【R18】いつか、ティル・ナ・ノーグの汀に《web再録》 - 2/9

 

序 Golden Slumbers

 朝、目覚めると泣いていることがある。
 ひどくいとおしい、かなしい夢を見たからだ。
 ミスト・ヴィレッジの小高い丘に構えた住まいの寝室で、はらはらと頬を伝う涙をそのままに、冒険者は緩慢な動作で身を起こした。擦ると目元が腫れてしまうから、いっそ流れるままにしておいた方がいい。
「ばかなひと……」
 夢で会った誰かを詰る声は、掠れていた。乾燥だけのせいではなくひりつく喉を誤魔化すように、サイドボードの水差しからグラスへ水を注ぎ、少しずつ口に含み飲み下す。
 冒険者の夢に現れるのは、決まって、その命がエーテル界へと還った者たちだった。ただひとり自分を友と呼んでくれた騎士、アラミゴ解放軍を率いていた老兵、ドマという国に愛憎を抱き、すべてを忘れ去って童心のまま生まれ変わることも赦されず、二度殺された女――……。
 二十余年の――第七霊災以前の記憶がないため、正確にはほんの二、三年の――人生には過ぎるほど多くのひとを喪ってきたが、中でもこの半年ほど、頻繁に夢で『会う』相手がいる。
 ひととき旅路を共にした、オリジナルのアシエンの一人。
 対話し、歩み寄るという選択肢を示し、時に親身に手を差し伸べてくれさえして――結局は訣別しこの手で殺した、アシエン・エメトセルクそのひとだった。
 その、彼を。記憶の通りに斃すこともあれば、手を取り合うことのできた未来を夢想することもあった。
「……わたしを倒して悲願を遂げたんだから、もっと嬉しそうに笑えばいいのに」
 今日はそのいずれとも違う。冒険者が、光の戦士が敗北した『もしも』を夢に見た。
 あと一歩、力及ばず強大な闇へと呑まれる刹那、最後の力を振り絞り、水晶公の術式で喚ばれた異世界の英雄たちを彼らの在るべき場所へと逃がし――そうして、異形の爪に胸を貫かれた。ごふりと血を吐き崩折れた己の姿に慟哭する仲間たちを、守る余裕はなかった。
 致命傷を受けたのに、どこか、楽になったような心地がして、ひどく重たいまぶたをひらけば、はらはらと水滴が落ちてくる。どうあっても自分を殺そうとした男が、呆然と、涙を流している。
 ――わたしを悼んでくれているの……?
 ――だめだよ。その涙は、本当に大切だったひとたちのために、とっておかなきゃ……。
 空は優しい朝焼けの色をしていて、抱き上げられた腕の中は、場違いなほどあたたかくて。
 ああ、どちらが勝っても結局、この身に宿した無尽光は深い闇と相殺し祓われるのだと――確信にも似た思いと共に、冒険者は夢から覚めたのだった。
 勝利したことを悔いるなど、散って行った者たちへの侮辱でしかない。彼を、彼らを斃して得た未来を、後悔した日などなかった。
 ――だけど、本音を言っていいのなら。
 嬉しいと、思ってしまったのだ。
 あの淡く柔らかな光に満ちた朝焼け。
 全身全霊をもって殺し合ったあとだというのに、とても優しく美しかった、抗いがたい別離の光景。最後にはいずれにせよ、あの場所へと帰結する運命。
 ――わたしが……あなたを殺して、幸せになれなかったように。
 彼もまた、光の戦士を斃して手に入れた未来でうまく笑えずに終わるのだとしたら、空想に過ぎずとも嬉しかった。
「でも……やっぱりあなたは、嘘つきだね……。嗤って見届けてやるって、言ったくせに……」
 その空想を――至るかもしれなかった結末を懐き、冒険者は届くことのない思いを独りごちる。
 誰にも告げたことはないし、この先の生涯誰かに告げる予定もないけれど、あの男とは単にいっときの旅の同行者というだけではない関係があった。正確には、関係を持った、と言うべきだろう。
 すり、と指の腹で唇をなぞる。ここにも、もっと言えないようなところにも触れられて、冷たい指先から熱が点って。 溶け合ったのは体というよりも、命そのもの。
「ねえ、わたしに……生きてほしかった?」
 どうあれ生きていてほしいと、水底で『泡』が告げた言葉を憶う。あの言葉は誰の願いだったのか、都合の良いように推し量れるほど、思い上がってはいないつもりだ。
 けれど、ならば……どうして。
 どうして、クリスタルを託してくれた?
 どうして、その導きを寄る辺に、あの日自分を死地から助けてくれた?
 落涙は止まない。消えゆく刹那、覚えていろと言ったその声を、触れればあたたかかったてのひらの熱を、憑き物が落ちたような最期の笑みを――かつて星を灼いた終末の幻影もすべて、一瞬たりとも忘れたことなどない。
 どうすればあの別れが疵にならなかったのか、今も、これから先もずっと、わからないままで。

◇ ◇ ◇

「アリゼーは攻撃を粘りすぎ。実戦でも結構危ないって思うことが多いから、もっと自分を大事にしてくれるとわたしも嬉しいかな」
 レヴナンツトール、石の家にて。タタルの用意した茶と焼菓子を囲んだ暁の血盟の面々は、先刻までの戦闘訓練を振り返っていた。一通り意見を出し合った後、総括を求められた冒険者が講評を述べていく。
「わかったわ。なんだか、あなたにだけは言われたくないことを言われた気もするけど……」
不承不承といった様子で頷いたアリゼーの言葉に、周囲も神妙な面持ちで頷いた。思い当たる節がありすぎるため、冒険者は何も言い返せない。
 別段、捨て鉢で戦っているだとか、自殺願望があるというわけではないのだ。退き際ならば弁えている――弁えているからこそ、退けない局面があるというだけで。
 とはいえ心配してくれている彼らに、あれこれと言い返して揉めるつもりもない。冒険者は曖昧に笑み、話を本筋に戻すことにした。
「ラハは逆に身軽すぎるかな。前の得物は弓だったし、軽やかに動き回れるのも大事なことではあるけど」
「う……やっぱり? 言い訳にしかならないが、元々魔法はそれほど得意じゃないんだ……」
 ぺたりと耳を伏せ、暁の血盟の新人ことグ・ラハ・ティアは言う。耳や尻尾に現れる感情表現といい、彼は割と直情的なたちだと冒険者は思うが、この世界で『目覚めて』以降は慎重すぎるきらいがあるようだ。
「そうなの? 水晶公は規格外の大魔術を行使してたよね」
「水晶公にはクリスタルタワーの補助があったからな。こう気合いで、ぐわーっと!」
「こう気合いで、ぐわーっと」
 今度は一転、ぴこぴこと耳を動かし、尻尾もはためかせて力説する様子は、何だか眠りにつく以前よりも若返っているかのようで、冒険者はくすりと笑ってしまった。ヤ・シュトラは呆れたように肩をすくめているが、同じく成人のミコッテ族としては、感情の表現に思うところがあるのだろう。
「攻撃と回避、どちらに重きを置きすぎてもいけない……理解はしていても、なかなか儘ならぬものですからね」
 ルイボスティーからドマ茶へ、飲み換える二杯目を新しいカップに注ぎながらウリエンジェが言う。
「詠唱職はそのあたりのバランスが肝心だね」
 ドマ茶には専用の茶器を用意すべきだったなあ、と頭の片隅にメモをしつつ、冒険者は頷いた。
「すっかり教官役が板に付いてきたな」
 揶揄、ではなく、きょうだいの成長を見守る兄のような眼差しではあるが、賞賛の言葉をくれたサンクレッドはにやにやと笑っている。なんだかすこしだけ腹が立つので、リーンに会ったら告げ口してやろう。
「やめてよ、人に教えられるほど器用じゃないったら」
「あら、ご謙遜ね。あなたに教えを請いたい、と思わない戦士の方が、このエオルゼア中でも少ないのではなくて?」
「やーめーてー! シュトラまでそういうこと言うー!」
 最初は、それこそ暁の血盟に勧誘された頃も、本当に右も左もわからない駆け出しの冒険者だったのだ。場数を踏んで荒事には慣れたものの、それぞれの専門技術を認められ賢人位を得た彼らの有能さには到底及ばない。
 本当に、偶々光の加護を授けられただけの、どこにでもいるような人間なのだ――冒険者は、己をそう認識している。
 英雄と呼ばれることの意味を、その責務を理解できないような子どもではないが、その言葉に込められた畏敬の念を難なく受け止められるほど成熟してもいない。
 自分は特別になってしまっただけで、もともと特別な人間などではない。
 もしも――もしも誰もが羨むほどの特別な力が、奇跡みたいに本当の魔法を使えるだけの素養が自分にあれば。喪わずに済んだ人が、どれだけいたか――……。
(……だめね。そんな仮定もまた、彼らへの侮辱だとわかっているのに)
 頭を振り、暗澹と沈んでいきそうになる思考を振り払う。
「……さて、と。そろそろ出発するね」
 努めて明るく笑い、冒険者は出立を告げた。
「おや。夕食までいられないのかい?」
「うん、ごめんアルフィノ。この前第一世界に行った時、気になる話を聞いて……早めに対処した方がよさそうだったし、それに、」
 ――わたしにとっても、いい機会だから。
「それに……?」
「ううん、何でもない」
 椅子の上に膝立ちをし、めいっぱい手を伸ばして、真白の柔い髪を撫でてやる。子ども扱いしないでくれ、と白皙の頬に朱が差すも、アルフィノが嫌がってはいないことを冒険者は知っている。たぶん、この子は、暁の血盟の中でも少しだけ、他の仲間たちよりも特別だ。冤罪によってエオルゼアを追われ、多くのものを失い、イシュガルドを旅する中で成長していく姿を間近で見てきたというのもある。それから。
 ――実際、家族のようなものです。血こそ繋がってはおりませんが、私がつらいときには、必ずそばにいてくれました。
 ユールモアでアルフィノはそう言ってくれたが、冒険者も同じことを思っている。だからこそ思うのだ、同じ巴術士の系譜に連なる癒しの術を扱う者として。叶うならば、命の選択を迫られたり、己の技では癒せぬ傷に絶望するような経験はしないでほしい。地獄など知らずに済むのなら知らぬまま、健やかに生きてほしいと。
 エスティニアンあたりが知れば、きっと過保護だと笑われるだろうけれど。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「ありがとうクルル。何かあってもなくても、十日ほどでこちらに戻ってくるね」
 羨ましそうにアルフィノを見ていたグ・ラハとアリゼーを手招きし同じように頭を撫でてから、冒険者は席を立つ。わたわたと真っ赤になって慌てる二人の頬が緩んでいるので、自惚れではなかったようだ。
 仲間たちに手を振ると、石の家から酒場・セブンスヘブンへと繋がる扉に手を掛けた。第一世界にはエーテライト経由の転送魔法――テレポを用いて渡ることができるが、何となく初心に帰りたいような気持ちで、シルクスの狭間から星見の間へと渡ることにした。
 あの場で転移装置を使ったとて、今はもう、エーテル界に還った者たちの輝きの残滓に出会いはしないと知っている。
 それでもそうしたいと思ったのは、或いは何かの予感に導かれてのことだったのかもしれない。

◇ ◇ ◇

 ひと月ぶりに訪れたクリスタリウムは、優しく温かい街のまま、変わらずそこにあった。星見の間を守る衛兵に尋ねたところ、こちらでもちょうど前回、冒険者が訪れてから一か月が経過しているらしい。時差は安定しているようだ。
 一通り街の顔役や知人たちに挨拶を済ませ、マーケットで医薬品を補充し、ペンダント居住館に荷物を置く。ひとまずは最低限必要な装備や食料だけを持って、長丁場になりそうであれば一度着替えを取りに戻ろう。
 冒険者は窓辺に立ち、開いた窓から暮れなずむ空を見上げる。いつからかこの第一世界で自分を『視』ていたハシビロコウの姿は、今日は見当たらない。いったい誰の目なのか、わかりきっているようでわかりたくないことを考えながらテレポを詠唱し、次の瞬間には水底の街――アーモロート、マカレンサス広場に立っていた。
 滅びの際に縫い留められた街には、何度か訪れた時と少しも変わらぬ時間が流れている。
 主だった用事の所要時間は想定が難しいため、冒険者は先に私的な別件を済ませてしまうことにした。白色のシュラウドチェリーとカンパニュラ、ニメーヤリリーの花束を鞄から取り出し、広場の片隅にそっと置く。第一世界には存在しない種であるが、海の底ならば野生に返ったとしても生態系を乱すことはないだろう。
「花……何が好きか知らないから、勝手に選んじゃった」
 膝をつき、目を閉じて祈りを捧げる。まぶたの裏には、あの別離の、柔らかな朝焼けが情景を結ぶ。
 それに――わたしにとっても、いい機会だから。
 アルフィノに零してしまった言葉。その理由は、誰に見咎められることなく彼を悼む時間を作りたかったからだ。
 ノルヴラントが本当の夜を取り戻し、祝杯をあげる人々の中で、ひとり『敵』を偲び水を差すような真似はできなかった。共にこの街を、終末の再現を、最後の死闘を駆け抜けた仲間たちならば冒険者の想いに理解を示してはくれるだろうが、それは理解であって共感ではない。そうこうしている内にエリディブスの計略が動き出し、決戦の後、迫りくる仲間の命の刻限に追い立てられるようにして、原初世界へと帰還した。変わらず第一世界と行き来ができる冒険者だけは、無の大地の調査をやり遂げるために直ぐ引き返しては来たが、戦いの連続で、とても私用の時間など確保はできなかった。
 ――どうか、その眠りが安らかなものでありますように。
 ――永く静かな夢の中では、すべての枷が取り払われて、あなたが憂いなく笑っていられますように。
 そして――いつか転生して、また……。
「っ……いけない。会いたいのは、わたしだけなのに」
 本当は考えるまでもなくわかっている。
 気にかけてくれたのは、この魂の持ち主のため。そして独り残され、擦り切れても歩みつづけたエリディブスを解放するためだ。優しく、誠実で、自らの責務に忠実なひとだったから、だから手を貸してくれたに過ぎない。
 きっと、それだけではない特別な情を、ほんの少しだけは抱いていてくれたことを知っているけれど――それは大義の前にはあまりにも些細で、不要で、唾棄すべき感情だ。冒険者もまた、自らの想いに揺らぐことなく彼を討った。
 故人の願いを都合の良いように解釈するなど、それこそ、その生への冒涜だろう。
「生きていてほしかったのは、わたしじゃない……そんなのはじめから、わかってたんだから……」
 悼むためだけではない涙が、頬を伝う。
 俯き、蹲り、嗚咽を押し殺して、次第に息の仕方がわからなくなっていく。こうして彼の死に向き合えば割り切れると、そう思っていたのに――心に深く沈んだ悲しみは、まだ当分、拭えそうになかった。
 どれくらいの間、そうやって悲嘆に暮れていただろう。
 知らないはずなのに安心する、この街に無数に蠢くまぼろしの命たちとは少しだけ違う気配が、近づいてきた。
「おや……また会えたね。懐かしく、新しいキミ」
「……ヒュトロダエウス」
 ララフェルが見上げれば首が痛くなるほど大きなそのひとが、できる限り目線を近くしようと屈んでくれる。何だか微笑ましくて、沈んでいた気持ちがわずかに和らいだ。
「彼を悼んでくれていたんだね。ありがとう」
「悼んでいた、とは言えないかも。わたし、結局自分が悲しくて、寂しくて、自分のために泣いていただけで……」
 きっと遥かな昔に、とても大切な友人だったひと――その記憶を自分は持ち得ないことを歯がゆく思う。けれど今更、自分の人生を捨てて『元の誰か』に取って代わられることを良しとできるほど、冒険者は無欲ではなかった。
 誰かと出会い、歓びを分かち合ったこと。大切なのに守れなかったこと。心から慕って、寄り添いたいと願えども手を取り合えなかったこと。いつからか『英雄』と呼ばれ歩んできた道と因果のすべてが、自分だけの痛みであり祝福だ。
 ――リーンがミンフィリアにならなかったように、わたしも『アゼム』にはなれない。
「そうかな? そもそも、死者を思うという行為自体が生きている人間のためのものだけど……ワタシにはキミの祈りが、とても誠実なものだと思えたよ」
 冒険者の祈りを、身勝手なだけのものではないと、ヒュトロダエウスは赦してくれた。それが彼自身の気持ちでも、この街を創ったもういない誰かの願いでも、どちらでも構わなかった。
「あの……あのね、ヒュトロダエウス」
「何だい?」
 だから、どうあれ生きていてほしいと、いつかこの人が告げた言葉の真意も問わないことにする。この優しい『友人』を困らせたくはないし、どちらであったとしても、生を望まれていることはこの上ない僥倖だ。
「ありがとう。あなたに会えて、本当によかった」
 代わりに、心からの感謝を告げる。冒険者自身の思いと、かつてこの人と親しかったはずの、旧い自分の気持ちとを込めて。
「……! ワタシの、方こそ……」
 頭に直接響く、知らないのに知っている言語。声というよりも音と言うべきそれが、かすかに揺らぐ。涙に詰まってうまく言葉を発せないときのような、悲しくも優しい響きだ。
「キミの旅路に、幸いがあることを願っているよ。たとえ弱くとも――長く燃える希望の灯と共に」
 言祝ぎを残して踵を返し、あたたかく懐かしいひとは去っていく。その背が霞と消え見えなくなるまで見送って、冒険者もまた、目的地へ向け歩きだした。
 確かにこのアーモロートの街並みは、壮麗で美しい。辺りを見回しながら、あのひとが言ったことを思い出す。ここを訪れるのは火急の用件がある時ばかりで、ゆっくりと見て回る暇もなかったが、改めて眺めてみれば色々と、感じることもあった。
 暗い水底に閉ざされ、沈んだ色彩に見える建物たちも――陽の光の下では綺麗な白磁に映るだろう、とか。脳裏に思い描いたその風景は、どこか見覚えがある。
「シャーレアン……あれ? でも――」
 己が口走った地名に、冒険者は首を傾げた。
「……なんでわたし、今のをシャーレアンだと思ったの?」
 かの国の人々が撤収した跡地に築かれたイディルシャイアには馴染みがあるが、遠い洋上に浮かぶ本国には足を踏み入れたことすらなかった。
 ――否、昔に訪れた可能性がないとは言い切れない。そも自分は、第七霊災以前の記憶が欠落している。これまで昔を思い出すことは一度もなかったが、この魂の元の持ち主が残したものに触れて、何かが揺り起こされたのだろうか。
「途方もないことを考えても仕方ないか……今は目の前の問題に、集中しなきゃ」
 創造機関・アナイダアカデミア。此処が今回、第一世界を訪れた主たる理由だ。学術都市の中枢とも呼ぶべき建造物の重厚な扉が、冒険者の存在を感知し開いていく。
 厳粛で、静謐な空気の中を、微弱な毒と海水と、煙の匂いが漂ってくる。
「アナイダアカデミアへの、再度の見学をご希望ですか? もちろん構いませんよ」
 アカデミアの職員は、今日もまた同じ科白を口にした。この街のヒトはそういう存在だ。そう創られて同じ一日を繰り返す。規則性に縛られない言動を取るのは、先ほどまで共にいたヒュトロダエウスだけだった。
「ありがとう。でも……今日はやめておきます」
 職員の案内に礼と断りを告げ、冒険者は踵を返す。
 内部からは、依然として魔なるものの気配を感じる。一度最深部まで辿り着き、跋扈する様々な難敵をすべて討伐したにも関わらず、だ。
 根本的な原因があるとすれば、それを取り除かぬ限り、この場所は混乱に包まれたままの危険地帯だ。
 冒険者はフライングマウントを呼び出し、その背に乗って飛翔する。
『原因』ならば、既に当たりが付いていた。凶暴で何でも食い荒らす、見たことのないような獣。困り果てたオンド族からの調査依頼を受け、アーモロートで情報を収集し、辿り着いた先がかの学術機関だった。
 アカデミアから脱走したとされる大口の獣・アルケオタニア。実際に旧い歴史においてもその事故が起きたのか――事故が事実として、逃げ出した獣を捕えることに成功したのか、獣は行方を晦ませたまま災厄を振り撒いたのか。
「……けど、たぶん」
 仮説が正しいのならば、現在テンペストの平和を脅かしているアルケオタニアは、この泡沫のアーモロートのアナイダアカデミアから逃げ出した幻想体だ。情報を共有したナッツクランに、何度も討伐報告が上がっている――そう、何度もだ。そのアルケオタニアは必ず、決まった周期でアカデミアの檻を破り、深海で獲物を食い荒らし暴れ回る。遺構に積み重ねたまぼろしの理想郷に、エメトセルクの遺した魔力が宿るかぎり。
 それは一秒後かもしれないし、明日かもしれないし、百年以上先のことかもしれない。何となく、そう、何となく、自分が生を終えるまでの向こう数十年はあの街が在るのだろうと、冒険者は思う。悲願を打ち砕かれ散っていった者たちのせめてもの矜持――或いはすべてを、見届けるため。
 しかしアルケオタニアを沈黙させる有効な手立てが見つからなければ、泡沫の海底都市を消滅させるほかになくなるだろう。個人としては受け入れがたい選択肢だが、第一世界の今を生きる者たちの命とそんな感傷は、天秤に掛けるまでもないことだ。
 彼らの軌跡を悼みこそすれど、そのために足を止めてはならない。この星の歴史における勝者としての責任を、果たしつづけると誓ったのだから。
 水底の街を離れ一定の高度を超えると、空気に潮の匂いが混ざりだす。潮溜まりとアーモロートのちょうど中間あたり、岸壁に埋もれた天楼の遺構へと冒険者は降り立った。
 アルケオタニアが姿を現すトリガーが、この土地自体にある可能性を確認するためだ。もしもそうだとしたら、それを取り除けるのなら或いは――まぼろしの街を今、この手で消し去らずとも問題を解決できるかもしれない。何もないのならそのときは、喪失を受け容れるしかない。
 緻密に構築された大魔法を解体するのも、凶暴な幻獣を召喚しつづける原因を取り除くのも、いずれにせよ自分ひとりの手には余る。ベーク=ラグやウヌクアルハイ、サイエラ、賞金稼ぎの面々にも相談をして、それでも解決できないようなら一度原初世界に持ち帰る必要があるだろう。
 目を閉じ、ざらついた大理石に手を当てて、この場に揺蕩う魔力の流れを探る。エーテル学の専門家には一歩及ばないが、何らかの異常や作為を検知するくらいはできる。
「これは……見事なまでに、何もない……。だとしたら潮溜まりの生命力に誘引されている……? 紅血珊瑚の香りが決定打として、出現位置がこの塔の遺構に固定されている理由には説明が付かないけれど。だとしたら……」
 だとしたら、やはりあの幻影のアーモロートを消滅させるほかにない。
 一抹の寂寞をおぼえながら、調査結果を記録するために手帳を取り出そうとしたとき――
 ドンッ!
 高質量体が墜落したような衝撃と轟音が響き、大地が大きく揺れた。
「リリィベル!」
 冒険者は直感的にその場から飛び退き、迅速詠唱でフェアリーを召喚する。ごう、と吹き抜ける熱風。一秒前まで立っていた場所を、高エネルギー体が焼き払っていく。
 巨大な影が上空から急降下し、地響きが鳴る。
 土煙の中を振り仰げば、暗褐色の、歪な棘と角を生やした大口の獣――アルケオタニアがそこに立っていた。
「嘘、でしょ……この塔自体にトリガーがないなら、いったい何に――……」
 紅血珊瑚の仕掛けは、今は施されていない。他に獣をこの座標に誘引する確かな餌などあるはずが――と巡らせた思考は、数瞬で答えを叩き出した。
「――あるじゃない。分かたれる前のヒトには遠く及ばずとも、非魔道士より遥かに魔力保有量が多い人間。わたしっていう格好の餌が……!」
 せめてガンブレイカーの装備に着替えていれば、と冒険者は舌を打つ。そしてこの絶望的な状況を嘆きながらも、持てるすべての手段でバリアを張り、衝撃に備えた。無駄かもしれないが、何もせず犬死するよりマシだ。
 獣が唸りをあげる。――高密度エーテルの塊が、灼熱の温度をもって爆ぜた。
「ぅあ、づ、ああぁああああッ!」
 想像を凌駕する熱と、地が抉れ飛散した無数の瓦礫。
 襲い来た激痛に、冒険者は絶叫する。
 戦線を離脱するための時間を稼げればいい、という悪足掻きだったが、見通しが甘すぎたと言うほかない。
 着弾の衝撃で殆どすべてのバリアが消し飛び、リリィベルの姿も掻き消えた。彼女が残してくれた癒しの魔法と、あと数秒で霧散する野戦治癒の陣だけが、一瞬で死地へと叩き落された命を繋ぎ留めている。
「あ……ぁ、わた……し……」
 迫り来る死。目の前が赤く明滅する。古代獣が再び、大口を開けてこちらを狙い定める。
「っ……いや、だ、死にたく……ない……ッ!」
 煤けた視界の片隅、大事に仕舞っていたはずの橙色のクリスタルが転げ落ちている。うまく動かない腕を伸ばして、指先がその輝きに触れて。
 ――ごめんね、ハーデス……。
 覚えていると約束したのに、瞬きほどの歳月しか生きられなくて。
 胸の内だけでそっと、呟く。
 もしもこんな道半ばでの終わりを見届けてくれたなら、その名を呼んで縋ってしまったことを、叱ってほしい――そう願い緩やかに目を閉じたその時。

「まったく……二度も人を死の淵から叩き起こすとは……人使いが荒いにも程があるぞ、英雄様」

 夢でしか会えない人の、声が聞こえた。