chapter:5/Don’t look back.
波の音に揺られて、冒険者は目を覚ました。
潮の匂いが鼻腔に触れる。辺りを見回せば青く澄み渡った海と、遠く聳え立つ岩壁があった。コルシア島の――クラックシェル海岸だろうか。
「わたし、なんでこんなところに一人で……」
何か気がかりがあって海底に潜ったような覚えがあるものの、記憶は靄がかかったように曖昧だ。
「……?」
ひどく重い体を起こす。波打ち際に倒れていて、少し濡れてしまったからか肌寒さを感じた。
水面を覗き込めば、自身の服装がどこか、身に覚えのないものとなっている。ラベンダーの差し色が入った純白のドレスに、紫のカンパニュラの髪飾り、左手の薬指には大きな紫水晶の指輪――嫌いではないが特段好んでいるわけでもない色味で統一された、こだわりを感じる装いだ。
「――……! ……さん……!」
不意に、人の気配が近づいてくることを感知した。誰かの名前を叫ぶ、少女の声と共に。それはとても聞き覚えのある大切な、妹のように思っている子の声だと、冒険者が気づいたそのとき。
「本当に、ここにいた……やっと見つけた……!」
「リー、ン……わぷっ」
勢いよく飛びついてきた人影によって、再び体が砂浜へと沈んだ。いくら鍛錬を積んでいるとはいえ、リーンがまだ少女とはいえ、長く眠っていたような気だるい体で、ララフェルがヒューラン――ヒュム族を受け止めるのは無理がある。
「よ、よかった、無事で……っ、本当に、よかっ……く、うぅ、うわあああああん!」
今まで見たこともないほど感情を露わに、後からあとから涙を流し、リーンが泣いている。困った。患者を落ち着かせるのは職業柄慣れているが、泣く子を宥めるのはあまり得意ではない。どうしたものかと首を捻っていると、ぱたぱたとまたひとり、誰かの駆けてくる足音が聞こえた。
「あ、ガイア……どうしたの? あなたまでそんなに取り乱して」
真上から覗き込まれて、その人物が誰かを知る。リーンと対を為すような、闇色を纏った少女。無の大地の再生計画において知己となった、リーンの大切な友人だ。
いったい何事かと冒険者が問いかければ、ガイアはキッと眦を吊り上げる。
「どうしたの、じゃないわよ! あなた、三か月も行方不明になってたんだから!」
「さ、三か月? そんなに?」
「十日で戻ると言ったあなたが戻らないって妖精王を通じて原初世界から連絡があって、向こうも大混乱だし、リーンはずっと泣いてるし、時間が経てば経つほどクリスタリウム中お葬式みたいになって……ああもうっ! 大変だったの!」
ガイアの口から告げられた事の次第に、冒険者は目を瞬いた。シルクスの狭間から第一世界へと発ち、クリスタリウムに顔を出して――それから何をしていたかは記憶にないが、まさかそんなにも長い間、自分が行方を眩ませていたとは思わなかった。
これは原初世界に戻ってからもお叱りを受けそうだ。人前では気丈に振舞っているだろうけれど、アリゼーも泣いているかもしれない。
「ノルヴラント、でも、大々的に捜索をして、てっ、でも、でも、ひっ、さんかげつも、経って、みんな諦めててえっ」
「ヴェンモント造船所の人から、今朝連絡があったのよ。浜辺で倒れてるあなたを見つけたけど、何か見えない壁のようなものに阻まれて、救助しようにも近寄れないって。それで私たちが来たんだけど……」
しゃくりあげ、うまく言葉を紡げないリーンのその先を、ガイアが引き取って説明した。
「……あなたを慕ってるリーンと、アログリフだった私だから、許されたってことかしらね」
どういう意味だろうかと、またもや冒険者は首を捻る。たしかにガイアはアシエン・アログリフの転生体で、それこそが『エデン』を巡る攻防にて重要な意味を持ったが――それと浜辺に倒れていた冒険者を囲う障壁が、彼女たちを受け容れた因果関係とは何だろう。第一世界での旅路を胸中で振り返ってはみるも、皆目見当がつかない。しかし目を伏せ、心当たりについて思案する彼女は、それ以上を語る気はないようだった。
「何が……この三か月間、何があったんですか……?」
「ごめん……それが、よく覚えてないの。なんだか、長い夢を見ていたような気はするんだけど」
ようやく嗚咽が落ち着いてきたリーンの問いにも、冒険者は明確な答えを返せない。本当によく覚えていないのだ。以前受けたオンド族からの調査依頼の経過を気にしていたという、そこまでは思い出せた。海底を跋扈する大口の獣――何度討伐しても現れるというその脅威について。ソレが再び潮溜まりを脅かすことはなくなった、はずだ。
結果はおぼえている。過程がわからない。
ただ――そう。ひどくいとおしく、かなしい、幸福な夢を見ていたような寂寞だけが残っている。
「とても大切なひとに、大事なものを貰うユメ……」
カンパニュラの花飾りと、左手の薬指にある指輪、この身に纏ったドレスも。魔術的な防備としては意味を為さないものの、誰かの優しい想いを感じる。
そして形に残るモノ以上に、大切な何かを受け取った気がするのに――それが何なのか、それをくれたのが誰かも、まるきり覚えていないのだ。
◇ ◇ ◇
医療館で診てもらうべきだ、そうでなくとも数日はクリスタリウムに滞在して養生するべきだと心配する少女たちをなだめ、冒険者は急ぎ原初世界へと帰還することにした。リーンには特に心細い思いをさせてしまったことが気がかりではあったが、界渡りをできるのが自分ひとりである以上、暁の血盟の面々にもきちんと顔を見せ、安心して良いと伝えるのが先決だと思ったからだ。
フェオ=ウルを通じて連絡したとおり、シルクスの狭間の転送装置ではなく、レヴナンツトールのエーテライトへと直接テレポを行えば――見慣れた石造りの景色より先に、やわらかなクリーム色が視界いっぱいに広がった。
「ばかっ! 心配、したんだから……っ!」
「アリ、ゼー……く、くるし」
ぎゅうぎゅうと力の限りに、抱きしめられている。とても苦しくて、正直言って痛いくらいだ。
けれど冒険者には、大切な妹分の腕を振り解くことなどできなかった。昼夜を問わず人の行き交うこの街の只中、気高く強い彼女が人目も憚らず泣くなんて余程のことだ。その余程の事態が起きるほど心配をかけた、大切にされていることの痛みを、甘んじて受け入れるべきだと思ったから。
「アリゼー、アリゼー。気持ちはわかるが、それくらいにしておくんだ」
「そうだぞ。俺も気持ちはよーーくわかるが、英雄が潰れた餅みたいになってる……」
「ぷはっ……し、失礼な。ララフェルは餅じゃな……」
目を赤く腫らしたアルフィノとグ・ラハが見かねた様子で止めに入ってくれるまで、冒険者はアリゼーに抱きしめられたままでいた。
「……アルフィノとラハも、泣かせちゃったんだ。三人とも沢山心配かけて、ごめんね」
「あ、いや! 私はその、そう、目にゴミが入ってね!」
「お、俺も、あー、徹夜で本を読んでただけだぜ!」
「ちょっと、見苦しいわよ男子二人! このひとの無事がわかって、私よりずっっっと大号泣してたじゃない!」
アリゼーの暴露によって青年と少年は慌てふためき、しんみりとした空気が薄れていく。賑やかな彼らを見て、冒険者はやっと、人心地がついた。三か月という長きに渡る記憶の消失は、その間に得た何かが悪いものではなさそうでも、やはりどこか不安だったのだ。
ルヴェユール兄妹の間で二人と手を繋ぎ、先導するグ・ラハの背を追う。こちらの体調を気遣いゆっくりと歩いてくれる三人とともに、冒険者は酒場を抜け、石の家へと足を踏み入れた。
「はわわ、冒険者さん! お、おかえりなさいでっす!」
「! よかった、無事に戻ってこられたのね。みんな心配してたのよ」
「タタル、クルル、ただいま。心配させちゃってごめんね」
扉を開けて真っ先に声をかけてくれたのは、受付嬢と頼れる姉のような人だった。駆け寄ってきた彼女たちに左右から抱きつかれ、双子とも手を繋いだまま揉みくちゃになっている冒険者の前に、長身の影がふたつ、すっと地面に落ちる。
「お帰りを、我ら一同心待ちにしておりました……」
「連絡が取れない状況だった、というのは聞いたが……あまり一人で無茶をするなよ」
膝を折り、目線を合わせて話しかけてくれる二人は、かつて冒険者の身に起きたことを知っている。内々の場では今もこうして萎縮させないよう配慮してくれるのだ。こんな時だからいっそう、その気遣いが有り難かった。
「ウリエンジェ……サンクレッドも、ごめん。リーンとガイアも、不安にさせちゃった……また落ち着いたら、改めて顔を見せてくるね」
大切な仲間たちを心配させてしまったことが心苦しくて、心配してくれたことがうれしくて、彼らと共に歩んで行けるのならこの上ない僥倖だと思える。
けれど――まだ、あと一人。言葉を交わせていない。
名残惜しく思いながらも繋いだ手と抱擁を解いて、彼女のもとへと歩み寄った。
「……シュトラ、怒ってる、よね。ごめんなさい……」
壁際でひとり沈黙を保っていたヤ・シュトラは、冒険者の言葉に緩く首を振る。
「いいえ――いいえ、怒ってなんかいないわ。不安にさせてしまってごめんなさい。私も当然、心配はしたけど……そうじゃない。そうじゃ、ないのよ……」
光を失い、見えないものが視えるようになった彼女の、薄青色の瞳が――何かを『視て』いた。いかなる時も毅然とした態度の彼女が、こんなにも言葉を探し、惑いながら物を言うのは、決まって、仲間を傷つけまいとする時だ。
「あなた……そのエーテル……うっすらとだけど寄り添う魔力は、まさか『彼』の……エメトセルクの……?」
そうして、迷いながらもヤ・シュトラが口にした言葉を聞いて――すべてを、思い出した。
「え……?」
それは――……あのひとの、座の名前だ。
どうしてこんな大切なことを、忘れていたのだろう。
もう二度と会えるはずのなかった、大事なひと。理を捻じ曲げ、生者と死者の境界を飛び越えてまで、厄災の獣に噛み砕かれんとした命を助けてくれた。水底の街で想いを告げられて、何度も深く愛された。
「……そうだよ、シュトラ。わたし、テンペストで……あのひとと会ったの。あのひとを……愛してる……のに、」
左手の指輪にそっと触れる。確かにそこに、微弱ながらも愛した男の魔力を感じるのに。
この手で奪い討ち果たした彼らの悲願をすべて、おぼえているのに。
「あ……あ、いや、嫌ぁっ、わすれ、たくない……忘れたく、ないのに……! 名前……名前、が…………」
こうして思い出せたはず、だったのに。
薄らいで、消えていく。落ちていく。こぼれていく。
エオルゼアの英雄ではなく、アシエンの宿敵たる光の使徒ではなく、ただひとりの女が憶えていたかった、何もかも。
「っ駄目よ! その記憶の焼却……それ以上、無理に思い出そうとしては駄目! あなたの心が壊れてしまう!」
ヤ・シュトラの制止を振り払い、冒険者は手繰る。ごうごうと業火に灼かれて切れかけの糸が、たしかにひとつ繋がるよすがが、手の届かない場所へと消えてしまう前に。
「……ぁ…す、はーで、す……っハーデス、あ、ああ、ハーデス……!」
記憶の端、星降る終末の幻影の中にあった名前を叫ぶ。
泣き濡れた声で何度も、何度も繰り返すうち、自分が何を呼んでいたのかも、わからなくなって――……。
「だ、れ……あなたは、誰……なの……?」
ついに――思い出が燃え落ちる。
駆け寄り、崩折れた体を抱き留めてくれたアリゼーの腕の中で、冒険者は訳もわからぬまま涙を流した。
たしかに大切だった誰かがいたという、漠然とした認識だけが、心の奥底に残っている。
けれど、もう、そのひとの微笑った顔も。
名前を呼んでくれた声も。
まるで日に焼けた書物のように、思い出せなくなっていることに気づいた。