ヒーローズ・ラスト・メメント

※未来捏造
※原作で亡くなった人は原作どおりに死亡
※捏造時間軸で名前のあるモブがそこそこ喋ります

 

 


 呪文が炸裂し、閃光が飛び交う。砂塵の舞う戦場を駆ける時にも恐怖を抱くことはなくなった。
 闇の帝王を打倒し死喰い人の残党も全員が法の裁きを受けたとはいえ、人々の心に巣食う凶暴性や選民意識が消えたわけではない。むしろ明確な指標を失ったからこそ、統制を欠いた状態での闇の魔術の暴走は多大な被害をもたらした。
 この十九年間、裏社会は暗黒時代の再来と呼ばれるほど無秩序と混沌を極め、闇祓い達の戦いが尽きることはなかった。
「プロテゴ・トタラム!」
 透明な魔力の盾を生成しながらハリーは地を蹴った。
「エクスパルソ!」
 敵の呪文に次いで大規模な爆発が起きる。爆炎と粉塵の渦に悲鳴をあげたのは、まだ入局して間もない者たちか。一、二、三――障壁の展開範囲から漏れている部下はいない――否、一人だけいる!
 戦線の前方に残された黒髪の女を視界の端に捉えたハリーは盛大に舌打ちをした。
「Damn it!」
 アビゲイル・マクダーモットはつい先日配属されたばかりの新人だ。元々の好戦的な性格に加え、初陣に浮き足立ち周りが見えなくなっていたのだろう。その結果、仲間の元へ帰る道を見失った。
「マクダーモット! 突出しすぎだ、さがれ!」
「……です」
「何だと?」
「無理です、ポッター局長……もう、わたし、わたしの、あしが」
 爆発により巻き起こった煙が晴れていく。いったい何が起きたのかと目を凝らせば、地面から伸びた茨によって部下の足が絡め取られていた。交戦の最中、双方の陣営が放った魔法の軌跡によって彼女の足下の石畳にはいくつもの罅が入っている。
 どうする、助ける手立てはとハリーが思考を巡らせ始めたその時、ドオン、と地面を衝撃が揺るがした。
「インセンディオ!」
「プロテゴ……!」
 大地を引き裂く攻撃を皮切りに、再び戦端が開かれる。陣形が乱れ混戦の様相を呈し、取り残されたマクダーモットを助けるために動ける人間は他にいなくなった。
「待ってろ! すぐに救助する!」
 ハリーがそう叫ぶのと、どちらが先だったのか。先程の地鳴りが決定打となり、彼女の立つ場所が崩落を始める。青褪めた顔にほんの少し安堵の色を浮かべ、部下は震えながら頷いた。
 唱える呪文は決まっていた。ウィンガーディアム・レビオーサ。
 今も続く友誼の始まりを形作った、ロンがハーマイオニーをあのトロールから救った時の大切な思い出だ。
 しかし杖を構え、詠唱を開始しようとしたその時。
「アバダ――」
 ――混戦の渦中、対峙した相手との決闘にかかりきりの別の部下へと向かい、背後から死の呪いを放とうとする敵の姿を見た。
 言い訳などできるはずもない。確かにその瞬間、ハリーは命を選択した。忌まわしい呪文を聞き終える前に武装解除呪文を唱え杖を振るのは、戦い抜いた激動の時代によって植え付けられた癖だった。条件反射で繰り出すその戦闘技術をもってして、救えた命は少なからずあった。禁じられた呪文が行使される前に、逮捕し収監することのできた反社会勢力がいた――けれど。
「エクスペリアームス!」
 確実に命を刈り取る呪いと比し、運が良ければ多少の怪我で済むはずだからと“助けない”ことを選択された誰かにとって、そんな功績は何の救いにもなりやしない。
 助かるという安堵からの急転直下、絶望と恐怖と初陣の動転から自身の身を守るための魔術行使をできなかったアビゲイル・マクダーモットは、重力に従い落下し、悲鳴のひとつさえあげることはなかった。

 ――――状況が収束したのは、それから数十分後のことだった。
 皆が沈痛な面持ちを浮かべている。ハリーが闇祓い局長に就任して以来、初めて殉職者を出すこととなった。
 物言わぬ骸となったマクダーモットに取り縋り、部下の一人が泣き叫んでいる。コンラッド・ジェヴォンズ。若手の中でエースと呼ばれる男だ。今度恋人も闇祓いとして配属されるのだと、照れ臭そうに笑っていた。その恋人が彼女だったのだろうと、悲嘆に満ちた光景を見て理解する。
 ――遺体があるだけいいじゃないか、弔ってやれるんだ。
 そんな醜い感傷が喉元で渦を巻いて、ハリーは自己嫌悪と自責の念で捩じ切れそうになった。
 この手で助けないことを選択した女の蒼褪め、二度とは目覚めない面差しが、雁字搦めの十字架に重く圧し掛かる。似ているのは、長い黒髪というそれだけだ。彼女が彼の人を思い起こさせる要因があるとしたら、自分が死なせてしまったという負い目に他ならない。
 殺したよ。また貴方の時みたいに見殺しにしたよ。僕を正しく英雄たらしめたあの六月のように――ねえ、シリウス。
「クソッタレが……!」
 震える拳で、ハリーは焼け残った壁を殴り付けた。彼の最期が残光となって瞼を灼いていく。肉片のひとつ、生きていた痕跡すら残さずベールの向こうへと行ってしまった名付け親の――最愛のひとの消え失せる様は、生涯背負いつづけると決めた罪だった。

 

 

 小さなツリー飾りの周りを、衛星のように瞬きながら結晶が回っている。暗く重苦しい空気に満ちたグリモールド・プレイスの屋敷も、今だけは安らぎに彩られていた。
 ふと指先に触れるぬくもりがあって、おもむろにハリーは隣を見る。こけた頬に少しばかり血色を取り戻したうつくしいかんばせ。作り物の宇宙が瞬きの色を変えるたび少年のように目を輝かせるシリウスの姿があって、ハリーはこれが夢なのだと気づいた。最後のクリスマスはお互い自分のことで精一杯で、相手を気遣う余裕などなくて、ただ穏やかな時間を過ごすことなどできなかったから。
 手に入れられなかった幸福を、夢の中で取り戻そうとしている。ばかげた夢想だ。これまでに互いの誕生日やハロウィンも夢に見たことがある。それが――それがシリウスにとっても幸福な時間ならば、まだ救いようがあった。ピーター・ペティグリューが裏切らず、ルーピンとの間に軋轢が生じず、ハリーの両親が生きているもしもを夢に描いたならばどれほどよかっただろう。
 しかしハリーが折れそうになるたび、英雄であれと望まれ選択した道行きに悩み苦しむたび見るこの夢は、そんなあたたかく哀しい郷愁などではない。
 様々なものを喪い尽くして独りぼっちだった、あの日自分が置き去りにしたシリウスのまぼろしへと、ハリーは永遠に手を伸ばし続けているのだ。あの日に彼を救いたかったという独り善がり。
 あの時の自分がもっと強ければ、彼を守れたかもしれない。
 あの時の自分がもっと大人だったなら、同じように逝かせてしまったとしても、彼の心だけは守れたのではないか。
どれほど仮定を積み重ねたとて結末は永劫に変わらない。鮮烈に過ぎる魔法省神秘部の別離が、覆しようのない二人の終着駅だった。
「せっかくこうして会えたのに、あまり嬉しそうじゃないな。ハリー」
「……そりゃあね。あなたは未練なんて残さずに逝ってしまった。だから今ここにいるあなたは、僕にとって都合のいい思い出だ」
 自分の願望と話したって虚しいだけだろ、とハリーは吐き捨てる。願望に過ぎないとしても彼に会えただけで嬉しいと、そう思えるような殊勝さはとっくになくしてしまった。
 錆び付いた心は鉄に似ている。誰を喪い何を失くしても自分自身の幸福を諦めたことなどなかったが、根底に巣食う擦り切れた錆びは、いつかこの魂を蝕み罰を与えるだろう。
「そう感じるのなら、君は今でもあまり自分のことが好きじゃないんだろうな」
「何だって……?」
 聞き返す声が剣呑さを帯びる。凪いだ瞳でシリウスは微笑っている。聡明で理知的なパール・グレーに時折宿る酷薄ささえ今ならば懐かしくて、けれどハリーはもう二度と、その眼を真っ直ぐに見つめられそうもなかった。
「私が君の思い出だと言うのなら、君は知っているはずだ。知らない記憶を人は思い描けない」
「僕が、何を知ってるっていうんだ」
「――私が確かに君を愛していて、信じていて、幸福だったことを」
 知っている。そんなことは、蘇りの石が思い出を呼んだ時から知っている。あの森でひとつの決着に寄り添うように姿を見せてくれた人たちが――シリウスも、ルーピンも、両親も確かに自身を愛してくれていた。だから言葉を交わすことができて、自らの死を幕引きとする覚悟をハリーは確かめることができた。生き延び、未来を掴み取った今も確かな心の支えとなっている――けれど。
「詭弁だ、そんなもの……! 愛していたなら、信じていたなら! どうして僕にあなたを守らせてくれなかった!」
 どれほど尊く得難い親愛の軌跡が存在したとしても、そんなものは、彼らに生きていてほしかったという願いにとっては何の救いにもなりやしない。
 確かに彼らの死を受け止めはした。けれど受け容れられる日など永遠に来はしないのだろう。折れることなく目指した道を進み、部下を持ち、家庭を持ったとしても。あの日心の奥底が錆び付いて終わったハリーの少年の日は、生涯癒痛みつづける傷痕だった。
「仕方がないじゃないか。……だって、親は子を守るものだろう」
 傷口を広げるばかりの陳腐な慰めを口にして、シリウスはただ名付け子の慟哭を見守っている。堪らず掻き抱いた彼の体からは、心臓の音がしない。ああ――都合のいい夢だというのなら、そんな現実を突きつけないでほしいのに。
「ずるいよ、シリウス……」
「知らなかったのか? 私は狡い男なんだ」
「……こんなふうに、生きていた頃のあなたに、縋り付いて泣くことができたら――すべてが終わるまで身を隠して、危ないことはしないでいてくれた?」
 答えはわかりきっている。意味のない仮定だと知りながら、ハリーはその問いを口にした。きっと何度繰り返しても自分たちは、互いを思い合うからこそ手を取り合えずに、自身の綻びも拭えないまま、それでも家族でいたいと手を伸ばすのだろう。
「それは約束できないな。でも、君も同じじゃあないのか。本当はこんなこと、言うべきじゃないとわかってはいるが……君が私のためにと死地へ飛び込んできてくれたこと、うれしかったんだ」

 

 

 温い痛みを感傷が緩くかき混ぜて、初恋と呼ぶには儚すぎた夢は終わった。僅かな寂寞と共に、ハリーは束の間のまどろみから目を覚ます。
「……ずるいひとだな」
 代わり映えのしない闇祓い局の執務室。目の前には、うず高く積み上がった未決済書類の山がある。椅子に座ったまま眠りに落ちたせいで、凝り固まった肩を回すとパキパキと肩甲骨の軋む音がした。
 日々は変わらず回っていく。あと数時間後には喪服を取りに一度帰宅して、部下の葬儀に参列する予定だ。左手の指輪に込めた誓いに偽りはない。妻と、子どもたちの待つ家にいつだって帰りたいと願っている。それでも――戦い続けることを選択したその果てで、自分はロクな死に方はしないだろうという予感も確かにあって。
「生きるよ。……生き抜いて会いに行く、迎えに行くから」
 その時はベールの向こうへ手を伸ばそうと、ハリーは誓う。
 少年はあの別離の日に取り残されたまま、塞がることのない傷と共に走り続ける。英雄という生き方があるのならば、それは本来、人の身で背負うべきではない業なのだろう。
 ただ――ただ尽きることのない愛情が背中を押してくれる。
 その愛は見果てぬ呪いでもあり、永遠として切り取られた、彼の人の思い出の証左でもあった。

 

 

 


Heros last mement/