chapter:4/葬送、或いは婚礼に寄せて
最低限の家具だけを誂えた簡素な部屋に、ふたり分の荒い息遣いと、抽挿による水音が響く。
「は、ふ……ぅう、あっあ、あんっ……」
上に跨って剛直を咥え込み、拙いながらも懸命に腰を動かす女の両目は、ハーデスのそれを写し取ったかのように金糸雀色に染まっている。
あれから――瀕死の重傷を負った彼女がハーデスを喚び、この泡沫のアーモロートで初めて体を繋げてから、どれほどの時が流れただろうか。この街で根城としていた部屋に閉じ籠もり、睡眠に当てる以外の殆どの時間をまぐわい続けたことで、女の、ララフェル族のいとけない体は、すっかりハーデスを受け容れることに慣れ切っていた。
「ぁ、は…です、わた、し、らめ、いってぅ、いってる、の、あ、あ~~っ……!」
「く……ッあ、締め、すぎだ……!」
狭い蜜壺を、いっそうきつく締め付けて女が果てる。すべては埋め込むことのできない陰茎の、最も敏感な部分を搾り取るようにされて、ハーデスもまた彼女の柔肉へと精を吐き出した。
「ふ、んう、んっ……はぁっ、ん……」
「っ……ん、こら。そうがっつかれると、また抱き潰す羽目になるぞ」
余韻の中で口づけを交わす。おそらくは無意識の内にハーデスを悦ばせようとして深く貪りあおうとする女を窘め、魔法で互いの身を清め、一糸纏わぬ肢体に服を着せてやる。
「んん、だめ……今日はもう、おしまい……」
可憐な姿かたちによく似合う、カンパニュラの髪飾りと春めいたドレスを。
ラベンダーの差し色が入った純白のドレスは、花の意匠やリボン、裾にあしらわれたフリルの愛らしさとは裏腹に、大腿とデコルテを大胆に露出したデザインだ。別段、そういった服装がハーデスの趣味というわけではないのだが、時と場を弁えた上で愛しい女が肌を見せているのは――当然、好ましい。白皙の肌に点々と残したあかい印や、体の至るところに這う紫黒色の蔦を視認できるのは気分が良かった。
「……ねえ、明日は外に連れていってくれる?」
サイドボードから読みかけの本を手に取った女は、こてんとハーデスの腕を枕に寝そべり、この街で過ごしはじめてから幾度目かの望みを口にする。最初の内はこの特異な状況に動揺し、ただハーデスの傍らに在ることを良しとしていたのだが、やはり冒険者としてのさがなのだろう。何かと緊迫した状況下で訪れるばかりで、落ち着いて見ることができずにいたアーモロートを探検したいらしい。
「駄目だ。どんな綻びが生じているかわからない以上、外は危険だと言っただろう」
自由にさせてやりたいとは思うが、まだだ。まだ、ハーデスがこの街に根付かせてしまった因果と混沌を、清算し終えていない。尤も、それが終わる頃には――……と、思索の海へと沈みそうになるのを、緩く絡められた指が引き戻す。
「でも……ここに来てからずっと、え、えっちしてる……」
熱を帯びた頬をあどけなく膨らませて、彼女はやはり不満げだった。
「嫌だったか?」
確かにそれはそうだ。一応、アルケオタニアに付けられた傷は塞いだとはいえ、酷い裂傷と熱傷により弱まっていた彼女の生命力を補強するため――と、もうひとつそれだけではない建前はあるが、四六時中抱擁し、手を繋ぎ、共に眠ることでも緩やかながら体内エーテルへの干渉は可能だ。
効率的ではあるが著しく体力を消費する、性交渉という手段を選んだのは――ひとえに彼女に触れて、乱して、片時も離れることなくひとつになっていたいというハーデスの欲望ゆえである。
「嫌じゃないけど……幸せすぎて、怖い」
彼女がそれを嫌になり、或いは負担を感じているのならば控えるべきか思案するも、どうやらそれは杞憂だったようだ。代わりに返ってきたのは、深い情を感じさせる言葉。つくづく、ハーデスを喜ばせるのが上手い。
「読みたい資料があればまたアカデミアから取ってきてやる。それにしても……それほど知識欲が旺盛だったとはな」
ニームの軍学者の系譜を継ぐ癒し手として、魔法による治癒だけに留まらぬ医術と薬学に秀でた女が、ハーデスが英雄と聞いて思い描いたよりもずっと知性ある存在だということは知っていたつもりだ。このような状況下でも本を読みふけり、未知の知識を吸収しようとするとは――と。
何の気無しに感慨をこぼした、それだけのことが。
「これでもシャーレアン魔法大学の出身だもの。いつかは賢人として、みんなと肩を並べられるように――」
静穏と幸福に満ちた逢瀬に終止符を打つ、その引鉄になるなどとは、ハーデスは思いもしなかった。
「……待て。いつからお前、以前の自分のことを思い出していた」
かつて――生前、クリスタリウムで。無尽光によって引き起こされたゾディアークからの揺り戻しに苦しむエメトセルクを、彼女が助けたことがあった。差し伸べられた小さな手を取り、転移魔法を行使した刹那にこの目で視た誰かの記憶。
目の前の女と瓜二つのララフェル族の少女が、ルイゾワ・ルヴェユールに必死に何かを訴えかける光景。
「以前、の……?」
自分が何を口走ったのかも理解していない様子で、女は不思議そうに首を傾げる。
「第七霊災以前の記憶がない、と言っていただろう。気づいた時には冒険者としてエオルゼアに降り立っていたと。あの閉鎖的な学術都市が、何の後ろ盾もない冒険者をを易々と受け入れるとは考えられない。それは、記憶を失う以前のお前の経歴ではないのか?」
あれが真実、この娘であるのならば。今更になって失われた記憶を取り戻した切欠は何だ。良くない兆候に思えてならない。詰問する口調にならぬよう慎重に探ろうとして――失敗した。
びくん、と女の肩が跳ねる。淡い虹彩の瞳が、焦点を失い虚ろに濁っていく。
「あ――……ぁ……そう、だ……わた、し……ダラガブが、砕けて…………終末と、おな、じ……」
怯えた様子で自らを掻き抱く幼気な手が、血が滲むほど強く剥き出しの二の腕に爪を立てるから、ハーデスはその手を引き剥がし己の胸へと抱き込んだ。それでもなお身悶え苦しむ、光の使徒であるはずの女が――活性と激化の力を解き放とうとする。
「やめろ……もう思い出すな、それ以上は……っ!」
「まも、らなきゃ……ああ、わたしが、守らなきゃ……いけなかった、のに……ッ! ルイゾワ様……!」
「やめろ、《――》――……!」
目を見開き、慟哭し、仰け反った女の背を、異形の翼が食い破る。黒く歪で、弔いの花を円環のように纏ったその痛ましい姿は、彼女との激闘でハーデスが見せたものに酷似していた。
驚愕を受け止める間すらないまま、強烈な頭痛が、意識を刈り取って――……。
+++
そのララフェル族の少女は、ルヴェユールを名乗ることを許されていた。生まれ持った魔法力の高さ故に恐れられ、捨てられた名もなき孤児であった彼女を、賢人ルイゾワが引き取り養子としたのだ。
養子と言っても、ルイゾワと少女の年齢は親子というより祖父と孫ほどに離れていた。そのため少女は、彼の実孫である双子と、きょうだい同然に育てられた。
シャーレアン魔法大学での医術と薬学の研究成果を認められ、ゆくゆくは賢人位を取得するだろうと噂された少女は、洋上の学術都市で幸福な日々を過ごしていた――第六星暦一五七二年、ガレマール帝国軍第Ⅶ軍団とエオルゼア同盟軍が、カルテノー平原において激突するまでは。
『遥か遠い昔にも、災厄がありました。星の理が乱れ、獣が命を喰い荒らした……』
周囲の反対を押し切り、養父を追って戦いの場へと赴いた少女は言い募る。ダラガブの外郭が砕け顕現した蛮神が大地を蹂躙していく光景は、あの終末に酷似していた。幼いころ、流星雨の夢を見たときから、彼女には断片的ではあるものの、古の時代の記憶があった。
ルヴェユールの家に引き取られ、学び、育った街シャーレアンとよく似た壮麗な都市。離れていても常に心は共にあった二人の親友。道を違えた十四人委員会の仲間たち。たったひとつ、されどひとつで己の就いていた座を象徴する、特別な魔法。
『あのとき何もできなかったわたしには、力ある者としての責務がある……! 然るべき星を喚ぶ術を、たとえこの魂では不足でも、わたしは……!』
エーテルの集積器たる名杖トゥプシマティさえも折られた今、どれほどの大魔道士であろうと、現代のヒトの器で神降ろしを行えば無事で済むはずがない。ルイゾワはこれからもエオルゼアに必要な人物だ。それ以上に、大恩ある養父に命を懸けさせるような真似がどうしてできようか。
ならば分かたれた魂では不足でも、自分がその役を果たすべきだと少女は決意し進言した。かつて命の限り歩み、地上の星々を繋がんとして――果たせずに終わったその願いの続きを、過去と現在の大切な人たちに報いるために。
『今はまだ、その時ではない』
少女の提言を、しかしルイゾワは受け取らなかった。
『そんな……! 今この力を使わずして、どうするのです!わたし、は……わたしはっ……あなたを喪いたくない……お父様……』
はらはらと涙を流す養い子の頭を一度撫でて、老賢者はその手を掲げる。血の繋がりがないことでどこか遠慮し一線を引いていた少女が、彼を父と呼んだのは、それが最初で最後だった。慟哭する彼女をまばゆい光が包み込む。
『お前さんは生きるのじゃ。もっと遠い未来、続いていく明日に、どうかこの星を救ってほしい』
少女と、クリスタルに導かれた勇士たちを遥か彼方へと送り届けた大魔道士は、穏やかに笑み、自らの肉体と魂を、人ならざる高密度エーテルの渦へと焼却する。蛮神バハムートという脅威を、命と引き換えても斃すために。
その日、一人の研究者が、当代の光の戦士たちと共に姿を消し、人々の記憶からも消え去った。
五年の空白を経てエオルゼアに降り立った彼女は、すべてを忘れ、冒険者として歩み始めることとなる――……。
+++
――まばゆい光の収束と共に、過去視が霞む。
鈍痛に眩む頭をおさえ、彼女の姿を探したハーデスの視界に飛び込んできたのは、目を覆いたくなるような凄惨な光景だった。
「ぁ……く、うう……」
肉体の枷を外した自身とそっくりの、異形の翼を生やした女が、無数の光の杭――あの日ハーデスを斃したのと同じ、高密度の霊極性エーテルの刃に貫かれ、夥しい量の血に塗れ倒れている。
「ッ忌々しい……古の蛮神如きが、舐めた真似を……!」
抱いたのは、護りのつもりだった。未だ物質界の縁を手繰れるだけの魔力と、この街に遺したエーテルとを時間をかけてすべて注いで、少しずつ彼女自身の魔力に溶け込ませようと試みたのだ。たとえどれほどの苦難が待ち受ける道であっても、彼女が歩んでいけるようにと。
それが、どうだ。この身は死してなお、解き放たれてなどいなかった。ハーデスの魂に食い込んでいたゾディアークの活性と激化の力が、遅効性の毒のように彼女を蝕み、記憶の封印を打ち破る程に溢れ――それを感知したハイデリンは、彼女を諸共に殺しかねない強大な力で、異物を排除せんとした。
忌々しい。本当に、忌々しいことこの上ない。弱く小さき命を翻弄し傷つけた光と闇の蛮神も、その可能性に思い至らなかった自分自身も。
「おい、聞こえるか! くそっ……処置をするが、暴れてくれるなよ……!」
「ぅ――ん……」
問いかけへの反応が鈍い。声が届いているかも不明瞭だ。
力なく倒れ伏した女を抱き起こす。全身状態の悪さは、厄災の獣に付けられた傷など比ではない。胸部、腹部、大腿と腕――太い血管の通る箇所に受けた損傷を、真っ先に治癒魔術で塞いでいく。自身の魔力を注いで良いのなら話は早いが、それではおそらく二の舞となる。水底の街を構成する魔力も同様だ。異物として光の加護を刺激しないように、黒風海にたゆたう本来の環境エーテルを手繰っては、ズタズタに引き裂かれた体組織を少しずつ再生した。
「は……ぁ……は……です、わた、し……?」
傷を塞ぎ終えたころ、彼女が意識を取り戻す。不思議そうに視線を彷徨わせる瞳は、まだどこか焦点が合っていなかった。自身の身に起きた魔力暴走を理解はしていても、何を思い出し錯乱したのかは覚えていない様子だ。
「ここからが正念場だ。……辛ければ噛んでいいぞ、少しは気が紛れる」
「んッ、ぐ……」
はくはくと開いては閉じる口に押し当てた指が、ぬるりと濡れる。それが肺を貫かれ気道をせりあがった血液だと気づき、やり場のない怒りが沸騰しそうだった。
「な、に……する、の……?」
ハーデスの指を噛むことはせず、その小さな両手できゅっと握り、女は不安げに問いかけてくる。
「お前にとっては毒でしかない、過剰な星極性のエーテルを……引き剥がす」
その問いに答えながら、ハーデスは彼女の胸、心臓の真上あたりにもう一方の手を置いた。蠢く茨が、柔い皮膚の下に巣食っている。愛と信じて注いだ、そのおぞましい呪詛を。
「あ、ぐう、う、あぁあッ、あああぁあ……!」
引き抜き――握り潰した。
悲鳴をあげ、のたうち、ハーデスの手に縋る女の肌から、紫黒色の蔦が消えていく。体内エーテルの均衡が光へと傾きすぎぬよう慎重に、劇毒と化した力のすべてを引き剥がし終える頃には、彼女の瞳もまた、本来の色へと戻っていた。
「う、く……は……うう……」
「これで終わりだ。よく頑張ったな」
「ん……さむ、い、寒いよ……ハーデス……」
青褪め、震える娘を強く抱きしめながら、潮時だと、ハーデスは痛感した。この身に、そしてこの水底の街に残る魔力を明け渡して護りとできないのならば、生者と死者の理を捻じ曲げてまで、共に在り続ける意義はない。
失われたはずの、彼女自身の来歴に関する記憶も、ひとたび封印が綻んだ以上、このような特異な状況に留め置けば、いつまた溢れ出すかわからない。
ルヴェユール家の養子であった頃の記憶を取り戻せば、芋づる式に、少女が有していた『アゼム』の記憶も蘇ることになるだろう。ひとつの器に三つの人生が綯い交ぜになって、女の精神が無事で済むとは、ハーデスには思えなかった。
なぜ、とかつての友に問いたくないと言えば嘘になる。思い出していたのならなぜ、探してくれなかった。なぜ、その魂の象徴たる召喚術を用いて呼び寄せてくれなかった。それでお前の不完全な器が壊れたとしても、クリスタルの助けがあれば繋ぎ合わせてやれる。あのとき中立を貫いたはずのお前が、ヴェーネスの遺志を継ぐ者たちに与するつもりだったのか――と。
生前であれば――白日のクリスタリウムで、初めて彼女に触れた日にあの過去を視ていれば、ハーデスは無理やりにでも記憶の蓋を抉じ開けていただろう。計画を捻じ曲げ、彼女の心を壊してでも、親友を取り戻そうとしたはずだ。
「他人には説教をしておいて、実に身勝手な話だがな……」
「……?」
当時、既にこの娘を愛おしく思い始めてはいたが、友の残滓を手繰れると知れば妄執が勝ったと断言できる。知らずにいたから、彼女を手折ることなく裁定し、決裂し、戦って敗れ、そして今がある。
大切な誰かの魂を持つ別人を、その者を犠牲に『誰か』を取り戻す術があると知って、それでもひとりの命として祝福できるのか――その命題を苦しみながらも選択したという点において、光の巫女とガンブレイカーの男は賞賛に値する。
伝える機会を得たとして、当人たちに言ってやるつもりは毛頭ないが。
「ね……ハーデス、お願いがあるの」
腕の中、夢見るように目を細めた女が口にした。
「何だ? 可能な範囲であれば叶えてやるが……」
永劫の別離を前にした今、できるならばどんな望みも叶えてやりたいと思う。それはひとりの男としての欲求であり、護ろうとして与えた力で傷つけたことへの贖罪でもあった。
「わたしたち、きっともう、一緒にはいられないんだよね? この夢が醒める前に……もう一度だけ、わたしを抱いて」
見上げる瞳に涙と、強い意志とを湛えて、女は言う。
「護りだとか、力を分け与えるとか、そんなこと何もしなくていいから……ただ、触れてほしいの……」
それを聞いて、横面を張られたような思いがした。
彼女は、とっくに気づいていた。交わるたび過剰なまでにエーテルを注がれていたことも、その意図も。ハーデスの魔力によって編まれたこの幻影の街でならば悟られにくいだろうと考えていたが、その想定が甘かった。
――当然だ。エーテルに対する感受性が鋭敏であると、他でもない彼女自身が自負しているのだから。
ならば、気づいていないはずがない。ハーデスの魔力にひそやかに息づいていた、ゾディアークという毒にも。
「お前……気づいていたな? 私が注いだ力が、その身を蝕んでいたことに。知っていてなぜ言わなかった!」
問い詰めれば、氷晶の如き透き通った瞳から、はらはらと涙がこぼれはじめる。
「……欲しかったの、あなたがくれるもの全部」
それでも決して視線を逸らさずに、女はその深い愛を告白した。
「それでこの身が砕けても、わたしがわたしじゃなくなっても……!」
懺悔のようだった。自らの命も、『覚えている』という約束も、果たすべき責任をも放棄することになりかねない選択が如何に愚かであったかということを、きっと彼女自身が誰より理解しているだろう。
己の非を理解し、悔いている者を責め立てるほど無益なことはない。もとより、彼女を責める資格など、ハーデスにありはしないのだ。
「――いや……悪かった。元はと言えば、私が撒いた種だったな。お前の想いも、その身を蝕み、守護とできずに傷つけるだけだった力も……」
「いいの。あやまらないで。もういいから、だから――」
あいして、と薄桃色の唇が紡ぐ。
その願いに答えないという選択肢は、存在しなかった。
◇ ◇ ◇
夜明けまで深く愛し合い――迎えた朝。
「もう、外を歩いても大丈夫なの?」
「何も危険がない、という保証はないが……少なくとも、あの大口の獣が現れることはないはずだ。安心しろ。何があろうと、お前ひとりくらい守り抜いてやる」
水底の街を、ハーデスと彼女は歩いていた。刻一刻と別れの迫りくる、静穏に満ちた朝焼けの中を。
「……なんだか、新鮮かも。誰かにそんなふうにはっきり、守るって言われるの」
面映そうにうつむく女の頬には、幾筋もの涙が伝った跡がある。擦って赤くなった目元も、化粧で隠し切れていない。
「それはそうと……降ろしてくれないかな。この体勢、すごく子ども扱いされてるみたいで複雑なんだけど……」
そんな弱さを誤魔化そうとするかのように、努めて明るく振舞い、それこそ子どものように拗ねてみせるところが堪らなく愛おしい。叶うならば自分だけの宝箱に、鍵をかけ閉じ込めてしまいたい程に。
「ほう……大怪我をして、その原因に荒療治の処置をされ、あまつさえその前後に抱き潰されて腰も立たない体でどう歩く気だ? おとなしく運ばれていろ」
彼女を抱えて目的地へと向かうのも、ある意味、その仄暗い独占欲の発露ではあった。片腕どころか片手で軽々と持ち運べる小さな体を、態々両腕に抱き――この世のすべてから覆い隠すようにして。
「そも、これは子ども扱いじゃない。愛する女を……丁重に扱っているだけさ」
「あ、愛……って、うう……そ、そっか……そう、なんだ」
ララフェル族の中でも殊更小柄な部類である彼女を、その種族的特徴ゆえに性的にまなざしたことなど一度もない。かと言って、それゆえに子どもと侮ったこともない。分かたれた命なりの常識や礼節を弁えた彼女は、はじめからその年齢相応の大人だった。大人だからこそ、ひとりの女を対等な立場で愛したのだ。
「今更照れることか? もっとすごいことを散々してきただろうに……」
「大切にしてくれてるのは、わかっていたけど……まだ、二度目だもの。愛してるなんて言われたの」
――それもそうか。初めて彼女を抱いたとき、衝動のまま口にして以来、言葉で想いを伝えたりはしなかった。
「……あ! ここ、アナイダアカデミア……だよね。ここにわたしを連れてきたかったの?」
未だ少し照れた様子の彼女と共に、ハーデスは目的地へと到着した。創造機関アナイダアカデミア。学術都市たるこの街の中でも、研ぎ澄まされた叡智の集う場所だった。
「ああ。あの獣……アルケオタニアの件が、この海底を訪れた理由だろう? 動向を気にしているだろうと思ってな」
本当は――本当はアレに彼女を関わらせるなどこの上なく業腹だが、できるかぎり憂いは払ってやりたい。
「ま、待って! だったらやっぱり、頑張って自分で歩くから降ろして……! アカデミアの内部も酷い有り様だったの。わたしを抱えてたら、戦闘に支障が――」
言い募る声を無視し、ハーデスは歩みを進めていく。彼女は気づいていないようだが、ロビーには研究者も学生も受付の者も誰ひとりとして気配がなく、構内へ立ち入ろうとする二人を、見咎める者などいなかった。
「――え……?」
内部へと繋がる重厚な扉が軋み、ひとりでに開いて、女はハーデスの腕の中、拍子抜けしたような声をあげる。
「すごく、静か……なんで……?」
扉の先に続く景色は、あの忌まわしき事故の日のものではなかった。煙と毒の充満する火災や、魔力暴走を起こした者たちのエーテル異常の気配もない。
「静か、すぎる……何の、誰の気配も……」
不思議そうに首を傾げる彼女を抱えたまま、ハーデスは構内を進む。そうして受付から程近い建物、水棲生物の研究を行っていたミトロン院へと足を踏み入れる。あの獣を捕獲し研究していたのはもっと深部の施設ではあるが、アカデミアがどのように変化を遂げたかは、此処でも窺い知ることができるだろう。
「ここに……人が、たくさん、亡くなった人が倒れていて、水槽を破った生き物が凶暴化して襲いかかってきたの。奥に進むほど強力な幻獣が……なのに」
講堂には争いの跡ひとつなく、水辺の生き物たちは皆、水槽の中を悠々と泳ぎまわっている。往時の閉講後のような静けさが、辺りを支配していた。
「平和だった頃、に、戻ってる……?」
「ああ。海向こうの大陸で、未知なる凶暴な獣が創造される以前の……」
永遠に続くと信じていた、穏やかな日々。なぜ意図せぬ創造現象が暴発したのか、真相は当代のラハブレアを始めとする研究者たちをしても解明できずに終わった。
調査対象として捕らえた獣は檻を破り、凄惨な事故が起きたアカデミアに端を発すした恐怖が伝播し、やがて世界に終末が訪れた。
「この先、アレが幻体に魔力を宿し、黒風海を跋扈することはない。存在そのものが消滅したからな」
「それは……魔力の供給源……この幻の街の創造者たるあなたの攻撃で倒されたから……? ううん――そうじゃ、ない。もっと根本的な、存在の核が揺らいだから。この街を構成するエーテルが減少して、事故の日のアカデミアや、あの獣を、維持することができなくなった……?」
ハーデスの言葉を受け、彼女は自分自身で、その因果関係を解明せんとする。
仮説を立て、否定し、更に有用な仮説を組み立て推論を強化していくその姿勢は、研究者として好ましい。
「さすがだな。お前の推論のとおりだ」
「どうして? このアーモロートが消えれば、アルケオタニアの存在も定義破綻する、とは、わたしも考えてた。だから他の手立てがないか調査に来たの。でもなんであなたが、たとえ幻でも、愛した街を消してまで……」
「許せなかった。アレが――災厄の引鉄でもあったあの獣がお前を傷つけ、喰らおうとしたことが……どうあっても許せなかった。それが理由だ」
かつての理想郷が滅んだ端緒。そのような忌まわしいモノが、手を取り敢えずとも愛した女の命を摘み取ろうとしたことを許せるはずがない。あまりにも身勝手で、理性を失した情動だ。しかしそれだけが、この不可思議な邂逅の中、ハーデスを突き動かしていた。
討ち果たした者たちの願いを、かつてお前も此処に在ったことを忘れるな。そんな思いと共に置いて逝ったこの街を消すことが、惜しくなかったと言えば嘘になる。
それでも、ただ滅びゆくだけだった幻を、彼女の糧とできるならと――欲を出し、自身を媒介にこの街を構成するエーテルを注ぎ込んだ結果引き起こした昨夜の惨劇は反省すべきところだが、それでひとつ、はっきりとわかった。
ハーデスの力は、彼女を傷つける毒となる。護りとして託すことなどかなわず、その魂に眠る記憶を揺さぶり、ハイデリンは彼女もろとも異物と見做し排除せんとした。ならばこの街という縁ごと、なくしてしまった方がいい。
それは愛した女を守るだけでなく、道を譲り、未来を託した宿敵の行く末を見届けるためにも必要なことだった。
「……どうして、そこまで。大切にしてくれるの。遺恨は残らなくても、わたしたち……どうしようもなく敵だった」
真っ直ぐにハーデスを見上げる女の目から、ひとすじの涙が伝う。思えば泣かせてばかりだった。たとえ内在エーテルの反発が起きずとも、その弱くとも輝く命に、触れれば傷つけることはわかっていた。
けれど、それも直に終わる。
「もう泣くな……お前に泣かれるのは、堪える……」
「で、も……だって――ん、んぅ」
問いなのか、或いは告解なのか判然としない女の言葉には答えず、ハーデスはそのいとけない唇を塞いだ。余すところなく形をなぞれば、柔い粘膜が綻んでいく。涙に濡れた瞳がとろりと熱を帯びるまで溶かしてから、一度息を継ぎ――手の内に生成した果物を噛み砕き、飲み込ませた。
「ん、く……なに、これ……甘い……」
「ロートスの実だ」
「ろー、と……す……? あれ……なん、か、ねむ……」
眠気を訴える声を紡ぎ切らぬまま、がくんと、女の体から力が抜ける。弛緩していてなお軽すぎる、小さき命を両腕で抱え直し、ハーデスはアカデミアの奥へと歩き出した。
美しい花々の咲き誇るハルマルト院を抜け、ラハブレア院の屋上――幻想生物創造場へ。
海上より陽光の降り注ぐ至大なる円形の台座。ハーデスはその中央に女を横たえ、指をひとつ鳴らすと、硬質な床を白い水仙の花園へと作り変えた。
「……すべてを忘れるお前に、許せとは言わないさ」
深い眠りに落ちた彼女の傍らに跪き、その柔らかな頬に、幾許かの逡巡ののち唇にも口づけを落とし、何ら魔術的な防備を成さぬ紫水晶の指輪を、左手の薬指に嵌めた。
そうして、ゆるやかに上下する胸のちょうど心臓の真上に手をかざし――注ぐ。注ぐ、燃え滓の命にほんのわずか残った、活性と激化の力に侵蝕されていない部分を。
今度こそ真に、彼女の護りとなるように。
祈りを刻んだ術者との思い出を永劫に焼却することで、その身を守る力と為すように。
「これで本当に最後だ。星の海か、或いは地獄か……ともあれ死者は死者らしく、手の届かない場所から見届けるとしよう。振り返るなよ……《――》」
万感の想いを込めて、ハーデスは彼女の名を呼んだ。
――生きていてほしい。
どうかその魂も、肉体も尊厳も、脅かされ踏み躙られることなどなく。
弱くとも末永く、健やかに。
最後に一度だけ頬を撫で、いつまでも触れていたいと名残を惜しむ手を離し、魔法障壁によって防護した『英雄』を、コルシア島の地表へと転移させる。
「は――……想定した以上の、消耗だな……ッ」
元より、燃え滓でしかなかった命の核たる部分を注いだことで、限界が近づいている。エーテル界から物質界へと縁を手繰れるほど残っていた魔力の大半は、この海底本来の環境エーテルをもって彼女の傷を塞がんとした昨夜に、使い果たしていた。それほどに酷い傷を、この小さな命が負わされたのだ。
ふらつく足を叱咤し、魔法陣を展開する。天へと掲げた掌に、泡沫の街を構成するエーテルを集積していく。在りし日のまぼろしが揺らぎ、崩れ落ち、跡形もなく掻き消え――水底に形を為すのは、朽ち果てた本物の遺構だけ。
集積したエーテルを燃やし、灰燼へと帰し、成すべきことは終わった。あとは再び自身の魂が、星の海へと導かれるのを待つだけだと目を閉じたところに。
「忘却の果実を食べさせた上で、消しきれなかった記憶の焼却か……。随分と酷なことをするものだね、ハーデス」
聞こえるはずのない、懐かしい声が聞こえた。
「……ヒュトロダエウスか」
「おや、泡に過ぎないこのワタシを、その名で呼んでくれるとは」
燃やし尽くしたはずの虚構の街に存在した、旧き人々の影のひとつ。なぜか自由意志めいたものを有して事あるごとにお節介を焼いてきた『泡』が、傍らに立ち語りかけてくる。
「よく言う。オリジナルよりもよほど『らしい』言動をしておいて……」
「フフ、それはキミの『ワタシ』への信頼が為せる技だね」
彼をまがいものだと断じて切り捨てることなど、ハーデスにはできなかった。あまりにも往時の親友と酷似した、それ以上に彼らしい言動の数々をどうして懐かしまずにいられようか。
――そうでなくとも大切だった。背負った数多の命たちへの責任よりもずっと、この男と――違う道を征けども最後まですべてを諦めなかった、あの魂の、元の持ち主が。
「いいのかい? 彼女の記憶から、永遠に消えることになって……覚えていろと、約束したのに」
「膿んだ傷口を抉じ開け続けるような思い出は、この先、枷となるだけだろう。覚えているのは『私たち』のことだけでいい」
すべてを視ていたらしい彼の問いは、『ヒュトロダエウスならばこう言うはず』と信じた、その発露なのか。
或いは誰かに、彼に問うてほしいとハーデスが願ったことなのか。
「ふむ……そう上手く、忘れてくれるものかな?」
「忘れるさ……忘れてくれなければ、困る」
それすらもわからないまま言葉を交わすうちに、意識が薄らいでいく。悔恨も悲嘆も寂寞も、すべてを呑み込んだと言い切れば嘘になる。だが、答えは得た。成し遂げられずとも生き抜いたのだ。この上生と死の理を捻じ曲げるつもりは、ハーデスにはなかった。
「……キミがそう言うのなら、そうなのだろうね。ともあれお疲れ様、ワタシたちのエメトセルク。どうかキミの眠りが安らかな――その……先――……と、また――……」
二度目の死は静寂の中に、旧き友の祈りを最後まで聞き届けられぬまま、落ちて、落ちて――墜ちていく。
星と生命の沈む場所、還るべき海へと至る。
高密度の霊極性エーテルに貫かれて霧散した一度目と比して、穏やかなものだと安堵の息を吐いた――そのとき。
「が、は……ッ……!」
拍動を終えて久しい虚ろの胸を、飛来した何かが貫いた。
それが暗紫色の槍だと、見下ろし視認した傍から、続けて襲い来たその鋭利な刃が腹部を、腕を脚を串刺していく。
激痛に耐え切れずその場に倒れ伏せば、どこからか声が聞こえてくる。
《ドウ……シテ……》
《ドウシテ私タチヲ、踏ミ潰シタノ……》
《生キテイタカッタ……ダケナノニ……》
計画のためと利用し翻弄した、『なりそこない』達の。
《アナタハ私ヲ、愛シ、テ……》
《私ヲ……ナゼ私ヲ、見テクレナイ……アア、痛イ、助ケテ、助ケ……オ祖父様……》
子を成すため番った皇妃の、目を背け冷たくあしらい続けた孫の。
《ナゼ連レテ帰ッテクレナカッタ……》
《帰シテ、還シテ……私タチヲ……》
《還リタイ……ドウカゾディアークカラ、解放、シ……》
救えなかった同胞たちの、無数の、愛憎と怨嗟と悲嘆の声が木霊する。
その声たちに呼応するように、身を貫いた槍が次々と発火し、ハーデスの霊体を――魂を灼いた。
物質界で、分かたれたヒトに混じり生きる中で経験した数多の死など凌駕した、想像を絶する苦痛が駆け巡る。痛みを軽減することも、痛みのあまり意識を手放すことも、既に死した身では為し得ない。
「これが……報いか…………」
魂を『視る』ことができる目を持つその意味を、ハーデスは重々承知していた。
それは、命の重みを知るということ。
到底『生きている』とは思えない分かたれた命たちが、真なる人からすればおぞましいとすら思えた矮小なそれらが、どうしようもなく『生きて』いたことを、ハーデスは誰より理解していた。
同じだけの強さを持つ命だとは今をもってなお認めていないが、路傍の花にさえ魂は宿る。
無為に摘み取り贄として良い命など、この世界にはひとつとして存在しないのだ。
何千、何万、何億の生を犠牲とした罪は重い。
「当然だ。ならば――……」
ならば、その咎はすべて自分が背負うとしよう。
散って行った同志たちに、あのクリスタルの塔で眠る少年に、累が及ぶことのないように。
永劫に続く呵責のはじまりで、ハーデスはひとり、誰にともなく誓った。