chapter:1/彼女の黎明
子どもを産むなどということは想像するだに反吐が出る。ベラトリックス・ブラックは君臨する側の人間だった。誰よりも気高く立ち支配する強者であり、ただ守られているだけの脆弱な存在などではない。――そう、ナルシッサのような、他人の人生に寄り添うためだけに在る人形とは違うのだ。
末の妹に対してベラトリックスが欠片も興味を抱けなかったことを、父も母もすぐ下の妹も初めこそ嘆きはしたが、そのうちに何も言わなくなった。頑なに過ぎる長姉の矯正を諦めたとも言う。星の名を懐いていないというだけで他人を無価値だと断じる己をベラトリックス自身も異様だと知覚してはいたものの、それを罪だとは思えずにいた。
要らないものは棄てる。当然の帰結、この世の真理だ。
ナルシッサはいずれ、他の純血の家へと嫁いでいく。高貴なる由緒正しきブラック家に居続ける路などない。そんなことのためにひとり仲間はずれの名前を貰った妹に、憐憫すら抱かなかった。退屈な人生。退屈な未来。背負う名にふさわしくない親戚たち。つまらないものばかりだと自身を取り巻く殆どすべてを軽蔑していたベラトリックスにとって、家族への情などというものは最も理解しがたい類の感情であった。
高貴なる由緒正しきブラック家――そう。ベラトリックスが愛していたのは、家族でも親戚でもなく家そのものだ。純血の王として頂点に立つブラック家というまぼろし。肖像画の中で時折鋭い眼光、不純物を排斥し研ぎ澄まされたその刃こそが尽きることのない安寧なのだ。
永く続く伝統の内へと融け込んでいく錯覚が、恍惚をもたらす。その多幸感に酔いしれて、ずっと繭の中にいたい。誇らしい星の名を与えられたとしても、純血の家系に生まれた以上婚姻は逃れられぬ運命だとベラトリックスも理解していた。理解はしていたのだ。
ただ血を遺すための礎であれと望まれることも、ブラックの姓を捨てさせられることも、自分には無縁の悪夢に過ぎないと現実から目を背けていただけで。
闇の帝王に心からの忠誠を誓いすべてを捧げると決めるまでは、ブラック家の本家筋や本家に近い人間だけがベラトリックスに畏れを抱かせる存在だった。その中でもヴァルブルガは格別だ。うつくしい夜の色を宿す髪を緩く編み、細い腕の中に赤子を抱えたその女性が、ベラトリックスにとって最上の憧れを形成したひとだった。
「よく来てくれたわね、ベラ」
「は、はい。ヴァルブルガ様……」
「そんなに畏らなくていいといつも言っているでしょう。貴女には期待しているのよ」
「恐縮です」
実の両親にさえここまで圧倒されることなどない。名と命と生きる術を与えられた恩こそあるものの、本当にそれだけ。父や母はベラトリックスにとって畏敬の対象ではなかった。
当代当主の妻として、そして一児の母としての在り方を得た今も尚、ヴァルブルガのうつくしさや気品は損なわれない。彼女は翳ることなく、星を統べる女王のままだ。
一族の誰もが待ち望んだ本家の長男へ目通りが叶ったのは、その子が生まれてから一か月近く後の冬の日だった。誕生してまもなくは母子ともに生命が危ぶまれるほど健康状態が芳しくなく、幾人もの癒師と占星術師の立ち会いの下面会謝絶となっていたためだ。永く旧くつづいた純血の家系には、そういった事態が多く見られた。高貴なる血を遺すには途方もなく稀有な奇跡が必要なのだと言い聞かされてきた、その裏に潜むおぞましい真実から、ベラトリックスは目を背けつづけている。近親婚の弊害、などというもの。そんんなのは下等な人間たちの論説と教義だ。
「シリウスよ」
凛と、ヴァルブルガの声が腕の中で眠るその子どもの名前を紡ぐ。二十一の一等星の中で最も明るい星の名だ。オリオン座を探すにはまずシリウスを探せと言われるほどの輝きを、この小さな生命が宿していると言うのか。
「いずれ貴女を、この子の妻にと考えているわ」
「――え。わた、し。わたしが……ですか」
「貴女ほど優秀な人間は聖二十八一族中を探してもそういないでしょう。婚姻は星に選ばれた者同士の運命であるべきよ。……不服かしら」
「いえ、そんなこと。勿体ないお言葉です、ヴァルブルガ様」
今はまだ脆弱で、容易に壊すことができてしまいそうな赤子が、その名にふさわしく輝く日など来るのだろうか。尽きぬ懐疑に首を傾げたくなったベラトリックスの内心を見透かしたかのように、ヴァルブルガはその子の伴侶になれと口にした。
まるで少女の戯れのような口ぶりだったが、彼女の言葉ならば殆ど命令も同然だ。本家と分家の序列は明確に過ぎる。明日には”こちら側”の血縁中に、早すぎる婚約の話は知れ渡っているだろう。
わたしが――支配される?
憧れのひとに期待されているのだと思えば、嬉しい。しかしそれ以上に、なぜ自分が“誰かの支えとなるために生きる”枠組みに押し込められなければならないのかという憤りが、まぶたの裏側を真っ赤に染め上げた。
悔しい――口惜しい。妻であれ、女であれと望まれることへの嫌悪感を、そう簡単に拭い去れるはずもない。それがたとえ次代当主の妻という名誉ある立場だとしても、自分こそが強者として支配する側に立ちたいベラトリックスには、絶望的に適性がなかった。きっと――後に“そう”見えたのは己が彼女を盲信するがゆえで、実際は何が正解かもわからぬ泥沼で苦しんでいたのだと聞かされることになるが――ヴァルブルガのように、妻として母としても強く美しく在ることなどできるはずがない。
「……ただ、わたしよりも余程、」
「あら。シリウスが目を覚ましたわ」
「あ……」
――なのに。
緩やかに開かれていく瞼から覗く、幼い従弟の瞳を目の当たりにした瞬間「負けた」と思った。玲瓏なパールグレー。夜の闇に燦然と輝き、一族を率いていくのにふさわしい色だ。
何を馬鹿なことをと窘める自分がいる。眼を見ただけでそんなことが判るものかと諭してくる。けれど赤子の眼に捕えられた瞬間、言い知れぬ魔力が確かに鋭く心臓を射抜いていった。
――わたしは、負ける。
いつかその瞳が宿す知性に屈服させられる日が来るのだと予感した。その予感はおぞましくもあるが、少しばかりの希望を孕んでいる。“そうすること”でこの仄暗い繭に閉ざされた世界を永遠にできるのならば、誰かの下にかしずくのも悪くないかもしれないと初めて思えた。
「ねえ、ベラ。この子も貴女がいいみたいよ」
「まさか……」
「手に触れてみなさい。ほら、大丈夫だから」
そっと差し出した指を握る小さな手は、やはり簡単に捻り潰せそうなほど脆いものだ。どうか落ちないで、永久に潰えないで、わたしを完膚なきまでに打ち負かしてみせなさいと胸の内で呟く。そうなった時には喜んで、この高貴なる家系を存続させるための礎となろう。
懐いた期待を最悪の形で裏切られる未来がいずれ訪れることなど、今のベラトリックスは知る由もなかった。