ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー
終/夢のつづき
ごぼりと泡を吐き出して、意識が浮上する。涙を流したわけでもないのに視界はひどくぼやけていて、体の節々には鈍い痛みがあった。
まだ、眠っていたい――幸せな夢を見ていたい。そんな弱音は、簡単には消えてくれなくて。奇跡みたいに大丈夫になんて、なるはずもなくて。それでもマルコは、重い瞼を持ち上げた。
「う……」
視界はひどくぼやけている。後天的な弱視となったこと以上に、身体に蓄積した負荷が大きすぎたのだろう。おそらくは、思い違いでなければ、スフィンクスの水車小屋――その寝室にいる。狭いようで一人寝には広すぎたベッドの木枠の匂いを、僅かに感じた。
見知った人たちの気配がする。その中でも、最も近くにいるのは。
「ベ、イ……?」
「このクソ馬鹿! 次こんな真似したら殺してやる……ッ!」
「いっ……づ」
二年前、生き残った者たちで父を弔って以来の再会となる姉の、名を呼ぶと同時に頬を張られた。じくじくと熱を持って頬が痛む。――痛いと、思うことができている。
「馬鹿! ホンットに馬鹿! 残された奴がどんな気持ちになるか、アンタもよくわかってるでしょ……!」
「わ、かって……けど、加減……っ」
彼女の怒りようは凄まじく、マルコは容赦なく胸ぐらを掴まれ、揺さぶられた。それだけのことをした自覚はある――あるのだが、さすがに、いくらなんでも。頭が痛くて、重くて気持ち悪くて、端的に言えば吐きそうだった。
「ベイ――ホワイティ・ベイ。それくらいで勘弁してやってくれ。一応死にかけだったんだ、その跳ねっ返りのクソガキは」
「ビス、タ……」
特徴的な口ひげをたくわえた兄弟が、見かねた様子で止めに入る。その肩越しにはジョズの姿も見えた。ああ、あの言伝のとおりに彼らは駆け付けてくれたのか――と、ようやくマルコは合点がいった。自分のビブルカードが燃え尽きたら代わりにこの島を守ってほしいという、一方的に過ぎる遺言。そうして、海へと沈みゆくマルコの体を見つけて引き上げ、処置を施してくれていた。
「気分はどうだ、アホンダラ」
子どもの頃のように頭に手を置いて、ビスタが問う。
「さ、いあく……だよい……でも」
「ん?」
「……生きてて、よかったって。今は思えてる」
何も――鈍く光る輪など何も残っていない、左手をぎゅっと握り込んだ。ぐるりと残る優しい傷跡だけが、あの夢が夢ではなかったと教えてくれている。
「そうか」
「助けてくれて、ありがとう……」
わしゃわしゃと乱雑に髪をかき混ぜるような撫で方は、幸せな夢の中で幾度も触れてくれた最愛の男とはまるで違う。しかしどこか、在りし日の父に似ていて懐かしかった。
「当たり前でしょ。ほんっとうに手のかかる奴……」
頬を張った時とは打って変わって優しい手つきで、ベイもまたマルコの頭を撫でた。優しくも厳しい姉貴分に、そんなふうに、慈しむように触れられた記憶は数えるほどしか存在しない。
たとえば、そう。未熟ながらも皆を守ろうとして、砲弾を受け止めきれずに死にかけた見習いの時分。目を覚まして、熱もすっかり引いた頃に――戦闘の最中にも関わらず海に飛び込み助けに来たイゾウ共々、強烈な平手を貰ったものだ。その後に抱きしめて、よくやったと頭を撫でてくれた。無茶をするなと泣かれた。そんな日々が、確かに存在した。
「アンタが目を覚ましたこと、他の隊長連中に伝えてくるわ」
「ベイ……」
「心配しなくても、ここにいる三人以外詳しいことは知らないわよ。戦いの傷が癒えなくて危険な状態だったって話になってる」
さすがに自死を図ったことは伏せられているらしい。それを聞いて、マルコはひそかに安堵した。自身の不始末がどのように伝わろうと、その結果として非難されようとも甘んじて受け止める覚悟はある。けれど、ただでさえまた一人家族を喪った悲しみを抱える兄弟たちに、要らぬ心配をかけたくはなかった。
「ごめん……。世話、かけたよい」
「……いいのよ。こっちこそ、叩いてごめん。アンタはよく頑張ったんだから……今はとにかく体を休めなさい」
最後にもう一度くしゃりとマルコの頭を撫で、背を向けるベイの声は嗚咽を堪えるかのように揺れている。それでも決して、涙ひとつも見せることなく彼女は、しっかりとした足取りで部屋を出ていった。
少しひやりとした手が心地よかったな、と名残惜しく思う。寒くて堪らないのに頭が熱い。発熱している――息を吹き返した体が、拾った命でどうにか生きようとして。背中を支えてくれるビスタの腕に遠慮なく凭れながら、ふとマルコは壁際を見遣った。
「ジョズ」
「……」
とりわけ寡黙な兄弟は、呼びかけても一言も発しない。怒っているからとかではなく、元よりそういう性分がゆえに。それに、どちらかといえば悲しんいる。一番長い付き合いになるのだ。それくらいはわかっている。
「こっち、おいで。……ほら」
マルコは両腕を広げ、物言わぬ巨体が動くのを待った。
ほんの少ししか歳が違わないのに、昔はよく年上ぶって何くれとなく構ったものだ。たぶん、守ってやらなければと思っていた。今でも思っている。ビスタやホワイティ・ベイが今も変わらず、マルコを手のかかるクソガキ呼ばわりするのと同じように。
「駄目な兄貴でごめんな。心配ばっかりかけて……でも、ちゃんと生きてるよい。お前とビスタと、ベイが助けてくれたから」
――とはいえ本当のところ、守れていたのかはわからない。先の戦争でジョズの片腕が失われたのは、海楼石の錠をかけられたマルコに気を取られたせいだ。
「おれは……何も。海に、入れないから……ッ」
「――心配して、来てくれた。ずっと傍に付いててくれただろ。それだけで……それがどんなに、心強いか……」
本当に――誰かを守りたいと願うたび、守られてばかりの人生だ。愛した人たちの優しさに生かされている。
涙を浮かべ一歩、また一歩と歩み寄り、ようやく腕に頭を預けてくれた弟分を、しっかりとマルコは抱き留めた。寄り添う二人をまとめて抱え込むように、ビスタの腕が肩へと回る。この歳になってこんなふうに、子どもの頃みたいに抱き合う日が来るなんて。
「……駄目な兄貴と言うなら、おれの方さ」
「ビスタ……?」
「お前のあんな遺言聞いた時に……いや、イゾウのビブルカードが燃え尽きた時に……いずれにせよもっと早く、駆け付けるべきだった」
くぐもった声が、よく聞こえない。視界が滲んで、ぼやけて、熱が上がったのか頭がずきずきと痛んでいる。
「一人で背負わせて、悪かった……」
ぽつり、ぽつりと雨が降るように頭の天辺が濡れるから、泣いているのは自分だけではないと理解した。
「ううん――……ううん」
他に気がかりやしがらみもあっただろうに、この島へと急ぎ駆け付けてくれた兄弟は何も悪くない。もっと早く駆け付けるべきだった、だなんて、その言葉に甘えるのは傲慢というものだ。助けを求める者にしか、助けは訪れない。もっと早く気づいて、頼るべきは自分の方だった。
「離れてても、会えなくても……死に別れたとしても一人なんかじゃないって。おれが、そんな簡単なこともわかんなく、なったから……っ」
助けてほしいと、その一言が言えたなら。こんなにも心配をかけることはなかった。
命を捨てるような真似をする前に、たった一言。
けれど――決して褒められたことではないやり方で、会いに行ってしまったけれど。海の底で、優しい夢の中で過ごした数日は、確かにマルコにとって必要なものだった。あの時間がなければ、もっとずっと、後になっていただろう。苦しくとも生きると、そう言えるようになるまでに。
あたたかく力強い抱擁の中でその得難さを思う。休息を求める体が重くなりゆくままに目を閉じれば、そっと寝台へと横たえられた。瞼に触れる手のひらの体温にマルコは身を任せる。すぐに意識が薄らいでいく。
夢は、見なかった。
◇ ◇ ◇
あれから――マルコが生死の境を彷徨い、そして目覚めた日から、三か月が過ぎた。世間は相変わらず時代の荒波に揺られ、日々の合間にどうにか目を凝らして世経を捲れば、あのときワノ国で共に戦った若者たちが何やら騒ぎを起こしている。
昔の伝手を辿り、或いは名を変え姿を変えて各地に潜伏している仲間たちは、幸いなことに今のところ誰が欠ける気配もない。ビブルカードに異変が生じることもない。時折、巧妙に体制側の監視を掻い潜った手紙が届き――開封してみればやれ誰の生え際がやばいだの、無人島で腹を下しただの、何かの暗号ですらない雑談が大半だ。
この忘れ形見の島も、今はまだ。戦火に飲み込まれるようなこともなく、たまに流れ着く海賊崩れを追い払う以外は、平穏な日々が続いている。
戦いの傷も治しきらぬまま自死を図った体はボロボロで、己が身に宿した悪魔の能力をもってしても中々完治には至らなかった。詳しい事情を知る彼らは月に何度か、何かと理由を付けてはこの水車小屋まで押しかけて、数日を共に過ごして去っていく。
そのときだけは、砂を噛むようだった食事も味を感じることができて。
夢も見ずに朝まで眠り、体を休めることができた。
本当に――奇跡みたいに大丈夫になんて、なるはずもない。一人の夜は今でも、幸せが壊れる前の夢を見る。目が覚めれば現実が押し寄せて、涙は止まらなくなって。機械的に押し込んだ食事を吐き戻しては蹲る。
――大丈夫、待っていてくれる。それにもう、独りじゃない。
そんな泥濘のような日々を、それでもマルコは生きていた。憶えていると、笑って会いに行くと約束したから。
「は……もう、こんな時間……」
床を拭き、口を濯いでふと窓の外を見遣れば、日が天辺まで昇っていた。今日は何も予定がないから、いい加減カルテの整理をしようと思っていたのだ。夜目が効かないのだから、日が落ちる前に終わらせなければ。
壁伝いにゆっくりと、マルコは歩き出した。転ばないように、大事なものを落としてしまわないようにと。ほんの数か月前に手を引かれながら歩いた廊下を、繋いだ指先に感じた胼胝や傷跡を思い返しながら。
医薬品と診療記録の類を保管している部屋に足を踏み入れるのは、いつ以来だろう。ベイが様子を見に来た際に換気だけはしてくれたと聞いたが、机に開いたままの海図にうっすらと埃が積もっている。
「……我ながらひどい有様だよい」
咳き込みながらも埃を払い、ひとまずは机の端へと避ける。何と言うべきか、こう、全体的に――どこに何があるかはわかるが、何となく汚い。取り繕おうとして失敗した心の余裕のなさが、部屋の様相にもあらわれている。
全体を掃除しようとすれば、それこそ日が暮れてしまう。ひとつ頭を振りマルコは、当初の予定どおりにカルテの整理へと取り掛かった。島民たちの分と、再会すればまだ看るかもしれない家族と、逝ってしまった人たちの分とを選り分ける。健康が服を着て歩いていたようなものだった――否、半裸で歩いていたどこぞの火の玉小僧も一度だけ深刻そうな面持ちで医務室を訪れたことがあった。食い過ぎだとその頭を小突いたのは昨日のことのようなのに、どこか懐かしい。
こんなにもずっと痛いのに、思い出に、変わりつつある。
そうして――三十年、共に在った最愛の男の名が記された冊子の背をなぞる。ひとりきりこの島へと帰り、狂ってしまいそうだった日々に、その死因を記そうとして――手が震えて書けなかった。故郷に眠ると、それだけ。医者としては失格の、そんな言葉だけを何時間もかけて書いたのに、結局そのページを破り捨てた。
思い出すとまた指先が覚束なくなる。滑って、何かに当たって、その何かが床へと落ちてしまった。
「……航海日誌?」
屈んで拾い上げたその冊子の、表紙にはそう記されている。随分と年季が入って色褪せていた。特徴的な筆跡は、まさに今しがた思い浮かべた男のものだ。
「イゾウ……こんなの、いつの間に……」
――そこには、彼が海で過ごした日々の、殆どすべてが記録されていた。懐かしい記憶が鮮やかによみがえる。まるで、今もそこにイゾウがいて、語りかけてくれているかのように。
当初の目的も日が傾き出すのも忘れて、マルコは床に座り込んだまま、イゾウの遺した記録を読み耽っていた。やがて最後の、マリンフォードへと向かう前日の出来事も読んでしまって、後に残るのは白紙のページだけ。何か――まだ何か、書かれていることはないのかと未練がましく捲っていく。
「……!」
かさりと封筒が落ちた。殆ど効かなくなった目でも読み取れるように大きな字で、自身の名が書かれている。折っただけで封をされていない蓋を開けば、折りたたまれた便箋と共に一対の指輪が手のひらへと転がった。
「あ……」
あの奇跡と幸福に満ちた水底で、最後に貰ったものと同じ――現し世で目を覚ましたときには、噛み跡だけを残し忽然と消えてしまった――……。
マルコへ。
お前がこの手紙を読んでいるということは、おれはもうこの世にいないのだろう。
おれのために生きろだとか、一緒に死んでくれだとか、散々勝手を言ってばかりで、最後まで振り回して悪かった。
その指輪を本当は生きて渡したかったが、堅気の夫婦の真似事なんざお前が嫌がるかもと迷う内に、すっかり渡す機会がなくなってしまった。
こんな形で残していって、未練がましくてすまない。
捨てようかとも思ったが、売れば少しは生活の足しになるはずだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。
ずっと傍にいてくれてありがとう。
いつだってお前のことを思ってる。
……もしも、二人で生きて戻れたのにこの手紙を先に見つけた――なんて事態が起きているのなら、頼む。後生だ。書いてあることはすべて忘れてくれ。腹を括って渡すから、何も知らなかった振りをして受け取ってほしい。
――手紙は、そのように締め括られている。
「こんなもの……いつの間にサイズまで測って……」
共寝をした夜か朝、自身が眠っている隙に――なのだろう。それはそうと、いつ用立てたのか皆目見当もつかずマルコは首を傾げた。この島で共に暮らした僅かな期間でイゾウがそんな素振りを見せたことはなかったし、そも白ひげ海賊団が離散し、世間から隠れなければ生きていけなくなった後に宝飾品を買う余裕などなかったはずだ。
とすればやはり、モビーが健在で皆と過ごしていた頃なのだろう。
その数十年の内の、いつなのか。お互い、二十五を越えた頃には体格も手の大きさも今と然程変わらなかったはずだが。
こればかりは、本人に聞いてみなければわからない。明日かも、何十年後かもしれないいつか、また海の底で巡り逢えたときに。
――それはそうと。
「……ばーか。意気地なし」
少しばかり腹立たしくて、マルコはひとり毒づいた。こんなものを残されたって、いまさら形に残るような思い出を貰ったって、困る。
堅気の夫婦の真似事だろうと、嬉しかったに決まっている。
生きているあいだに、渡してくれたらよかったのに。
「絶対捨てないし、売ってもやらないからな……」
――本当に、困るけれど。手放すことだけは絶対にしない。
貰ったものをどうしようとそれはマルコの勝手だ。手に入れた宝をみすみす他人にくれてやる海賊がどこにいる。
「お前が嵌めてくれないなら、薬指(ここ)につけてもやらない」
左手の薬指に残る噛み跡を撫でる。何度蒼炎を纏えど決して治ることのなかった傷は、きっと生涯残るのだろう。理由のない奇跡は、彼の望んだものと形は違えど確かに、マルコのもとに結実していた。
「……二つとも、持って会いに行くから。そしたらまた――……」
溢れ、伝い落ちる涙で濡らしてしまわないようにと、マルコは温度を持たぬ金属を手のひらに握り込む。気づけばすっかり日が傾き、部屋の中は橙に染められていた。夜になって手元が覚束なくなる前に、紐を通して、なくさないようにしなければ。
――だけど、今は少しだけ。あと数分の間だけ。幸福だった時間を思い返すことを許してほしい。
目を閉じれば波の音がきこえる。
昼日中の甲板でひそやかに手を繋いで、皆の笑い声に耳を傾けていた――そんな穏やかな日々ばかりを、きっとこれからも夢に見る。
◆ ◆ ◆
世界は、少しずつではあるものの良い方向に向かっている。
少なくとも体制側の、或いは強大な力を有する賊の脅威がこのワノ国に襲来するような事態には何十年と至っていないし、交易を結んだ諸外国との関係も良好だ。将軍・光月モモの助の治世は安泰で、誰もが飢えることなく暮らせる世が実現しつつあった。
それでも――穏やかな日々を過ごせども、人の命はいつかは終わる。
年々、参る墓が、供える花が増えていく。
すっかり白くなった髪に積もる雪を時折手で払いながら、鈴後に新しく建立した精舎を取り巻く墓標のひとつひとつに、錦えもんは花を供えて回っていた。先の戦で逝った者たちだけではなく、老衰や病によってこの世を去った同志の墓も近年は増えてきた。
昨年はヒョウ五郎が旅立った。大往生だと、皆涙混じりの笑顔で見送った。
時空を越えたことで肉体の年齢が逆転したとはいえ、傳ジローに先立たれた時は身も世もなく泣いた。
自身もそう長くはないだろう。寿命が如何ほどかはわからぬが、隠居を考えたことは何度もあった。主であり、恐れ多くも養い子のようでもあるモモの助の治世に最後まで付き従いたくはあるが、近年体調を崩すことの増えた鶴女の傍に少しでも長くいてやりたいという思いもまた拭えない。
「……贅沢な悩みだと、わかってはいるのだ」
どのように生きるかを選べるのは、自身がまだ生きているからだ。
とうに黄泉路へと旅立ったかつての主が、同心たちがこの場にいれば、ぐずぐずしている間に決断しろと背中を叩かれていたことであろう。
そういえば――と、錦えもんはあの外つ国の男のことを思い出した。ここ鈴後を訪れるたび、昨日のことのように記憶が蘇る。死を悟り受け容れた者たちのように凪いだ瞳をしていた彼とは、あれから数年後に再会した。
生きていてくれたことと、憑き物が落ちたように朗らかな面差しに安堵し、共に死者を悼んでくれることに感謝した。
イヌアラシやネコマムシと航海の思い出を語らう彼の顔には、昔砂浜で遠目に見た少年と同じ笑みが浮かんでいた。互いを慮るあまり菊之丞との間に生じていた蟠りも、近年ではすっかり解けた様子だった。
その姿を、今年の火祭りで見かけなかった。
少しばかり誰しもが生きやすい情勢になったとはいえ、日々を生きていれば何かと忙しいこともあるだろうと。祭りの前後はあまり気にしなかったが、彼も律儀な男である。これまでに足を運べない年は、何らかの便りがあった。
――自分も隠居を考えるような歳だ。時を駆けることなく外海で生きていた過日の少年も、近頃は金糸雀色に紛れて目立たないものの、白髪が混じるようになっていた。いつ見ても立ち居振る舞いは壮健の様子であったが、ついに両眼が効かなくなったと言っていたのは、昨年のことだったか。
「よもや……マルコ殿……」
そう――火祭りの後、珍しく同道した鈴後で。懐かしむように墓標を、二丁の短筒の形を皺の刻まれた手で確かめていた。
逝ったのか、と。確信にも似た想像が胸を過る。
先の戦の後にこの地で、何もかもを諦めたように笑っていた。愛したことが間違いだったと、罪だとでも言うようにひとり涙する姿に、かける言葉が見つからなかった。あれからどのようにして彼が、生きることを選べたのかを錦えもんは知らない。踏み込むような間柄ではなかった。それでもどうか――生き抜いたその最後に、幾許かでも幸いがあったのなら。
「っ……!」
はっと目を見開く。二羽の鳥が静かに、眼前へと舞い降りていた。片翼を預け合った連理の枝――降り続く雪と見紛うほど真白な、まぼろしのような番の鳥たち。右目の傍に傷を負った一羽と、目を閉ざしたままのもう一羽。
何かを訴えるようにひそやかに、一度だけ囀りを残し彼らは飛び立つ。
薄曇りの空から舞い降りる白銀の花弁に紛れ、その姿は直ぐに見えなくなった。仄かに海の色を纏った光が、その軌跡からひとつ、またひとつと並び立つ墓標に降り注ぐ。
「ああ――……やっと」
見上げる景色が霞み、滲んでいく。
「やっと、出逢えたのだな……」
そう遠くない未来、再びまみえるであろう朋友(とも)たちを、ただ静かに、祈るように錦えもんは見送った。
寄せては返す波の音が、遠い記憶の片隅で残響する。
幾度も喪失の痛みに塗り潰された思い出の数々は、それでも確かに、褪せることのない幸福に彩られていた。
ロスト・スプリング アンダー・ザ・シー 了/