいって気持ち。お前も同じだったって、わかったから。ううん……本当はずっとわかってた……わかってたのに。今までずっと、何度も……生かそうとしてくれたこと、知ってたのに……!」
この方舟に留め置いて、選択肢を与えてくれた事実が。何よりも雄弁にそれを物語っていた。
「ばか……おれがまだ生きてるなんて黙って、攫ってくれたらよかったんだよい……」
決してそんなことはしない、優しくて不器用で、誠実なところが大好きだった。
自惚れにも程があるけれど、自分はこの男の善性の体現だったのだと思う。
悪魔の実の力を動かすのは強い想いと宿主の想像力だ。
本当に心の底から望めば、死者を蘇生することだって、すべてを焼き尽くす地獄の業火を放つことだってできただろう。
焼け跡で遺体を見つけた時は生と死の間に横たわる地平線に阻まれ叶わなかったが、ここでなら――互いが狭間の存在である今ならば、きっと手が届く。己の中の不死鳥が消えていなかったと知った時点で、マルコは本能的に理解していた。自身の命を差し出せば、代わりにイゾウが帰れるということを。
けれど、その道は選ばない。共に生きられないのならば叶えたかったせめてもの悲願は、全部海の底に置いていく。
どんなに険しく、苦しくて、明日にも後悔するかもしれない選択だとしても。
誰より愛した人が、その生の最後に願ってくれたことを尊重したい。生きていてほしいと望まれたことを、誇れる自分でありたかった。
「今度は、ちゃんと生き抜いて……笑って会いに来るから、だから……! 待ってて、くれるか? それが明日でも、何十年かかっても……」
いつだって絶望は歓びよりもひとつ多く用意されている。
どれほど愛おしく得難い思い出も、喪失の痛みを伴えば容易に翳る。
最善を尽くしたつもりの選択の先で、そのたび大切な誰かを喪った。
いつか眩き太陽が春を照らすのは、冬が自分たちを押し潰した後なのだと、何度も思い知らされた――それでも。
「待つよ、いつまでだって」
ずっと憶えていたい。その笑顔を、今日までにくれた優しさのすべてを。この命が尽きる日まで――燃え尽きて、海へと還っても。何度生まれ変わっても。いつか、巡る命の輪からも外れて、大気や泡の一粒に成り果てたとしても。
「たとえお前が誰かのために、何かを為すために全部燃やし尽くしたって……必ず探して拾い集める」
きつく抱きしめられて、涙が海へと溶けていく。
言葉にはしなかった『もしも』を、それがどうしようもなく己の『役目』なのだと理解すればマルコが魂すらも使い果たすことを、イゾウはわかってくれている。そのことに、心の底から安堵した。
「約束だ――他の奴に靡いたら承知しねえからな」
「いっ……!」
するりと絡め取られた左手の、薬指へと犬歯が突き立つ。
「これ……」
真新しい傷跡を覆うように、銀色の指輪がそこに存在していた。きらきらと淡い光を集めて拾っては、仄かに光る。同じものが、イゾウの左手にも嵌められていた。
「なくすなよ。次に会う時まで、絶対に」
「……ここで貰った物なんか、持って帰れるのか?」
「さあな。でも、ひとつくらい理由のない奇跡が起きたっていいだろ」
理由のない奇跡――そんなことが、許されるのだろうか。この海の底での再会と、幸福に満ちた束の間の逢瀬だけでも、一生を差し出したとて釣り合わないほどの奇跡だった。
形に残るような遺品が何ひとつ傍らになかったことは、確かにマルコの心が加速度的に壊れていった理由の一端ではあった。目に見えて縋ることのできる約束は、きっとこの先を生きていく道しるべになりはするだろうけれど。
「お前は自分ばかり依存してたって言うがな、お前がいなきゃもっと前に独りで死んでたのはおれの方だ。お前を喪ったら、何をするかわからなかった……」
くらりと、意識が遠のく。優しく包み込んでくれる腕が、言葉が確かにそこに存在しているのに、見えない壁のような何かに阻まれているような感覚がする。
「……結果論だが、最後くらい守れてよかったよ」
「最後だけじゃ、ないよい。ずっと……守ってくれてた」
「そうか……」
抱き返す指が、擦り寄せた頬が、粒子に溶けて消えていく。
望外の幸福は――終わりを迎えようとしている。
「イゾウ……愛してる」
言葉が、泡を吐き出すように縺れてうまく音にできない。間近で見つめ合っているはずの顔も、眩い光に掻き消されて。
「ああ――おれも、愛してる。ずっと」
「愛してる……愛してる、愛してる、だけど……!」
それでも最後まで、マルコは叫びつづけた。ありきたりで、照れくさくて、何度伝えても伝え足りない大切な想いを。
「マルコ」
――そうやって、いっとう大切な宝物のように名前を呼んでくれる声が好きで。
何があったとしても、きっと、生涯忘れない。
「……ありがとう。おれの航路(たびじ)に、お前がいてくれてよかった」
寂寞と安堵が諸共に込み上げる。
よかった――貰うばかりではなく幸せを、あげることができてよかった。
触れ合った体温のひとかけらさえもわからなくなって、意識が効かなくなる瞬間――尽きぬ涙を湛えながらも笑みを形作って、マルコは最愛に別れを告げた。