星の墓標、彼女の黎明
2018/10/7 COMIC CITY SPARK13にて発行したナルベラ本のWEB再録です。
諸注意
・メインはナルベラですが、以下のCPの要素を含みます。
ヴォルベラ、ベラシリ、ルシナル
・年齢指定に至らない程度の性を匂わせる表現有。
・原作で死ぬ人は原作通りに全員死にます。
・ブラック家の在り方や純血家系のアレソレ等は捏造です。
prologue
わたしたちだった、わたし。
同世代の子どもはひどく幼く感ぜられた。
お決まりの綺麗事、虚飾と退廃を繰り返しては戯れのような言葉ばかり重ねる大人たちを、とんだ腰抜けだと思っていた。
要らないものを排斥するのは当然の摂理なのに、誰も彼も覚悟が足りない。
わたしの、わたしたちだけの繭の中。高貴なる由緒正しきブラック家。まるでティル・ナ・ノーグ。約束されたその安寧と共に、わたしはただ永遠でありたかった。
純血の一族を統べ君臨する視座にあこがれた。
きっと意味もわからずにその位置が欲しかったのだろう。途方もない夢を見ていたわたしを打ちのめした男が、生涯で二人だけ存在する。
ひとりは、昏く深い闇に誘い出し、生を与えてくれたあの御方。彼のための殺戮は、呼吸をするよりずっと楽になれた。
――もうひとりは、憎くて妬ましくて踏み躙りたくて、愛おしくて堪らなかった従弟。誰よりも燦然と輝くはずだった一等星。わたしがどんなに望んでも手に入れられない特別な地位を卑しい血の、唾棄すべき友情なんかのためにあっさりと捨てた愚か者だ。
「ベラ姉様」
「なに」
「南へ渡る鳥が還らないことってあるのかな」
「……さあね。お前が知る必要のないことよ」
あの男が昔から、それこそわたしのかわいいお人形だった頃から、外の世界への憧れを抱いていると知っていた。
それでもわたしたちは、星の名を持つ者は、この箱庭から空へ落ちることなどできるはずがないと”わたしたち”だったわたしは信じていて――……。
「最後まで愚かな男ね。お前がいないのに、わたしは誰を憎めばいいのよ」
chapter:1/彼女の黎明
子どもを産むなどということは想像するだに反吐が出る。ベラトリックス・ブラックは君臨する側の人間だった。誰よりも気高く立ち支配する強者であり、ただ守られているだけの脆弱な存在などではない。――そう、ナルシッサのような、他人の人生に寄り添うためだけに在る人形とは違うのだ。
末の妹に対してベラトリックスが欠片も興味を抱けなかったことを、父も母もすぐ下の妹も初めこそ嘆きはしたが、そのうちに何も言わなくなった。頑なに過ぎる長姉の矯正を諦めたとも言う。星の名を懐いていないというだけで他人を無価値だと断じる己をベラトリックス自身も異様だと知覚してはいたものの、それを罪だとは思えずにいた。
要らないものは棄てる。当然の帰結、この世の真理だ。
ナルシッサはいずれ、他の純血の家へと嫁いでいく。高貴なる由緒正しきブラック家に居続ける路などない。そんなことのためにひとり仲間はずれの名前を貰った妹に、憐憫すら抱かなかった。退屈な人生。退屈な未来。背負う名にふさわしくない親戚たち。つまらないものばかりだと自身を取り巻く殆どすべてを軽蔑していたベラトリックスにとって、家族への情などというものは最も理解しがたい類の感情であった。
高貴なる由緒正しきブラック家――そう。ベラトリックスが愛していたのは、家族でも親戚でもなく家そのものだ。純血の王として頂点に立つブラック家というまぼろし。肖像画の中で時折鋭い眼光、不純物を排斥し研ぎ澄まされたその刃こそが尽きることのない安寧なのだ。
永く続く伝統の内へと融け込んでいく錯覚が、恍惚をもたらす。その多幸感に酔いしれて、ずっと繭の中にいたい。誇らしい星の名を与えられたとしても、純血の家系に生まれた以上婚姻は逃れられぬ運命だとベラトリックスも理解していた。理解はしていたのだ。
ただ血を遺すための礎であれと望まれることも、ブラックの姓を捨てさせられることも、自分には無縁の悪夢に過ぎないと現実から目を背けていただけで。
闇の帝王に心からの忠誠を誓いすべてを捧げると決めるまでは、ブラック家の本家筋や本家に近い人間だけがベラトリックスに畏れを抱かせる存在だった。その中でもヴァルブルガは格別だ。うつくしい夜の色を宿す髪を緩く編み、細い腕の中に赤子を抱えたその女性が、ベラトリックスにとって最上の憧れを形成したひとだった。
「よく来てくれたわね、ベラ」
「は、はい。ヴァルブルガ様……」
「そんなに畏らなくていいといつも言っているでしょう。貴女には期待しているのよ」
「恐縮です」
実の両親にさえここまで圧倒されることなどない。名と命と生きる術を与えられた恩こそあるものの、本当にそれだけ。父や母はベラトリックスにとって畏敬の対象ではなかった。
当代当主の妻として、そして一児の母としての在り方を得た今も尚、ヴァルブルガのうつくしさや気品は損なわれない。彼女は翳ることなく、星を統べる女王のままだ。
一族の誰もが待ち望んだ本家の長男へ目通りが叶ったのは、その子が生まれてから一か月近く後の冬の日だった。誕生してまもなくは母子ともに生命が危ぶまれるほど健康状態が芳しくなく、幾人もの癒師と占星術師の立ち会いの下面会謝絶となっていたためだ。永く旧くつづいた純血の家系には、そういった事態が多く見られた。高貴なる血を遺すには途方もなく稀有な奇跡が必要なのだと言い聞かされてきた、その裏に潜むおぞましい真実から、ベラトリックスは目を背けつづけている。近親婚の弊害、などというもの。そんんなのは下等な人間たちの論説と教義だ。
「シリウスよ」
凛と、ヴァルブルガの声が腕の中で眠るその子どもの名前を紡ぐ。二十一の一等星の中で最も明るい星の名だ。オリオン座を探すにはまずシリウスを探せと言われるほどの輝きを、この小さな生命が宿していると言うのか。
「いずれ貴女を、この子の妻にと考えているわ」
「――え。わた、し。わたしが……ですか」
「貴女ほど優秀な人間は聖二十八一族中を探してもそういないでしょう。婚姻は星に選ばれた者同士の運命であるべきよ。……不服かしら」
「いえ、そんなこと。勿体ないお言葉です、ヴァルブルガ様」
今はまだ脆弱で、容易に壊すことができてしまいそうな赤子が、その名にふさわしく輝く日など来るのだろうか。尽きぬ懐疑に首を傾げたくなったベラトリックスの内心を見透かしたかのように、ヴァルブルガはその子の伴侶になれと口にした。
まるで少女の戯れのような口ぶりだったが、彼女の言葉ならば殆ど命令も同然だ。本家と分家の序列は明確に過ぎる。明日には”こちら側”の血縁中に、早すぎる婚約の話は知れ渡っているだろう。
わたしが――支配される?
憧れのひとに期待されているのだと思えば、嬉しい。しかしそれ以上に、なぜ自分が“誰かの支えとなるために生きる”枠組みに押し込められなければならないのかという憤りが、まぶたの裏側を真っ赤に染め上げた。
悔しい――口惜しい。妻であれ、女であれと望まれることへの嫌悪感を、そう簡単に拭い去れるはずもない。それがたとえ次代当主の妻という名誉ある立場だとしても、自分こそが強者として支配する側に立ちたいベラトリックスには、絶望的に適性がなかった。きっと――後に“そう”見えたのは己が彼女を盲信するがゆえで、実際は何が正解かもわからぬ泥沼で苦しんでいたのだと聞かされることになるが――ヴァルブルガのように、妻として母としても強く美しく在ることなどできるはずがない。
「……ただ、わたしよりも余程、」
「あら。シリウスが目を覚ましたわ」
「あ……」
――なのに。
緩やかに開かれていく瞼から覗く、幼い従弟の瞳を目の当たりにした瞬間「負けた」と思った。玲瓏なパールグレー。夜の闇に燦然と輝き、一族を率いていくのにふさわしい色だ。
何を馬鹿なことをと窘める自分がいる。眼を見ただけでそんなことが判るものかと諭してくる。けれど赤子の眼に捕えられた瞬間、言い知れぬ魔力が確かに鋭く心臓を射抜いていった。
――わたしは、負ける。
いつかその瞳が宿す知性に屈服させられる日が来るのだと予感した。その予感はおぞましくもあるが、少しばかりの希望を孕んでいる。“そうすること”でこの仄暗い繭に閉ざされた世界を永遠にできるのならば、誰かの下にかしずくのも悪くないかもしれないと初めて思えた。
「ねえ、ベラ。この子も貴女がいいみたいよ」
「まさか……」
「手に触れてみなさい。ほら、大丈夫だから」
そっと差し出した指を握る小さな手は、やはり簡単に捻り潰せそうなほど脆いものだ。どうか落ちないで、永久に潰えないで、わたしを完膚なきまでに打ち負かしてみせなさいと胸の内で呟く。そうなった時には喜んで、この高貴なる家系を存続させるための礎となろう。
懐いた期待を最悪の形で裏切られる未来がいずれ訪れることなど、今のベラトリックスは知る由もなかった。
chapter:2/終幕、或いは訣別と情動
ロドルファス・レストレンジに贈られた指輪は、ただただ空虚を突き付けるだけの存在としてベラトリックスの薬指を縛った。夫は凡庸な男だ。純血の魔法族こそ貴ぶべきという思想以外に共感をおぼえる点もない、ただのつまらない男だった。
無論、ロドルファスとて帝王の配下として相応しい残忍さも狡猾さも持ち合わせてはいる。ただそれがベラトリックスの夢見た輝きとは程遠く、決して得難いようなものではなく――多くの死喰い人とさして変わらないというだけの話だ。寝たのは義務のようにたった一度きり。愛もなく情もなく、薄っぺらい同胞としての意識だけに拠った交合は、もう味わいたくはない苦痛だけをもたらした。きっとあの男の子を生むことなどないだろう。
思い出せばじくりと脚の引き攣れるような記憶を、頭を振って追い払う。
霧の深い深夜だった。夏だというのに底冷えがする。
コツリ、とヒールが舗道の石畳を打つ。人通りも疎らといえど、時折道を行き交うのはベラトリックスにとって排斥すべきマグルたちだ。ああ、今すぐにでも殺してしまいたい。スカートの内側に仕込んだ杖を抜き放つことはいつでもできたが、戦端を開くには場所が悪すぎた。グリモールド・プレイス。なぜこんな場所に居を構えることを、過去に本家の当主は良しとしたのだろうか。
ギィ、と音を立てて錆び付いた門扉が開いていく。小振りなトランクひとつだけを抱えた軽装で、かつてベラトリックスの夫になるはずだった男が姿を現した。彼がいつ生家を飛び出すかなどということを、疎遠になって久しいベラトリックスは知る由もなかった。この場所へと己を駆り立てたのは、何の根拠もないただの勘だ。取り返しのつかないほど遠くへと、ひとつの縁が失われようとしているのだと予感がした。
そう、婚姻のさだめなど昔の、とうに過ぎ去り反故になった約束だ。
シリウスが一族の慣例など余所にグリフィンドールへと組み分けられたその日、ふたりの婚約は破談となった。白紙に戻すには早すぎる、と皆が口々に言った。ベラトリックスもそのうちの一人だ。ひた隠しにしてきた家への反抗心をシリウスが顕にするようになっても、いつかは彼も目を覚ますから待ってほしいと声をあげつづけた。
当然、願いが聞き入れられるはずもなく、代わりとしてあてがわれたロドルファス・レストレンジとの婚姻を拒否することなどできなかった。この上ない屈辱だ。認めることも、愛することも、執着することもできない凡庸な男に嫁ぐばかりか、ブラックの姓を捨てさせられるなど。
ナイト・バスを呼ぼうとしたのだろう。杖を掲げようとしたシリウスと、ベラトリックスの視線が交錯する。こちらの姿を認めるなり心底嫌そうに顔を顰めたシリウスを引き留めるための言葉を、ベラトリックスはひとつも持ち合わせてはいない。
「……帰れなくなるわよ。本当に、もう二度と」
「俺には最初から帰る場所なんかじゃない」
それでもぶつけずにはいられなくて音を紡げば、縋るような声音に成り果てた。吐き気がする。間髪入れずにもたらされた返答には懐柔される余地などない。憎しみだけがそこにある。
「当主の妻として君臨したいなら弟と結婚すればいいだろう。今からでも、かわいそうなロドルファスを袖にして。……いや、かわいそうなのはお前の方か? 憐れんでくれるだろうよ、レギュラスは俺と違って優しいからな」
怜悧な瞳に侮蔑だけを込めて、シリウスは言い放った。
酷薄に過ぎる微笑は彼の母親にそっくりだ。――シリウスにとっては、こうして行く手を阻もうとするベラトリックスが、ヴァルブルガと同じに思えてならないのだろう。
「かわい、そう……? わたし、わたしが、かわいそうだと言ったの、おまえ」
突き付けられた刃に眩暈がする。かわいそう。遠巻きに事態を眺めるだけの、分家筋の親戚たちがひそひそと囁いていた言葉だった。次代当主の妻としての輝かしい未来から一転、ただ血統を繋ぐためだけに他家の男との結婚を余儀なくされたベラトリックスを憐れんで。
「自覚もないのか。いつまでも黴臭くて反吐の出る家訓に縛られたお人形は、お前の方だと言ってるんだ。かわいそうなベラトリックス。……なんだ。それともベラ、もしかして本当に俺が好きだった?」
「ッ……ふざけないで! 誰よりも憎いに決まってる、お前なんか……!」
激情が迸るのは、その揶揄の半分は真実だったからだ。尤もそれは好きなどという生易しい感情ではない。夢見るように生半可で浮ついた恋情とは訳が違った。
支配と被支配。純血の王たる一族の頂点で生き残るための序列、生殺与奪をシリウスになら明け渡してもいいと思えるほどベラトリックスはこの男を認めていたのだ。君臨するために選ばれ、祝福された存在なのだと。
誰より強く在りたかったのに負けを認めた、その矜持をシリウスは裏切ったのだ。いつかは目を覚ましてくれると信じて待ち続けた、淡い期待も何もかもすべて。
「――は。奇遇だな、まったく同じ気持ちだよ」
事も無げに、シリウスは同じだと口にする。
同じ種類の憎悪と軽蔑だけがあるのだと、ベラトリックスの真実を知りもしないで背を向けた。
バーン!と派手な音を響き渡らせながら、どこからともなく夜の騎士の名を冠したバスが姿を見せる。次に会えば殺し合うことになる従弟は一度として振り返ることなく、少ない荷物と共にバスへと乗り込んだ。
明滅する光。出現と同じくらい唐突に夜の闇へと車体が掻き消えて尚、冷え切ったグレーの瞳の残像が憧憬を砕いていく。
――ふざけないで。
繰り返した言葉は、精彩を欠いていた。
ふざけないで、ふざけないで、ふざけないで――……! 一度として、わたしとおまえが同じであったことなどないというのに!
「……てやる」
譫言のように弱々しく、ベラトリックスは呟いた。
「殺してやる……おまえだけは、絶対にわたしが……」
左腕のしるしが熱を持っている。だれかが闇の印を打ち上げたのかと目を凝らしたが、遠見の術を視野に乗せて尚、ロンドンの上空には何も見当たらない。
代わりに雨が降り出した。頬を濡らし、景色を滲ませる煩わしい雨だ。
「ベラ」
「……はい。我が君」
いつからかベラトリックスの背後には、生涯を捧げると誓った男が立っていた。夫でも、たったいま切り捨てた従弟でもない唯一のひと。
紅い瞳がギラリと煌めきを宿しているのだと、振り返らずとも察知できる。深き闇に帝王として君臨する男の、賢しらな蛇のようにうつくしいまなざしだ。冷え切った手で腰を抱かれ、ぐるりと転輪する視界と共に姿現しの魔法が行使される。ぐらつく脳で認識した移動先は、不本意ながら見慣れてしまったレストレンジ家の自室だった。
「お前は、誰のものだ」
今のベラトリックスにとって、すべてであるべき至上のひとが問いかける。冷たく硬い指先が、かさついた唇と胸の形を生々しくなぞっていく。
「無論――あなたのものです、我が君。この命も、この体も、生涯のすべても……」
するりと肩から滑り落ちていく服を、ベラトリックスは他人事のように見ていた。いったい彼ほどの人物が、どんな気まぐれを起こしたのか。それでも身に余る光栄だとベラトリックスは目を閉じる。女として求められることへのえもいわれぬ不快感は、気づかないふりをしてやり過ごした。
これは栄誉だ。
殉教であり、儀式でもある。まるでそんな俗世の情動とは無縁であるような至上のひとに、信頼の名のもとに選ばれたのだから――……。
渇いた咳にベラトリックスは目を覚ました。
すこしだけ喉がひりついている。
怠い体を起こして浴びる陽の光のなかに、当然、褥を共にした男の姿はない。暗がりでしか触れ合えないひとだと、こうなる前から理解していた。そこに悲嘆などという感傷は介在しない。
けれど失くしたものがある。埋められぬ穴が、存在の提議を乱している。
「どうして、わたしじゃだめだったの……」
かつて繭の中から見上げた星の輝きに、もう届かないことを思い知った。寄る辺は何もなく、すべての糸が解け、剥がれ落ちていく。
闇の内に咽ぶ心の底の底で、僅かな火を点していたのは、幼い頃から何の興味も価値も見出だせずにいた――人形のようにうつくしい妹の姿だけだった。
chapter:3/駒鳥はかえらない
生まれた時から定められていた生き方に不満を抱くという経験が、ナルシッサにはなかった。数々の柵に縛られ重く澱んだ屈託が渦巻き、ナルシッサ自身を必要とすることなど決してない生家に居続けるのは居心地が悪かったからだ。両親にも二人の姉にも親愛の情を抱いてはいたが、根本的な役割が違う。
燦然と輝き君臨する者であれと望まれた姉たちと違い、自身には星にまつわる名が与えられなかった。はじめから、他家との縁を繋ぎ血を残すためだけに許された存在。長姉のベラトリックスならばそんな屈辱には耐えられないと憤怒しそうなものだが、何かを背負いたいわけでも頂点に立ちたいわけでもないナルシッサにとっては、自分に課せられた役目の方が余程ありがたく思えたのだった。
それに――と、向かい合って座る青年の面差しに目を細める。
「今日は随分とご機嫌だな、ナルシッサ」
「そうかしら?」
「何かいいことでもあったのかい」
「ふふ。……さあ、どうかしらね。当ててみせて、ルシウス」
年端も行かぬ頃に家同士が決めた婚約者。ルシウス・マルフォイは弛まぬ研鑽によってその知性を裏打ちされた気高いひとで、“家族”には不器用ながらも優しさを注ぐ得難いひとだった。自身に欠片も興味を示さない長姉はともかく、二番目の姉のアンドロメダとの関係は――彼女が教えに背き出奔するまでは――決して悪くはなかった。しかしナルシッサが家族という言葉から想起するのは、幼馴染として日々を過ごし、実の姉たちよりも余程きょうだいらしく共に在った将来の夫の方なのだ。
薔薇が仄かに薫る温室に穏やかな日差しが注ぎ、幸福な時間が過ぎていく。時折しもべ妖精たちが空になったカップに紅茶を注ぐだけで、互いの気配以外に過敏になることもない。傍にいるために言葉を交わし続ける必要もなく、沈黙でさえも愛おしかった。きっと晴れて正式な夫婦となった後も、こんなふうに寄り添い生きていくことができるだろう。
「ん? あれは……」
「どうしたの。何か見つけた?」
「きみの姉君の梟だな」
不意にルシウスが空を見上げる。何を見たのかとその視線の先を辿れば、確かによく見慣れた梟が二人のいる温室を目指し飛行していた。
「あら、本当だわ」
ナルシッサが席を立ち温室の扉を開けてやると、グレーと黒がまだらに混ざり合った羽根を優雅に広げたまま、彼女は一通の手紙を落とし去っていく。気安さや人懐っこさが微塵も垣間見えないあたり、主人であるベラトリックスによく似ていた。
「何かしら……ルシウスじゃなくて、わたしに用事?」
落とされた手紙の宛名は、確かにナルシッサ・ブラック様と書かれている。乱れた走り書きで、封蝋も見当たらない。
珍しいこともあるものだ。二人がいるところへベラトリックスの梟が運んでくるのは、彼女が夫の――ロドルファス・レストレンジの名代としてルシウスに宛てた正式な書面だけだった。
一体何事だろうかと首を傾げながら、ナルシッサは白い封筒を開く。
わたしの部屋、ノックは五回。
カサリと音を立て手のひらに落ちた羊皮紙には、たったそれだけが記されていた。
「姉君は何と?」
「……ちょっと、ね。家のことで、わたしの手が必要みたい」
一行で完結した手紙から読み取れる情報は、姉は彼女の部屋でナルシッサを待っていて、規定の合図以外で扉を開けるつもりはないということだ。私的な約束に同行しようと申し出るような人ではないからルシウスに手紙を見せても問題はなかっただろうが、ナルシッサは文面について秘密にしておくことを選んだ。
どんな事情があるにせよベラトリックス・レストレンジという人が困窮し、助けを求めているというのなら、おいそれと他人に口外してよいものではないはずだから。
「姉様を手伝ってくるわ。ごめんなさいね、ルシウス。お茶の途中だったのに……」
「構わないさ。次のデートは薔薇園を散策しようか。また私から連絡するよ」
「ええ、楽しみにしているわね」
別れの挨拶は蝶の羽ばたきのように軽く頬を、鼻先を触れ合わせる。
唇へのキスは婚礼のその日まで行わない――それが近すぎる距離で友愛と親愛と恋情のすべてを育んできた、ルシウスとナルシッサの約束だった。
そういえば、部屋というのはどちらなのだろう。
深く考える間もなくレストレンジ邸の前へと姿現しを行なってから、ナルシッサはその疑問を抱いた。実家にもまだ姉の部屋は残っている。許可なく入室することもできず、時折風を通す程度の管理をされている部屋が。こちらではないのならば、二度手間の分を待たせてしまうことになる。
「お待ちしておりました」
しかし、どうやらそれは杞憂だったらしい。ドアベルの呼び出しに応じ現れた使用人によれば、ベラトリックスはこの屋敷にいるとのことだ。館の主であるロドルファスは留守のようで、ナルシッサは少しだけ安堵した。――姉の夫、あの男は苦手だ。嗜虐に悦楽を見出すような人間性を隠しもしないから。ベラトリックスにもそういった嗜好が見え隠れすることはあったが、姉は、家族であったひとだ。
いま自分が大切に思う世界を侵そうとしない限り、多少の残虐性ごときで彼女を見限ることはない。たとえ姉が、ナルシッサに昔から何の興味も抱けないひとだとしてもだ。
コン、コンと音を立て、彼女の部屋の扉を五回ノックする。
「姉さま、わたしよ。遅くなってごめんなさい」
「……ナルシッサ? いいわ、入って」
入室の許可を出す声は、聞いたこともない弱々しさだった。
ランタンも燭台も、灯りを何ひとつ点していない室内に足を踏み入れる。言い知れぬ不安に駆られながらも扉を閉めれば、むせ返るほどの花の匂いがナルシッサの肺を満たした。
花――ひらかれた花の、梔子の落ちていく匂い。
「ねえ、さま……? いったい何があったの」
部屋の隅、ベッドに腰掛ける人影は虚ろな目でナルシッサを見上げてくる。常ならば苛烈なまでの矜持を宿すアンバーの瞳が翳りを帯びている。「はしたないわ」と声に出してしまいそうなのを、ナルシッサはすんでのところで呑み込んだ。近くまで歩みを進めてわかったが、下着姿のベラトリックスの体には、ところどころに人の手が触れた痕跡がある。このひとが、されるがままだったというのなら――相手はロドルファスではないはずだ。
不貞、という言葉が首の後ろにビリビリと痛みを刻む。最愛の婚約者とのくちづけすら未だ交わしていないナルシッサには、あまりにも目の前の光景は目の毒だった。
「シリウスが出て行ったわ」
「――え」
「今ごろはもう、家系図の名を消されているでしょうね。馬鹿な男……」
ベラトリックスが口にしたのは、疎遠になって久しい本家の長男の名前だ。まさかシリウスが姉をこんな目に?
……それこそまさかだ、とナルシッサはすぐにその選択肢を否定した。シリウスが”表向き”ブラック家にとって異質だったのは周知の事実だ。その実誰よりも酷薄で愛憎の区別が顕著な少年ではあったが、家の掲げる理想に相応しい人間を軒並み嫌悪していたこともまた事実。そんな男がベラトリックスに触れて征服したいと望むだろうか。――尤も、姉は或いは、彼にならば支配されることを許したかもしれなかったが。
「シシー……きて」
では誰がと考えを巡らせるより先に、ベラトリックスは緩慢な動作でナルシッサへと手を伸ばした。ドクンと、心臓が跳ねる。はじめて己の愛称を呼ぶ声の甘ったるさ。厳格で酷薄でいつだって毅然と立っていたあのひとが、こんな声を出せるものなのか。
白い腕が首に絡みつく。その刹那、左腕の内側に髑髏と蛇のおどろおどろしい印がちらりと覗いて、ナルシッサは答えを得たような気がした。確かに彼の人ならば、ベラトリックスはすべてを差し出してしまうだろう。梔子の薫りは、息もできないほど強くなっている。
「ベラ姉さまはわたしのこと、嫌いなんだと思ってた」
「……たった今好きになったわ。わたしにはもう、おまえしかいないの」
帰りたい、とベラトリックスは嘆いた。
まるで泣いているようだと、思ったよりずっと細い彼女の肩を抱き寄せながらナルシッサは息を吐く。帰りたいというのはきっと、ロドルファスと離婚し実家に戻れば果たされるような、生易しい願いではない。滅びの一途を辿っていくブラック家というユメ。本家の長男が出奔するという前代未聞の不祥事により先行きを更に暗く濁らせた家系の、在りし日の栄華。もう果たされることはないその永遠に回帰し、自らも永遠となることこそが、ベラトリックスを救うのだろう。
もはや喪うことでしか、救われる道などない御伽噺だ。
「おまえだけなのよ、シシー。ねえ、おねがい……」
縋りつく彼女の声が、理性や道徳を壊していく。確かに血を分けた姉妹であるそのひとの、柔らかく脆い部分が己にのみさらけ出されていることに、ナルシッサはえもいわれぬ愉悦を感じていた。だって、このひとはだめだったのだ。渇望してやまないシリウスに捨てられて、あれほど心酔している強大な魔法使いに体を捧げても満たされることはなかった。
その空虚を埋める術を、今まで興味もなかった末の妹にもとめてしまう危うさ。選ばれたよろこびは仄暗い支配欲に変わっていく。
自分の中にもこんな感情があったなんて。目を眇め、ナルシッサは誘惑を甘受した。
「ええ……わかったわ、姉さま。わたしがいるから大丈夫、姉さまは大丈夫よ」
ひび割れてかさついた感触と、彼女が噛み締めて滲んだのであろう血と、自身のルージュとが混ざり合って濁った味を生み出す。気づけば誰より大切なひととの約束も破り、自ら唇を重ねていた。
いつかは終わる茶番と知りながら、刹那の安寧を与えようとするのは残酷だろうか。手の届く世界、本当に大切なものだけを守って、ささやかな幸せを享受し生きていければよかったナルシッサにとって、それは初めての感覚だった。
その寂しさに寄り添いたい。わたしは”わたしたち”にはなれないけれど、強く気高いひとの脆い部分を一心に預けられる存在として選ばれるのはひどく心地が良い――……。
「姉さん。貴女を、愛してる……」
かわいそうなひとだと、ナルシッサは姉を憐れんだ。
いずれこの夢が覚めるとき、繋いだ手を解き置き去りにして、優しく殺してあげるのは自分にしか務まらない役目だという確信とともに。
chapter:4/星の墓標
いずれ来る訣別を敏感に嗅ぎ取っていたのは、シリウスの方だったのかもしれない。
「ベラ姉様」
これは夢だ――夢だと理解しながら、ベラトリックスは遠い冬の日の窓辺に立っている。幼少のみぎりならば、シリウスはまだ可愛げがあった。当時から聡明さと狡猾さを兼ね備えてはいたものの、帰る場所を箱庭の外に見出し表立って反抗するような愚かな人間ではなかったから。
「なに」
「南へ渡る鳥が還らないことってあるのかな」
「……さあね。お前が知る必要のないことよ」
アルファードあたりから仕入れたのだろう知識の片鱗は、一族の“真っ当な”人間の逆鱗に触れるものかどうか。線引きを確かめるように、或いは知性のあり方を試すように、シリウスがベラトリックスに尋ねることは何度かあった。
まっさらな無垢さを装いながらも、ベラトリックスならば自分に手を上げることができないとわかって尋ねてくるのはさすがと言うほかにない。この家の序列というものをよく理解し、利用しているのだ。
「そんなことより、もっと楽しい話をしましょう」
「楽しいこと……姉様と僕が、いつか結婚する日のこととか? 何か僕にしてほしいことはある?」
己の容姿が人を惑わす類の魔性を孕んでいることも、年下の従弟は当然のように識っていた。愛らしい笑顔で小首を傾げてみせる姿にも、近しい人間ならば感じ取れる計算が透けて見えている。
生意気なことだ。それでも、“わたしたちだったわたし”を裏切らないのならば、永久に続く真綿のような安寧の中で共に在ってくれるのなら、ベラトリックスにとっては些事だった。外の世界へと憧れる愚かな考えも、いずれ彼ならば捨て去るだろうと信じていた。
「ばかね、そんなのは子どもが考えることじゃないわよ。でも、そうね。わたしの薬指を縛るというのなら……今よりずっと強くなって、わたしを完璧に支配してみせなさい」
そして、どうかこの繭の内で永遠でいさせて。
唇からこぼれ落ちた切なる願いを、慕情だなどと思いたくはなかった。そんな余分はベラトリックス・ブラックには必要ない。純血を統べる王の隣に、妻として君臨する女には。
「ああ……そうか、そうだよな。お前はそういう奴だった」
窓辺の景色がめまぐるしく移り変わる。幼き日のまぼろしは潰え、夥しい数の奇蹟の成れの果てを内包した魔法省神秘部の鈍色の床に、ベラトリックスは立っていた。
傍らに在った少年は青年へと姿を変え、杖を互いに向け対峙する。
「俺のことが好きだったろ、ベラ」
「ばか言わないで。ずっと……ずっと憎んでいたわ、お前だけを」
そのカタチのまま生まれて潰える奇蹟――幼い頃のシリウスは、少女だったベラトリックスの目にはそう映っていた。
目の前の男は、そんな久遠のうつくしさとは程遠い。ベラトリックスには到底理解できぬような、偽善的で惰弱な友誼に生きた男だ。何の栄誉ももたらさぬ友愛に、泥を啜って命まで捧げた意味とは何なのだろう。理解できるはずがない。理解したくもなかった。だというのに、摩耗しやつれ果て、呆気なく逝ってしまった最後の彼の方が、よほど深くベラトリックスの心に消えない爪痕を遺している。酷薄な笑みで敵対する者を嘲り、誰よりもブラック家らしかったくせにそのすべてをあっさりと捨てた、いつかの少年よりも、よほど。
あまりにも理解しがたい己の心情を認めたくなくて、指先が震えた。容易に杖を取り落とす。現実の戦場において、ベラトリックスが犯すはずもない失態だ。
「お前と心中するような趣味はないが、連れて行ってやれなくて悪かったと思っているよ」
「なによ、それ。どうしていまさら、わたしのことを……おまえが、」
杖はベラトリックスの手を離れたというのに、忘れ得ぬ終わりの日と同じくシリウスの胸に紅い閃光が突き立っている。憎悪のかたまりが痩せこけた体を跳ね上げる。
吹き抜けていく風が、白いベールをはためかせた。
触れれば容易に掻き消えてしまいそうな不確かな靄は、生者と死者を隔てる境界だ。
「もう喪うことでしか救われないだろう、お前。かわいそうなベラトリックス」
――欠けた夢を拭えずに、慟哭と共に目を覚ました。
喘鳴のように喉が掠れるのが煩わしい。荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回し、ようやくベラトリックスは目を覚ました場所が現在潜伏しているマルフォイ家の屋敷だと思い出した。
鈍痛を訴える下腹から脚。十余年ぶりに体を差し出した昨夜を反芻する。冷え切った手と舌が体中を這い回る感覚は、崇拝を以てしても誤魔化しきれぬほどの苦痛をベラトリックスに与えた。引き裂かれた魂を無理やりに繋ぎ合わせ作り上げた闇の帝王の体には、強大な魔法を澱みなく行使する力はあれど、子孫を残すための機能が欠落している。注がれることもなく一方的に暴かれるのは、ただただ虚しさが募るばかりだ。ベラトリックスが生涯を捧ぐと誓った男は、真実蛇のようなひとに成り果ててしまった。
コン、コンと扉をノックする音が五回響く。来訪者を報せるその音に、ベラトリックスは思索に溺れていた頭をのろのろと持ち上げた。もうずっと昔――ベラトリックスがヴォルデモート卿と初めて褥を共にした日、ナルシッサに告げた合図だ。
「シシー……?」
「ええ。わたしよ、姉さん。入ってもいいかしら」
「……勝手になさい。鍵はかけていないから」
軋む音を立てながら、木製の扉が開いていく。“こう”なったベラトリックスのことは心得ているとばかりに遠慮なく部屋に踏み入る妹の存在が、今はただ心強かった。
ぬるい体温に触れて、彼女の静謐な薫りが肺を満たす。
抱擁は毒のようにベラトリックスの知性を蝕み、同時に正気を取り戻させもした。
腕を回した背中のしなやかさは変わらないのに、勝ち戦といえども互いに消耗した体は少しばかり骨ばって、目元には皺が寄っている。
もう少女でいられた時代はとっくに終わっているのだ。そんなことはずいぶんと前から理解していたはずなのに、もっと早くからこのぬくもりに縋らなかったことをベラトリックスは少しだけ後悔した。
「ああ……はやく。はやく、シリウスを殺しに行かなきゃ……」
欠けた夢が記憶を混濁させている。
あまりにも呆気なく幕引きが訪れたから、杖を掲げるベラトリックスの手はいつだって血に飢えていた。もっと、凄惨で息の詰まるような終わりが欲しかった。
噴き上げる鮮血や抉り出す心臓、そういったあざやかで烈しい死に様を贈って永遠にしたかったのに、夢の中ですら運命はベラトリックスに味方しない。
「あの男は姉さんが殺したのよ。もう覚めない夢を見る必要もないわ」
「嘘よ……死体だってどこにもなかった」
「ベールの向こう側へ追いやってしまったのは姉さんでしょう。あの位相の境界を、生きて越えられる生き物などいないはずだわ」
「嘘……」
乖離した現実と理想の狭間に耽溺するベラトリックスを、ナルシッサは懇々と諭しつづけた。穏やかに言い聞かせ、優しく、残酷に事実を突きつける声は慈愛という名の毒で満たされている。
「わたしは……わたしたち、は。わたしたちに、帰りたいのよ……かえりたいだけなのに……」
胸を去った心臓の在り処を、ベラトリックスは知らない。或いは初めから、焦げ付くばかりの炉心の内は空洞だったのかもしれない。
誰も知り得るはずのない、六月の夜明けのことだった。
chapter:5/約束は冬に
ずっと思っていた。ベラトリックス・レストレンジというひとを殺せるほど自分は強くないけれど、ベラトリックス・ブラックという女を見捨てられるのはナルシッサ・マルフォイだけなのだと。
雪の降りしきる、或る冬の日のことだった。
ホグズミード村の表通りを、ナルシッサは姉とふたり歩いていた。ここのところ人目につく形で力を誇示することが多くなってきた”彼ら”の活動、その下見に同行するという名目である。火を放つにはどこそこから……という物騒な独り言を、ナルシッサは聞かなかったことにした。彼らの思想に共感はする。夫と姉が関わりを持つのならば支援もする。けれどそれだけだ。何より大切な家族が危機に晒されでもしない限り、望んで最前線に立ちはしないだろう。
週末の村は人出が多く、それこそホグワーツに通う学生たちで賑わっている。闇に沈んでいく世情など何も知らないかのように笑い、歌うように踊るように級友たちと並び歩く彼らの姿は、自分たちとは違う世界の住人なのだと思えた。真綿、或いは繭でできた箱庭で、呼吸の仕方がわからず喘いだことなどないはずだ。
「……ねえ、シシー。おまえはここを、あの子ども達のように歩いたことがあるの」
喧騒に眉を顰めるばかりだったベラトリックスが、ふと、そんな疑問を口にした。彼女の凪いだ視線の先には、手をつなぎ寄り添って歩く男女の姿がある。
この街を訪れることを禁ずるような家の教えはなかったが、一日も早く確固たる強さを手に入れたかった姉には縁遠い場所だったのだろうと容易に想像ができた。雪の降る街を仲睦まじい様子で歩く学生たちを、ルシウスとナルシッサに重ねて見ているのだろうということも。
「ええ……学生の頃にね、一度だけ。どうしてもとルシウスにねだったのよ」
実際、そのとおりだった。
普通の恋人同士がすること、順当な恋愛関係の築き方、そんな当たり前を知りたがったナルシッサに、ルシウスは根気よく付き合ってくれたものだ。はじめから互いが最上だった二人にとって、いまさら恋人ごっこで試したところで変わるものなど何もないのだから。
ナルシッサの答えに納得したのかしていないのか、「そう」とだけ呟いて姉は微笑った。
珍しいこともあるものだ。嘲笑でも、酷薄に誰かを突き放すでもなく、ただ彼女が笑うだなんて。
感傷をごまかすように、ナルシッサはひとつ頭を振った。
やがてどちらからともなくかじかんだ指先を重ね合わせ、ふたり手をつないで歩いていく。真っ当な姉妹のようなその戯れに興じるのがもっと早ければ、いつか訪れる別離は穏やかなものになっただろうか。
「おまえはいったい、誰の味方なのかしらね」
「ばかね、姉さん。そんなこと言うまでもないじゃない。わたしたちは家族よ。……いつだって、あなたの味方だわ」
epilogue
わたしたちだった、わたし。
姉を囚えて縛り付けていたその呪いが、わたしは大嫌いだった。ブラック家という集合無意識。とっくに潰えた幻想。何の救いにもなりやしない、愚か者の憐れな夢だ。
とても利己的な嘘をついた。英雄として闇の帝王と対峙した少年の生死について、虚偽の報告をした。行方がわからなくなっていたドラコを探すには、勝者として城に踏み込む以外に手立てがないと知っていたからだ。夫と、息子と共に生きて帰れるのならば――或いは死出の旅を共にすることになったとしても――どちらが勝とうが負けようが、もうどうだってよかったのだ。
わたしにとって大切なものは、ルシウスとドラコのいるささやかな日常だけ。
その揺るぎない想いを込めて、闇の深くに君臨する蛇のような男を裏切ったとき、ようやくわたしは解放された。生まれてから今日までわたしのことも縛り付けていた、ブラック家という檻の呪いを。
シシー、とわたしを呼ぶ声を想起する。
星の輝きに名を連ねることのできないわたしに少しも興味がなかったくせに、抱いたユメが立ち行かなくなってわたししか縋る相手のいなくなった、かわいそうな姉さん。彼女の束縛は時に煩わしくもあったものの、憎んでいたわけではない。本当にひどい女だったけれど、血も涙もない残忍なあのひとが、わたしの前では迷える少女のように傷ついた瞳を隠さないのは、とても気分がよかったのかも。
仄暗い優越感。恋にも似た背徳。
ああ――わたしの中にもたしかに、存在しているようだ。あの家に生まれた者に似合いの、苛烈で陰惨な支配欲が。
貴女を一番には選べないけれど、きっとこれも愛と呼ぶのだろう。
「……ばかね、姉さん。わたしはマルフォイ家の女よ」
言えるはずもなかった残酷な結論を、鮮烈に過ぎる黎明を見上げながら口にした。
結局わたしは、ベラトリックス・ブラックという女を見捨てたのだ。
「ナルシッサ! こんなところにいたのか……!」
「あなた。……ドラコも、ひどい怪我はなさそうね」
「一度ここを離れましょう。父上、母上。今はどちらに見咎められるのも面倒だ」
夫と息子に促されて渦中を離れる間際、凄惨な戦場と化したホグワーツ城を一度だけ振り返る。
土煙をあげ泥に塗れたかつての学び舎の成れの果ては、はれやかで残酷な終焉の日に、この上なく相応しいと思えた。
-fin-