chapter:1/いつか、ティル・ナ・ノーグの汀に
殺せ、と頭の中で声が響く。
白日のクリスタリウム。足を踏み出せども地に付いた感覚はなく、ぐらりと体が傾いでいく。
急激に体内エーテルが乱れたことにより魔術行使もままならず、エメトセルクは石畳へと倒れ伏した。
これは紛れもなく、己の慢心が招いた失態だ。長く光を浴びすぎたのだ。英雄一行を見極めるため帯同した、ラケティカ大森林の旅路で欲を出した。終末の光景を描いた壁画の他に、キタンナ神影洞にはまだ何かあるのではないかと――あれを見た英雄が『何か』を思い出すのではないかと期待し、無尽光の下を歩いた時間は、許容値を越えていた。
この世界は光に満ちている。イル・メグ、ラケティカ大森林、そして真っ先に光が祓われた此処レイクランド。大罪喰いの有する霊極性エーテルをかの英雄が身の内に取り込んだところで、世界そのものが失った均衡はそう簡単に戻りはしない。第十三世界がヴォイドの闇に落ちると同時に傾き出したそれは、百年前ミトロンとアログリフの失敗によって決定的なものとなり、この第一世界には光が溢れ返った。
根城を水底に構えたところで、無尽光を避けて行動したとて、ノルヴラントの大地それ自体が、星極性の力を纏うアシエンにとっては毒なのだ。肉体の死や存在の消失へこそ至りはしないが――ゾディアークからの『揺り戻し』は、強烈な精神干渉となって理性を蝕む。
殺せ、と。頭の中で声が響く。何を見定める必要があるというのか、所詮はなりそこない、最後には真なる世界を取り戻すための贄とするのだ――あんな矮小な命にこれ以上の期待をして失望するくらいなら、はじめから――……。
「……だいじょうぶ?」
鈴の音のように凛と、その声は、暗澹と惑溺する思考を打ち払った。
「ええと……体調、悪いの? 憑依した肉体でも、そういうことってあるんだ……」
まがいものに救われた、という事実に苛立ちが募る。緩慢な動作でもってエメトセルクが顔を上げれば、そこには今まさに脳裏で殺意を向けていた相手がいた。エオルゼアの英雄、光の戦士――そのような呼称の到底似合わぬララフェル族の、少女と見紛う幼さの女。しかし確かに、何度もエメトセルク達アシエンの計画に水を差してきた厄介な存在だ。
「っ……これはこれは、無様に這いつくばる敵に態々声をかけるとは、英雄様の慈悲深さには恐れ入るね」
問いかけに皮肉を返せば、きょとりと女は目を瞬く。
「今は休戦中? みたいなものだし……知らない仲じゃないのに、目の前で苦しまれるのは寝覚めが悪いから」
そして善性の体現が如き笑みを浮かべ、純白のドレスローブの裾を引きずるのも厭わず石畳に膝をつき、英雄はエメトセルクへと日傘を差し掛けた。
まるで不調の原因を察しているかのような振舞いに、まさかと、エメトセルクは目を瞠り――。
「これは推測なんだけど……やっぱりこの世界って、アシエンにとっては居づらかったりする?」
彼女はその期待に、応えてみせた。
弱味に勘付かれたという焦りと、その魂の持ち主に相応しい慧眼だという歓喜。相反する感情の高まりに、拍動が速くなっていくような錯覚をする。
「何故……そう思った」
逸る気持ちを抑え、努めて冷静に問う。日傘の作り出した陰の下で微笑む面差しに、似ても似つかない、太陽そのものの如き笑顔が重なった。
「自分の持つ属性とは真逆の極性に傾いた世界とか、普通に居心地悪そうだなって。戦場育ちとはいえ、これでも『軍学者』の端くれだもの。シャーレアンの賢人なんて呼ばれてるみんなには敵わないけど……エーテルに対する感受性は鋭敏な方だと思うよ、わたし」
言われてみれば確かに、ラケティカ大森林で視ていた英雄の戦いぶりは、エーテルや極性の何たるかを本能的に理解している者のそれだった。息をするように当たり前に、最適化された魔力操作をしてみせる――天賦の才。
やはり同じなのだと、信頼して然るべきだと理性が唆す。
そんなはずがない、計画に支障を来す前に殺してしまえと狂気が囁く。
「それで、どうするの?」
「どう、とは何をだ」
目の前の女が、在りし日の陽だまりのようにも、極光の化け物のようにも見える。狂い落ちてその喉笛を引き裂いてしまえば楽になれると、ひどく暴力的な思考が再び、エメトセルクの精神を蝕んでいた。
「ずっとここに倒れてるわけにもいかないんじゃない? 人目もあるし……今日は晴天で日差しも強いし。あなたの不調は、医療館で診てもらって治るものなの?」
「いや……」
そんな事情を露ほども知らぬ女は、未だ真剣に、エメトセルクを助ける方策を探しているようだ。
「わたしの仲間に……は、相談しない方がいいよね」
「……まあ、できれば避けたいところではある」
「どこか安全な場所に転移するとかは?」
「転移自体はできないことはないが、最悪、次元の狭間に落ちるだろうな……だが」
落ちたところで、死にはしない。この肉体は捨て去る羽目になるだろうが、また別の器に憑依すればいいだけのことである。
「じゃあ――はい」
「何だ、その手は……」
だから捨て置けと、そう告げようとしたのに、英雄はエメトセルクの眼前にその小さな手を差し出した。小さな――本当に小さな手だ。魔導書を手繰り、時に大剣を振りかざし、幾千幾万の命を導き或いは屠ってきたとは思えぬ程の。
「手を繋いでいれば迷わないでしょう? わたしが目になるから、一緒に行こう?」
眩暈がする。息の仕方を忘れてしまいそうだった。権謀術数の只中、鉄火場の最前線を渡り歩いてきたはずの女が、あまりにも警戒心がなさすぎる。
その手を引いて、善意で分け与えられたエーテルを悪用して。誰の助けも来ない場所――たとえば、アシエンたちが追いやられた月の虚だとか――へと連れ去り誅殺することなど容易いのに、英雄は少しも、エメトセルクにそのように害される可能性を考えてもいないのだ。
「ハァ……私の負けだ」
「なにが?」
「お前は知らなくていいことだよ……」
こんな底抜けのお人好し相手に、害意を向けるなど馬鹿らしい。いちいち疑うのも時間の無駄だ。
もう一度、盛大に溜め息を吐いてから、エメトセルクは英雄の手を取った。清廉な魔力が流れ込む。実際に触れてみて改めて、とても小さいのだと実感する。
転移魔法を行使するために少しだけ力を込めると、彼女は僅かに顔を顰めた。気がかりではあるものの魔法の発動を中断するには遅く、降り立つべき座標を手繰った瞬間――エメトセルクの脳裏を、映像が過ぎった。
+++
在りし日のアーモロートによく似た街並み。
錬金薬が整然と並ぶ研究室。
焦った様子で何かを言い募るララフェル族の少女は、胸に白いクリスタルを抱いている。
『ルイゾワ様、お願いです! どうかわたしも、わたしの力も、この星の――』
+++
「エメトセルク……?」
「……!」
泡のように、過去視と思しき何かが弾ける。
英雄がいたく心配そうに、床に座り込んだエメトセルクを見下ろしている。チカチカと明滅する視界に映るのは、ペンダント居住館の彼女の居室だろう。何度か都市の主には無断で立ち入った空き部屋と、概ね内装は同じである。
「だ、大丈夫? わたしのナビが悪かったかな……今ので余計に具合悪くなっちゃった……?」
「ああ……いや、酔いやすい状態だっただけだ……」
元々不調だったところに、サポートがあったとはいえ転移魔法を使い、その上意図せぬ形で誰かの記憶を視たのだ。如何にアシエンといえど、肉体に憑依したままそのような無理筋を通せば倒れもする。
「とりあえず、ベッド使って! 座っても寝ても好きにしてくれていいから……あと、あと、お水持ってくるね」
虚勢を張る気力もなく、ぱたぱたと忙しなく走り回る彼女の厚意を素直に受け止めたエメトセルクは、ララフェル族には大きすぎるであろうベッドに寝転がった。汎用性と言えば聞こえはいいが、あまりに不釣り合いが過ぎる。
体を横たえたとはいえ、こんな場所で眠気が訪れるはずもない。手持ち無沙汰で脳裏を過るのは、先ほど『視た』あの記憶だ。
ルイゾワ・ルヴェユールと話していたあの少女は、やはり目の前のこの女なのか。だとしたら何故、一介の冒険者から成り上がり、救世詩盟の流れを汲む組織に改めて加入する必要があった。
まさかカルテノーから忽然と姿を消した当時の『光の戦士』が、別人として舞い戻ったと言うのか――……?
「お前……冒険者になる以前は、何をしていた?」
「んと、んーと……え? どうしたの急に」
「なに、世間話だよ。深い意味はないさ……」
薬品棚を漁り、ああでもない、こうでもないと右往左往している女に声をかける。経歴を秘匿しているのか、或いは。
「そう言われても……覚えてないから、何とも……」
「覚えていない、だと?」
或いは記憶を失っているのかと推察し尋ねた結果、どうやら後者であるらしい。
「うん。第七霊災以前の記憶がないの、わたし。気づいたらキャリッジに乗って、ウルダハに向かっていて……一般常識と基本的な魔力操作以外、何も覚えてなかったみたい。自分の名前も」
それは、悪いことをした――とは思わないが、記憶を失った原因の一端は間違いなく自分たちアシエンである。
「あ! だ、大丈夫だよ? それで恨んで寝首を掻いたりとかしないから……!」
何と言葉を返すべきかと答えあぐねる内、この件に関して言えば被害者であるはずの女に、気を遣わせてしまった。
ともあれ、当人が覚えていないことをこれ以上詮索したところで、徒労に終わるだけだろう。忘れたことすら忘れた記憶を無理やり抉じ開ける術も無いではないが、未だエメトセルクには――あの魂を毀損する覚悟が、できずにいた。
「ちゃんと診てあげられたらよかったんだけど、前例がないからどうしていいか……」
水差しとグラスを盆に乗せて戻ってきた英雄は眉尻を下げ、気落ちした様子である。
「……休める場所を提供してくれただけで充分だ。あまりお人好しが過ぎると付け込まれるぞ、英雄様」
「うう……でも、苦しんでる人を自分の腕では治せないのは、やっぱり嫌だよ。わたしにできること、ないかな?」
患者を救えないことに苦しむありようは、根っからの癒し手と言うべきか。
あまりにもまばゆく、その優しさが痛いばかりで――少しだけ魔が差した。傷つけたかったわけではなく、おそらくは、困らせたかったのだと思う。
「エーテルの譲渡、或いは交感……」
「?」
「体内エーテルのバランスが正常な者、若しくは異なる極性に傾いた者との間で魔力を交わらせることだ」
エメトセルクが口走った『それ』に、英雄は心当たりがない様子だ。無理もない。分かたれたヒトの営みに混じって生きてきた中でエメトセルクがその術を彼らに教えることはなかったし、暁の血盟――シャーレアンの源流たるヴェーネス派は、理性と知性を重んじるアーモロートの市民の中でも、特に潔癖な者たちが集っていた。
否――降ろした神の特性に拠って、『そう』在らざるを得なかった。あの者達が、エメトセルクの提案しようとしているエーテル交感術に関する記録を遺していたとして、一部の指導者のみが閲覧可能な禁書扱いだろう。
「……つい先程、お前もやっていたぞ」
「え、そうなの?」
転移魔法の道標となるため、体の一部を接触させることでエーテルを分け与える。先刻この女がやってみせたのも、簡易的で『健全』な同種の術だ。合点がいかない様子で首を傾げる英雄は、無意識で魔力を操作していたらしい。エーテルに対する感受性が鋭敏だと、自負するだけのことはある。
「あれ、でも……霊極性に傾いた第一世界にいることで具合が悪くなってるんでしょう? 今更だけど、ハイデリンの加護を受けて、大罪喰いの光まで取り込んだわたしが、傍にいるだけでもつらいんじゃ……?」
正確には霊極性そのものの影響ではなく、ゾディアークの抗体反応のようなものだが、エメトセルクは彼女の誤認を特に訂正はしないことにした。
ただでさえ――多少、この女を評価に値する人材だと思い始めているとしても――なりそこないに弱った姿を見られている現状は不本意極まりないのだ。これ以上、正確な情報を開示してやる義理もない。
「いいや、今のお前はまだ、取り込んだ光を制御できているからな。環境エーテルの苛烈さとは訳が違う。それにエーテルの交感は外ではなく、内から行う――手を繋ぐ程度でもできることはできるが、最も効率が良いのは」
「効率が良いのは……? きゃっ」
細い腕を掴めば、女は小さく悲鳴をあげる。
彼女が盆ごと取り落した水差しとグラスが床に転がるのも構わず、エメトセルクはそのいとけない体を己の胸元へと抱き込んだ。認めるのは癪だが、こうして腕に抱いているだけでも充分に、緩やかに滲み出る清廉な魔力が苦痛を癒し、和らげていく。
「快楽を伴う接触による精神の感応、及び体液を通じた魔力の摂取……平たく言えば性交渉だな」
このような、俗物めいた物言いをしたのはいつ以来だっただろう。ひゅっと、喉を引き攣らせるようにして女が息を呑む音を聞いて、少しばかり溜飲が下がるような思いがした。
そうだ――それでいい、光の使徒。
確かに手を取り合える可能性を提示はしたが、いくらなんでもこの英雄は、アシエンに対する猜疑心がなさすぎる。男に対する警戒心も。
これはエメトセルク自身の、ではなく一般的な美醜の感覚における見解だが。種族特有の幼気さと愛らしさに成人相応の化粧っ気を併せ持ち、大胆にデコルテと大腿を露出したドレスローブを纏った癒し手の女が、献身的に看病をしてくれる――などという状況は、のぼせあがった愚かな男が、妙な気を起こしても不思議ではないのだ。そして嘆かわしいことに、手を出す側に絶対的な否があるという当たり前の前提を、理解できない輩は多い。
「なんてな……冗談だよ。私がお前を抱いたら、それは暴力だろう」
悪辣な冗談を言ったのは、英雄が驚き、困惑し、少しくらいはエメトセルクを警戒してくれた方が接しやすいからだ。
無条件で信用され、掛け値のない善意を向けられては、今後何かと動きづらい。『男』として食指が動かないと言えば嘘になるが、ララフェル族の中でも特に小さい部類の彼女に体格差を度外視して無体を働くような残虐性を、エメトセルクは持ち合わせてはいなかった。
だから、たちの悪い冗談で終わるはずだったのだ――なのに。
「いいよ――わ、たし、処女じゃないもの……」
かたかたと震え、頑是ない指先でエメトセルクの胸に縋りながら、女はそう口にした。
「へいき、だよ。ガレアン人、じゃなかったけど。大きい種族の男の人に、されたこと……ある……」
精彩を欠いた声音、青褪めた面持ち。デューンフォーク固有の淡く濁った虹彩は常時よりいっそう焦点を失っていて、言葉の端々からも――その性交に彼女の同意はなかったのだということが、十二分に伝わってきた。
「英雄も、服を剥いでしまえばただの女だって……」
汚名を漱ぎ、再び足を踏み入れることの叶った砂都の片隅で、その陰惨な暴力は牙を剥いた。数人がかりで押さえつけられ、無理やり抉じ開けられた小さな秘所は指の一本だけで破瓜をした。性器を挿入された時は死んだと思った――青白い顔で淡々と、女は語る。
「もう、いい。やめろ……」
聞くに耐えなかった。この者が、なりそこないどもの醜悪な振る舞いによって毀損されたというその事実を。
「すごくあつくて、いたくて、わたし……気づいたらそいつらを、殺して――」
「もういい、《――》!」
――アゼムという座の名でなく、かの者の真名でもなく、エメトセルクは気づけば英雄の名を呼んでいた。抱き込んでいた体を解放し、その肩にブランケットを掛けてやる。
分かたれたヒトに対する軽蔑の念と同時に、許せないと、ただそんな感情が沸き上がった。その魂の持ち主を、ではなく、この女を傷つける者など許せないと――まるで。
「悪かった……軽率だった。エーテルの交感など不要だ。もう二度とお前に性を匂わせる話はしないし、許可なく私から体に触れることもしないと誓おう」
まるで大切に思う者を害された時のような、あってはならない青い感情が。
「どうして、そんなに……優しいの……?」
こぼれ落ちそうな瞳に、薄く張った水の膜が揺れている。
今にも泣き出しそうな顔で、しかし決して涙は零さないままで、英雄はエメトセルクに問うた。
「優しいんじゃない。当たり前のことだ。人として当たり前のことを、言っているだけだ」
そうだ――怒りの理由など、それだけだ。取るに足らない、到底生きているとは呼べない命だとしても、その尊厳を踏み躙られていい理由などない。だからこれは同情だ。決して特別な感情などではなく、当たり前の道徳心と、人類を在るべき場所へ還す者としての責務なのだ。
そう、エメトセルクは理解している。計略のため犠牲にした、分かたれた命たちの――運命に淘汰され、塵と消え、ある者は凌辱され、またある者は飢えて死んだ数え切れぬ命たちの、報いを受けることをわかっている。為すべき正義を為したいつかの未来、この身は間違いなく磔にされ、業火に焼かれつづけるだろう。
わかっている。そんなことはもうずっと昔、同胞たちをゾディアークに贄と捧げた時からわかっているのだ。
「……でも。わたし」
暫しの沈黙の後、おもむろに英雄が口を開く。
「やっぱり……エメトセルクが苦しんでるの、黙って見ているなんてできないよ」
そうしてブランケットを脱ぎ捨て、自らエメトセルクの胸へと飛び込んできた。
「なっ……お、お前……!」
目を瞠る。想定していたのとは違う形だが、確かにエメトセルクは彼女の信用を失ったはずだ。なのに何故、まだ助けたいなどと思える。自身の心的外傷を抉るような、リスクの高い献身をもって。
「……あのなあ。私は間違いなくお前が恐怖を感じる類の、体格が大きい種族の男だぞ」
「だって……あなたはわたしを、いずれ違えた道の先で殺すかもしれないけど……絶対に辱めたりしない。違う?」
未だ血色が戻りきってはいない面差しのまま、目を逸らすことなく、毅然として、女は尚も言い募る。
「……わたしの痛みに、誠実さを返してくれたあなただから。されてもいい……ううん、触れて、教えてほしいと思った。痛くて怖いだけのことじゃないって。それであなたの『治療』にもなるなら……わたしにとってそれは、意味のあることだから」
取るに足らない命であるはずの目の前の女に己が翻弄されていることを、エメトセルクは認めざるを得なかった。
「ハァー……まったく……。自棄を起こしているわけではないな?」
そして確実に――突き放すつもりがいっそう、絆されはじめているということも。
「自棄になってたら、もっと悪い相手を選ぶよ」
「~~っ……わかった。だが、条件は付けさせてもらうぞ」
「条件……?」
治療という口実がなくとも触れたいと、願ってしまっている。性愛や肉欲の対象ではなかった旧知の友と、同じ魂を有するこの女に。
「もう無理だ、怖い、耐えられない……と思ったら『――』と言え」
「それは、なに? 何かの……誰かの、名前?」
「さてな。お前がそれを知る日が来るかもしれないし、知らずに終わるかも、だ。ともかく、お前がその言葉を口にしたら、私はそれ以上何もしない。どんな状況であってもな」
遥か昔、真なる人の世界にも性交渉は存在した。精神の結び付きが重要視される社会であったために、盛んに行う者がいなかっただけで。エメトセルクにも当たり前に経験があったし、当たり前に肉欲があった。いつか為す混沌、そして遂げる統合のために、分かたれたヒトとも幾度となく交わってきた。妻とした女と、或いは献上された一夜の花と。
そのいずれとも――ちがう。この女は違う。
「ええと……ちゃんとするときって、どうすればいいのかな……自分で脱いだ方がいいの?」
不安げに問うてくる彼女の痛ましさに、エメトセルクは胃の腑がひりつくような不快感をおぼえる。こんなにも清冽なエーテルの持ち主を、汚した者たちが許せなかった。何度も期待しては裏切られた『なりそこない』の中には見込みのある者もいたが、一時の快楽のために平気で他者を踏み躙る獣じみた連中も後を絶たない。この英雄の才覚や心根に期待を寄せるほどに、彼女を害した愚か者どもが、不完全な命たちへの失望を増幅させていく。
「いいや――何もしなくていい。力を抜いて、そのまま私に身を委ねていろ」
「う、ん……わかった……」
女は頷き、エメトセルクの胸元に頬を擦り寄せてくる。
――誰がそこまで無防備になれと言った。などと窘めれば萎縮させてしまいそうで、その頭をそっと撫でるに留めた。
「んう……ぁ、」
子猫のように縋り付いてくる手のうちの片方を捕まえ、グローブと肌の隙間に指を捩じ込めば、擽ったそうな吐息が漏れる。そのままくるくると、掌の浅瀬を指の腹で撫でてやる。一度は血色を失った頬が、花開くようにじわりと朱く色づいていく。
「それにしても……小さいな、本当に」
「あなたの、手が……おおきす、ぎ、ふ、ぅあっ」
「覚えておけ。これからお前を抱く男の手だ」
性行為にトラウマがあるのならもっと時間が掛かるだろうと思っていたが、想定を越えて反応が良い。艶めいた呼吸をする女の体からは淡い虹色のエーテルが滲み出して、ソレは小さな両の手のグローブを取り去り、手首から指先の隅々までを撫で尽くした頃には、エメトセルクのエーテルバランスの乱れによる失調を、半分ほどは癒してしまった。
「あ……え、なに、ふわふわ、する……」
とろけだした幼いかんばせも、声も――少女のように可憐で、娼婦のように淫蕩だった。理性など、まるで歯が立たないくらいに。虚ろの心臓が、脈拍を速めたと錯覚する程に。
「魔性だな……」
「……?」
首を傾げる女の体を反転させ、強く抱き寄せる。ちょうど自身の手が触れたみぞおちよりも、更に上か――とすべて収めた場合の想像を嘆息と共に振り払い、コルセットのリボンを解いた。そうそう簡単に割れるような作りではないだろうが念のため、ガーターベルトに固定された薬品アンプルも今のうちに外しておく。
「は、あ……ぁ……んん、ふ……っ」
たっぷりとフリルをあしらった真白の布の上から、慎ましやかな部類にしては発育の良い胸を揉む。片手でも充分に届いてしまうところを両手で、丁寧に。しかし次第に、服の内側で下着がずれていくのまでは構う余裕がなく、ついにエメトセルクの指は、ある一点を掠めてしまった。
「あっ! あ、だめえ、そこっ……!」
布越しにかすかな突起の感触。まだ性急すぎるかと避けていたのに、偶発的に起きたそこへの刺激で、女はびくりと震え、内腿を擦り合わせた。
「ひ、だめ、だめなの、こんなっ、あぁっ」
「ほう……何が、どう、だめなんだ?」
「はず、かし……ずれちゃって、る、服こすれるの、きもちい、あんっ」
恥ずかしい、と女が身を捩れば捩るほど、エメトセルクの手に胸を押し付けているような格好になる。ここが感じるのなら話は早い。彼女にとって暴力でしかない強引さで事を進めさえしなければ、もう過度の遠慮は要らなさそうだ。
擦れて固く隆起していく乳首を撫でて、抓んで、爪の先で引っ掻いて――繰り返せば形がはっきりとわかるくらいに熟していく。
「はあ、はっ……うう……わ、わたし、こんなにエッチな女だったんだ……」
すっかり息を荒くし頬を紅潮させた女は、またも無自覚に魔性じみたことを言う。
「悪いことではないだろう。少なくとも私にとっては、お前が乱れてくれた方がエーテルを交感しやすい……」
己が獣性を呼び覚まさぬよう平静を装い、エメトセルクは彼女を宥め、尖った耳の先に軽く口づけた。
「ひゃうんっ」
「ああ、失礼。耳も敏感だったか――だが」
乳首を捏ねるのを左手に任せ、右手はぽってりとして見えて意外と筋肉質な腹を撫で、鼠径をなぞり、きゅっと閉じられた股の間へとねじ込む。ショートパンツとショーツの上からでは正確な場所はわからないが、この分だと大まかな刺激だけでも届いてしまうだろう。
「そろそろ、こちらにも触れるぞ」
「っあ、ひう、ふ、ぅうう~~」
ところがいざ触れてみれば、蜜壺を覆う布はしとどに濡れていた。濡れて張り付いて、盛り上がった形が指先に伝わる。さすがに布三枚を隔てて弄るのは煩わしく、エメトセルクは一瞬迷った後、自らの手を覆う白いグローブを魔術で消し去った。左手の分はまだ残しておいてもよかったが、いずれどちらも外すことになるのなら、一度で済ませてしまった方が効率が良い。
「こんなに濡らして……ああ、ここか。おかげですぐに見つかった」
「んぁあっ!」
奥ゆかしく潜んだ陰核を探り当てる。胸をまさぐったままそちらも押し潰し、捏ね回すようにして刺激してやれば、びくん、と大げさなほど、腕の中に閉じ込めた体が跳ねる。
「あぅ、あん、ら、め、ぐりぐりらめ、わた、ひ、もうっ」
限界を訴える声は甘ったるく呂律も曖昧で、毅然と敵に立ち向かい魔法を詠唱する時の凛々しさとは程遠い。きゅううと収縮する膣の震えが恥丘へと這わせた指に伝わって、まだその時ではないと言うのに、入りたいと気持ちが逸る。
「いいぞ、そら……いつでもイけ」
英雄も服を剥いでしまえば――などとのたまった下衆どもの言い分を理解してしまいそうになって、エメトセルクは自己嫌悪に歯噛みした。
そもこれは、ただの女、などではなく極上の――……。
「や、ら、やっ、こわい…イくの、はじめて、でっ、あ、あぁあ、ひンっ、~~……!」
声にならない悲鳴と共に、女は果てる。
過去の望まぬ性交は論外としても、自慰ですら達したことがないのだと口走るものだから、仄暗い悦びをおぼえずにはいられない。
「は、あ……はあっ……あぁ……っ」
初めて経験した絶頂の余韻に喘ぐ英雄の、こめかみにキスを落とし頬を撫でる。まろく柔い、弾力を持った頬のあどけなさと、見せつけられた痴態とのアンバランスさに眩暈がする。下着ごとショートパンツをずり下げ、片脚を引き抜いて抱え上げれば、しとどに濡れそぼった割れ目から、糸引く愛液が滴った。
「ひゃんっ! や、やだっ、何して……!」
膣口に指を滑らせ、掬いあげた蜜を舐め取る。とろりと濁る体液に凝縮されたエーテルの濃度は、大気に溶け込むように滲み出ていたものとは比べ物にならない。ほんのひとすくいが喉に落ちただけで、エメトセルクの不調は、すっかり快癒してしまった。
「体液を通じた魔力の摂取、と言っただろう?」
「そ……だけど、だめ! 掬って、な、舐めるなんてっ!」
だから、ここから先は――これ以上彼女に触れるならば、治療という名目を逸脱する。ただ交わりたいがためにそうすることになるのだと、理解した上でエメトセルクは、女の幼気な体を仰向けに押し倒した。
「ふむ……なら、直接いただくとしようか」
「へ……ぁ、や…っ、もっとだめっ、そんなのされたら、わたし――」
むっちりとした大腿を大きく左右に開かせ、びしょ濡れの秘所を剥き出しにする。顔を近づければエメトセルクが何をしようとしているか女は理解したようで、恍惚とした表情で形ばかりの制止をされた。
「あぁんっ! あ、ぁ、あ~~っ……!」
そこに取り決めた言葉はなかったから、容赦なく吸い付いて、溢れ出した汁を啜る。先ほどまでの行為でどれだけ感じたのか、今与えている刺激によって際限なく快感を得ているのか、後からあとから半透明の滴は溢れだす。
「ヘンに、なっひゃ、あぁっ、あ、やら、やああっ!」
舐め回して、分泌を促すように陰唇や会陰を撫でて、と繰り返す内に、嬌声も涙混じりに濡れていく。包皮がめくれてぴんと勃ち上がった花芯を吸い上げると、いよいよすすり泣くような様相になった。
「ぁひっ、そぇ、ら、めッ、イっちゃ、あううっ」
努めて彼女に存在を悟らせないよう立ち回ったが、かりそめの肉体のペニスは、服の下で痛いほど張り詰めている。早く、その蕩けきった膣に突き立てたいと叫ぶ獣じみた欲望を抑え込むために、ゾディアークの精神干渉に対抗するのと同等の気力と理性が必要だった。
こんなにも小さな、扱いを間違えれば簡単に壊れてしまいそうな体を、快楽を教え込んだ傍から抱くような乱暴な真似をしたくない。それはエメトセルクの矜持であり、信念であり――何度も繰り返し己に言い聞かせねば危ういほど、女は淫らで可憐だった。
「ふ……だめ、と言う割に、さっきから自分で乳首を弄っているだろう?」
「え――あ、ぇ……え、」
指摘してやれば、とろんと蕩けていた彼女の瞳が驚愕の色に染まる。エメトセルクが蜜壺に口淫を施しはじめてから程なくして、女は自ら胸を露出させ、固く尖った乳嘴を抓んで捏ね回していた。
おそらくは、無意識のうちに。
先刻目の前の男に与えられたオーガズムを忘れられずに。
「う、そ、わたし……やだあ……っ」
焦った様子で手を離して、ささやかながらも形良く膨らんだ胸があらわになる。
「どうした? もうしないのか?」
「できない、よ、も……恥ずかし、からあっ、でも、でも……っ」
羞恥に赤らんで涙を流す彼女の表情も、薄紅色に色づきせつなげな突起も、愛撫を待ち望んでいるのは明らかだ。
「……きもち、いいの、欲しいの……っ! だ、だから、おねがい、乳首もシて……っ」
だがそれを彼女の口から言わせたい、と、熱に浮かされた思考が頭を支配して。その通りになったことに、あさましくも歓喜している。
――これは、溺れるなと言う方が無理だろう。
脚を大きく開かせたままで、腰を高く抱え上げる。期待に震え、てらてらと涎を垂らす花肉に唇を寄せ、エメトセルクは再び、女を性感の渦へと追い立て始めた。
「脚は自分で、押さえていろよ――……ん、」
「う、ん……んあっ、ふぁあ、はうっ……」
内腿や臀部に伝った愛液を舐め取りながら、触れるか触れないかのギリギリで乳首を弾く。焦らして、焦らしていよいよ煮詰まった面持ちで彼女が懇願を口にしそうになったところで、先回りして強い刺激を与えてやる。
「あーッ、あン、そえすき、」
ひくつく膣に呼応してふるえるクリトリスを食み、いたいけな乳頭を指の腹で押し潰せば、いよいよ堪らないと、女は身も世もなく喘ぎ、はしたない言葉までも口走った。
「っ……こうやって、同時に捏ねるのが、か?」
「ん、いいっ、いいのっ、すき、ちくびすき……っ」
「ハ――まさか、そちらの方が『好い』とはな……」
初めて真っ当なセックスをしたというのに、素質がありすぎる――或いは相性が良すぎるのか。
「はあアっ、あ、ぁ、あえ、あぁあ~~っ!」
腰をくねらせ、大きく体を震わせて昇り詰めると同時に、女は気を失ってしまったようだ。興が乗ったとはいえやりすぎたかと自嘲する。
そのあどけない寝顔を見つめながら、頭を撫でようと手を伸ばした途端、エメトセルクの意識もまた混濁しはじめる。
「っぐ……精神感応、か、何故……!」
何故、真なる人であるはずの自分が、強制的な精神の同調を拒めないのか。その答えに見当も付かぬまま、誰かの過去へと視点は導かれ――……。
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砂の大地に、土煙と炎が爆ぜる。石造りの建物と天幕とを、忙しなく人々が行き交っている。
ふと見上げれば、砂煙の中にラールガー星導教のシンボルがちらつく。どうやら、アラミゴ解放軍の拠点が何者か――ガレマール帝国軍の、襲撃を受けた直後であるらしい。
『あ……ああ……痛い、痛い……』
虫の息、といった様子の兵士たちの呻き声が、そこかしこから聞こえてくる。そのうちのひとつの傍らに見知った魂の輝きを見つけて、エメトセルクはそちらへと足を向けた。
この記憶へとエメトセルクを誘った光の使徒――ララフェル族の女が、その小さな手には使い込まれた魔導書を携え、力なく横たわる兵士の傍らに膝を付いている。いつもと違うことがあるとすれば、術式を補助する役目を担う妖精が、彼女のもとに喚び出されてはいないことか。
『痛、い……暁の……英雄、どうか……』
それも当然だろう。その兵士の残った片腕には、黒色のタグが付けられているのだから。もう手の施しようがないと判断を下され、死にゆくさだめの命。戦場では儘ある光景だ。
縋り付かれローブが血で汚れても、女はそれを厭うことなく、致命傷に喘ぐ者の、額の汗を拭ってやる。
『大丈夫。いま薬を使ったから、すぐに痛くなくなります』
そうして――小さく、魔法に秀でた人間でなければ聞き取れない音で詠唱をした。額に当てたてのひらから微弱に光った薄紫のエーテルが兵士を包み込み、途端にその者の呼吸が和らいでいく。
『ああ……帰り、たい、ただ、帰りたかった……の、に』
『ええ――大丈夫。帰れるから、今は安心して眠って』
あの魔法は確か、と思い至るより先に、安らかな表情を浮かべた兵士が事切れる。
『おやすみなさい。どうか、幸せな夢を』
魂の安らぎを祈る彼女の微笑みを、天使或いは聖女と、衆愚は讃えるだろう。
しかし違う。軍医の領分を越えて助けようと足掻くでなく、定めだからと見捨てるでなく、閑やかに介錯をする姿は英雄のソレだった。あのゼノスと渡り合ってみせる戦闘時の獣性などよりも、彼女が英雄たる本質はそこにある。
涙ひとつ零すことなく、女は立ち上がり歩き出す。
まだ助かる者を救うために。
もはや助からない者を、手にかけてでも苦しみから解放するために。
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ぐらりと脳を揺さぶられるような不快感と共に、過去視から覚める。辺りは砂塵吹き荒ぶアラミゴではなく、ペンダント居住館の、英雄の居室だ。記憶の中で凛と揺るがず戦場に立っていた女は、情事の跡が色濃く残るベッドに、しどけなく肢体を投げ出している。
眠る彼女の頬を指先で撫で、エメトセルクはハ、と嘆息をした。視せられた過去が過去だけに、あれほど昂ぶっていた肉体はすっかり落ち着いてしまっていた。みっともなく自慰をする羽目にならず済んだ、という点で己のプライドは守られたが、行き場を失った情動は燻って、次の機会を待ち望んでいる。
「ああ――本当に、」
――愛おしい。
こんなものはヒトではないと切り捨てるにはあまりにも気高く、不器用で、己の責務に誠実であろうとするその姿が。
――生きていてほしい。
どうかその魂も、肉体も尊厳も、脅かされ踏み躙られることなどなく。
弱くとも末永く、健やかに。
「厭になる……」
この腕に我が子を抱いた時と同じ、情が。
それ以上にたちの悪い、焦がれるような思慕が。
どろりと胸に落ちて、沈殿していく――……。