藍の落着

※105巻までのネタバレ
※サッチの乗船時期の捏造

 

「それ、やるよ」

 後朝と呼ぶにはからりと乾いた、もう幾度目かの薄明のことだった。
 シーツを手繰った指先に触れる違和感に睡い目を瞬いたマルコに、腐れ縁、或いは幼なじみ――そんなふうにしか今も関係を言い表せないきょうだいはそう言った。重い瞼を持ち上げる。するすると指を逃れ転がりゆく何かをようやく掌中に捉え、眼前に翳せば、ペンよりも細く華奢な真鍮が鈍く光った。鮮やかな海色とカナリーイエローの、まるで己が蒼炎のごとき細工をあしらったそれは、たしかワノ国の伝統工芸品ではなかったか。簪、という名の。紛うことなき女物の髪留めだ。

「いや、どうしろってんだよい」

 四十年来の短髪に、そんなもので飾り立てるような可愛らしい隙はない。

「伸ばせばいいんじゃないか。案外似合うかもしれないぞ」
「ガキの頃にちょっと伸ばしてみたらお前、笑い転げただろうが……」
「そうだったか?」

 青少年の心をいたく傷つけた出来事などまったく覚えてもいない様子で、イゾウはからからと笑う。とんでもない野郎だ。偉大なる船長の、オヤジの真似をしたくて髪を伸ばそうとしたマルコを、イヌとネコと――サッチと……ティーチと、指をさして笑い転げたのだ。その後もしばらくマルコの顔を見ては、箸が転げてもおかしい年頃みたいに笑っていた。ほんとうに失礼な奴だと思う。
 こういったきらびやかな装飾は、夜の名残でおろしたままの、イゾウの長い黒髪を結い上げる時にこそ映えるものだろう。そんなことは人や物の美醜になどてんで興味のないマルコにとてわかるのに、いったい何の嫌味だというのか。――或いは。

「まあ、栞にでも使ってくれや」
「生きて戻って、本を読む暇なんざあればいいがな……」

 ――或いは、これは。ずっと曖昧に濁し続けた関係に意味を与えるものなのか。
 色恋の機微やら駆け引き、情緒などとは程遠い男だったおでんが、そわそわと落ち着かない様子で選んでいた贈り物。
 それを髪に挿したトキの、今がいっとう幸せだと言わんばかりの笑み。
 物陰から見守っていた男たちが我先にと飛び出し、囃し立て、吹き荒れた春の嵐は――止んで久しく、この船もまた、今から死地へと向かう。
 簪を贈るという行為の意味を、込められた誓いを、イゾウが知らないはずはないだろう。
 けれど言葉が伴わないのならば、それは何もなかったのと同じだ。今までもずっとそうだった。これからもきっとそうなのだろう。
 何よりも――期待して、察したつもりになって、人並みの幸福を得ることなど、もはやマルコには許されない。

「なあイゾウ、お前は……」
「うん?」
「……いや、何でもねえよい」

 ――この戦いから生きて戻っても、主君に殉じるつもりなのかと。わかりきったことを問うていれば、未来は何か変わっただろうか。
 マリンフォードにて戦いの火蓋が切って落とされる、二日前のことだった。

 

[newpage]

 

 腹立たしいほど綺麗な死に顔だった。
 相討ったと思しき隣の遺体に覚えはなかったが、百獣海賊団にもオロチの部下にも相応しからざる異質さは、ソレが何者であったのかをマルコに察させるには充分だった。イゾウが何を守るために戦い、死んだのかということも。
 まるで眠っているようなその体を抱えて、夢中で空を駆けた――崩落する城になど、置いて行きたくはなかったから。
 殆ど墜落するように降り立った港で、燃え滓も同然の脆く弱い炎を、何度も灯しては分け与えんとした――だって、まだ、こんなにもあたたかい。

「……! ――……!」

 歓喜とも悲嘆ともつかぬ喧騒の中で、遠く、誰かの声が聞こえる。
 どこで間違えたのだろう。自分たちはこんな、湿っぽい関係ではなかったはずだ。弾みで寝てしまって、普通の兄弟でも友人でもいられなくなって、他の何かの成り方もわからなくて――それでも最期まで、『家族』でいてくれたから。二人の間に横たわる死が、愛着に暗く影を落とし濁らせた。
 命のなくなっていく感覚がする。
 指先から炎に溶けて、輪郭を失い、嫌われたはずの海へと還っていく。
 それでよかった。それでイゾウの命が戻るなら、それで――……。

「――……コ! マルコ!」
「っ……!」

 ――腕を引く小さな蹄が、溺れる夢を終わらせた。

「……チョ……パー……」
「もう、やめてくれ……それ以上は、マルコも死んじまう……!」

 麦わらの一味の船医が、マルコを呼んでいた。
 溶けてなくなってしまいそうなほど、その大きな目から涙を溢れさせて。
 ――自分も死んでしまうと、その言葉の意味が重く、重く鉛のように胃の腑へと落ちてくる。

「死後硬直が始まってる」
「……ッ……」
「おれはトニー屋ほど優しくないからな……アンタも医者だろ、大先輩。家族をもう眠らせてやれ」

 親子ほどに歳の離れた若者たちに諭され、腕に纏った蒼炎が掻き消えて、ようやく気づく。注ぎ、灯しつづけた火は延命にすらなりはせず――散らした命を掬い上げる術もなく。ただ、穏やかに睡るきょうだいの遺体が朽ちゆくのを、少しばかり遅らせただけだった。
 業火に崩れゆく城から運び出した時と、寸分違わぬ死に顔がそこにある。
 朱く引かれた紅の下で血色を失った唇は、二度と、名前を呼んではくれない。
 ――永遠に。

「ああ――……ああ……悪かった……。世話、かけたな……」

 悪魔の実の能力は万能ではない。
 不死を司る幻獣の名を冠していようと、死んだ人間を蘇らせることなどできはしない。
 況してや――能力を行使していない今、ただのヒトであるこの身が流す涙には、何の奇跡も起こせやしないのに。
 それは後からあとから溢れて、止めることができなかった。

 

[newpage]

 

 宝箱の鍵を開く。
 手のひらに収まる大きさのそれは、見習いの時分に貰った戦利品の分け前だった。中に詰められた宝飾品が兄貴分たちの手に渡ってしまえば、何の変哲もないただの木箱でしかない。しかし十かそこらの子どもには、いたく心躍る、自分だけの特別だったのだ。
 初めて親父と飲み交わした酒のラベル、末の弟がどこぞの島で拾ったぴかぴかの石――……そんなありふれた、何でもない思い出になるはずだったものたちが、誰にも譲るつもりのない、マルコだけの宝だ。
 蒼炎の細工をあしらった簪を手に取り、暫し思案し、また箱へと戻す。
 再びワノ国を訪れることがあれば、これを寄越して逝った身勝手な男の墓に供えてやろうかと考えて――やめた。

「おれは海賊だからな……一度貰った宝は、死んでも返してやらねえよい」

 愛しているとも言わず、その意味さえも伝えずに、人の情に胡座を掻く方が悪いのだ。
 あの世でどれほど鬱陶しがろうと、生涯想いつづけてやるから覚悟しろ。
 ――そんな強がりを、胸の内でも言いつづけなければ、飛び方も忘れてしまいそうで。

「へへ……ざまあみろ」

 宝箱に鍵をかける。
 世界でいちばん大切な宝たちも、いずれ人知れず朽ちていく。
 海賊らしく見せびらかす相手など――忘れ形見の島に訪れはしないと、知っていた。

​​​​​​​fin.

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img SONG メイデー、メイビーネイビー/sasakure uk feat.そらこ

だいぶ世間の影響を受けている時期に書いたものなので、今だとこの解釈は出てこないような気もしますが気に入っています。