chapter:終 星落つ微睡みのリリウム
――あれから、何年、何十年が過ぎたのか。
広大な星の海のほとりで業火に灼かれながら、ハーデスは輪廻に導かれるいくつもの魂を見送った。どこか見知った色を持つものも中にはあったが、彷徨することなく忘却の川を渡っていくそれらに、かける言葉などありはしない。
かの英雄の軌跡も最期まで、見届けた。一万二千年の因縁に終止符を打ち、その後も一人の冒険者として、流星のごとき戦姫として、或いは慈愛の軍医として世界中を駆け抜けた彼女は、多くの友に看取られ老衰で息を引き取った。
死してなお面倒事に関わっていないのであれば、そろそろ彼女の魂も、この海へと落ちてくる頃合いだ。無論、彼女がここへ来たとして――ハーデスは何をするつもりもない。とうに終わったことなのだ。念入りに消し去った彼女の記憶が蘇るはずもなく、理を捻じ曲げて生者と死者のあいだに紡がれた縁など、世界が赦しはしないだろう。
「ああ……噂をすれば、か」
淡い虹色の、清廉な輝きが、静かに水底へと舞い降りる。
その煌めきが少しも損なわれていないことに、ハーデスは安堵した。かつての親友も、未来を託した者も、欠けることなく次の命へと巡って往ける。
見届けることが許されたという、それだけで充分だ。
満ち足りた思いを胸に目を閉じようとした、その時。
「な……っ」
忘却の川を渡っていこうとした魂が、ふらふらと漂い、近づいてくる。その輝きはハーデスの眼前で目の眩むほどの光を放ち、そうして。
「馬鹿な……なぜお前が……!」
「だって、あなた……泣いているから」
あの泡沫の邂逅に手放したはずの、最愛の女のカタチへと変化した。最後に贈ったドレスと髪飾り、そして左手の指輪を欠くことなく身につけた女の――氷晶のごとき淡い色の両目が、ハーデスのソレを写し取ったかのような金糸雀色に染まっていく。
「こうして魂だけになって、わたし、やっと自由なの。だからあなたを見つけて、全部思い出すことができた……」
「全部、だと……? まさか」
「そう、全部。他人の人生を見ているような感覚だったけれど、ルイゾワ様に拾われて、シャーレアンで生きたわたしのことも……あなたの親友だった、アゼムのことも。こうしてあなたのもとに来たのが、なりそこないのわたしで、ごめんね……でも、」
染まりきった瞳に涙を湛えて、女は言う。
もう過ぎたことだと、過去を取り戻せぬことなど理解していると、その雫を拭ってやらねばならない――違う、こんなにも穢れ切った罪人の手で触れてはならないと、葛藤に苛まれるハーデスの胸中も知らずに。
「ハーデス。あなたを――……愛してる」
その儚くも気高い祈りが、水面を揺らす。
思い出を消し去り、手放したはずの存在。
自分が何者であったかさえも忘れ、まっさらに生まれ変わるはずだった魂。
「……っ駄目だ。この業火の檻が視えるだろう。お前は正しく生を終え、そして転生する命だ。もう……金輪際、私などには関わるな……」
冥府が定めた大罪人には欲する資格などない、尊ぶべき命が――忘却を凌駕し、今も己を愛していると言う。
欲しいに決まっている。触れたい、もう一度抱きしめたいと、どうして思わずにいられようか。
「もう、大丈夫。もう独りじゃないよ。あなたの罪も、苦しみも悔恨も、わたしが一緒に背負っていくから――だから」
遠ざけんとするハーデスの言葉に首を振り、一歩、また一歩と、女は歩み寄ってくる。
ついには灼熱の炎の内へと踏み入り、その脆すぎる魂が傷つくことを厭わずハーデスを抱きしめて。
「だから……そんなモノとは、縁を切りなさい」
凛と、冷徹な戦士の声で告げた。
清廉なるエーテルの奔流が吹き荒れ、彼女の身を包むドレスが、癒し手の戦装束へとカタチを変える。
「蛮神如きが……いい加減、勝手が過ぎる! これ以上このひとから、わたしの愛した人から、何も奪うなーーーッ!」
怒りに満ちた絶叫と共に、その小さな手が力強く掲げた魔導書から更なる光が迸り、辺り一帯を包み込んだ。
目を開けていられないほど眩しく、しかし嵐と呼ぶには優しすぎるその力の波動が再び彼女の掌へと収束する頃には、燃え盛る炎と暗紫色の槍が、跡形もなく消え去っていた。
数十年――アシエンとしての彷徨に比べれば瞬きほどの歳月であったが――ハーデスが受け続けた責め苦による痛みもすべて、嘘のように和らいでいる。
「蛮神……だと? まさか……」
「こんなに手酷く傷つけられて、判断が鈍ったのね。アレは冥府の意志なんかじゃない。あなたを手放すまいと足掻いた、ゾディアークの傍迷惑な祝福、で……」
「おい! しっかりしろ! とんでもない無理筋を押し通すからだ、この馬鹿者……!」
その身には余る力を解き放った反動か、ふらついた女が水面へと倒れ込みそうになるのを、寸でのところでハーデスは受け止めた。
「だいじょうぶ……そんなにあせらなくても、わたし、消えたりしないよ……?」
「そういう問題じゃない。頼むから、その魂ごと罅割れるような無茶をしてくれるな……」
多くを背負い、託されて歩んできた、あまりにも小さな体を抱きしめる。すべての権能を失い、理を捻じ曲げるほどの魔力も尽きた今となっては、本当にただ祈ることしかできやしない。
この魂が、また、砕かれることなどないようにと。
「……光と闇は、それ即ち正義と悪なんかじゃない。でも、どちらも行き過ぎれば、命あるものにとっては毒になる」
どこか照れくさそうにもぞもぞと身じろいでいた女は、数瞬の後、観念した様子で抱擁を受け容れる。彼女の紡ぐ言葉に、その通りだとハーデスは頷いた。だから第一世界と第十三世界は、傾きすぎた極性の氾濫により多くを喪った。
「ねえ、ハーデス……本当はね、気づいてたの」
「気づいていた? いったい、何に――」
「あの日クリスタリウムであなたが苦しんでたのは、無尽光だけじゃなくて、ゾディアークからの過剰な干渉のせいでもあるって……だから、その……すべてが終わった今だから、自由にしてあげたくて……めいわく、だった……?」
所在なげに眉を下げた彼女の瞳に再び、水の膜が揺らぐ。
あんなにも強気で啖呵を切り、太古の蛮神ひとつ吹き飛ばしておいて、妙に自己評価が低いところは変わっていない。
その愛らしくも懐かしいちぐはぐさに、くつりと、喉の奥で笑いがこぼれた。
「な、なんで笑うの!」
「いや……何、相変わらず、愛らしいと思っただけだ」
柔らかな頬を伝う涙を、今度こそ躊躇わず拭ってやる。そのまま顎を掬い上げ、薄桃色の唇へと口づけた途端――昏き天の水底に、一面の白い花が咲き乱れた。
「わ――なに、花……? 何の……?」
「不凋花……アスフォデロスの花だ……。ああ……ああ、そうか……」
赦されたのだと、込み上げた感慨が、熱く目の端からこみあげる。
「泣いて、るの? ハーデス……」
「もう、離してやれないぞ。本当にいいんだな」
「そんな……そんなの、当たり前じゃない……。もう二度と離さないで……」
隙間なく抱き合い、花園へと倒れ込む。意識が、自我が薄れ瞼がおりていく――狭まる視界のなかで、彼女も同様に、目を閉じようとしていた。
悠久の眠りの、その汀で。
ふたつの魂は漸く、ただ共に在ることが叶った。
fin/