chapter:3/駒鳥はかえらない
生まれた時から定められていた生き方に不満を抱くという経験が、ナルシッサにはなかった。数々の柵に縛られ重く澱んだ屈託が渦巻き、ナルシッサ自身を必要とすることなど決してない生家に居続けるのは居心地が悪かったからだ。両親にも二人の姉にも親愛の情を抱いてはいたが、根本的な役割が違う。
燦然と輝き君臨する者であれと望まれた姉たちと違い、自身には星にまつわる名が与えられなかった。はじめから、他家との縁を繋ぎ血を残すためだけに許された存在。長姉のベラトリックスならばそんな屈辱には耐えられないと憤怒しそうなものだが、何かを背負いたいわけでも頂点に立ちたいわけでもないナルシッサにとっては、自分に課せられた役目の方が余程ありがたく思えたのだった。
それに――と、向かい合って座る青年の面差しに目を細める。
「今日は随分とご機嫌だな、ナルシッサ」
「そうかしら?」
「何かいいことでもあったのかい」
「ふふ。……さあ、どうかしらね。当ててみせて、ルシウス」
年端も行かぬ頃に家同士が決めた婚約者。ルシウス・マルフォイは弛まぬ研鑽によってその知性を裏打ちされた気高いひとで、“家族”には不器用ながらも優しさを注ぐ得難いひとだった。自身に欠片も興味を示さない長姉はともかく、二番目の姉のアンドロメダとの関係は――彼女が教えに背き出奔するまでは――決して悪くはなかった。しかしナルシッサが家族という言葉から想起するのは、幼馴染として日々を過ごし、実の姉たちよりも余程きょうだいらしく共に在った将来の夫の方なのだ。
薔薇が仄かに薫る温室に穏やかな日差しが注ぎ、幸福な時間が過ぎていく。時折しもべ妖精たちが空になったカップに紅茶を注ぐだけで、互いの気配以外に過敏になることもない。傍にいるために言葉を交わし続ける必要もなく、沈黙でさえも愛おしかった。きっと晴れて正式な夫婦となった後も、こんなふうに寄り添い生きていくことができるだろう。
「ん? あれは……」
「どうしたの。何か見つけた?」
「きみの姉君の梟だな」
不意にルシウスが空を見上げる。何を見たのかとその視線の先を辿れば、確かによく見慣れた梟が二人のいる温室を目指し飛行していた。
「あら、本当だわ」
ナルシッサが席を立ち温室の扉を開けてやると、グレーと黒がまだらに混ざり合った羽根を優雅に広げたまま、彼女は一通の手紙を落とし去っていく。気安さや人懐っこさが微塵も垣間見えないあたり、主人であるベラトリックスによく似ていた。
「何かしら……ルシウスじゃなくて、わたしに用事?」
落とされた手紙の宛名は、確かにナルシッサ・ブラック様と書かれている。乱れた走り書きで、封蝋も見当たらない。
珍しいこともあるものだ。二人がいるところへベラトリックスの梟が運んでくるのは、彼女が夫の――ロドルファス・レストレンジの名代としてルシウスに宛てた正式な書面だけだった。
一体何事だろうかと首を傾げながら、ナルシッサは白い封筒を開く。
わたしの部屋、ノックは五回。
カサリと音を立て手のひらに落ちた羊皮紙には、たったそれだけが記されていた。
「姉君は何と?」
「……ちょっと、ね。家のことで、わたしの手が必要みたい」
一行で完結した手紙から読み取れる情報は、姉は彼女の部屋でナルシッサを待っていて、規定の合図以外で扉を開けるつもりはないということだ。私的な約束に同行しようと申し出るような人ではないからルシウスに手紙を見せても問題はなかっただろうが、ナルシッサは文面について秘密にしておくことを選んだ。
どんな事情があるにせよベラトリックス・レストレンジという人が困窮し、助けを求めているというのなら、おいそれと他人に口外してよいものではないはずだから。
「姉様を手伝ってくるわ。ごめんなさいね、ルシウス。お茶の途中だったのに……」
「構わないさ。次のデートは薔薇園を散策しようか。また私から連絡するよ」
「ええ、楽しみにしているわね」
別れの挨拶は蝶の羽ばたきのように軽く頬を、鼻先を触れ合わせる。
唇へのキスは婚礼のその日まで行わない――それが近すぎる距離で友愛と親愛と恋情のすべてを育んできた、ルシウスとナルシッサの約束だった。
そういえば、部屋というのはどちらなのだろう。
深く考える間もなくレストレンジ邸の前へと姿現しを行なってから、ナルシッサはその疑問を抱いた。実家にもまだ姉の部屋は残っている。許可なく入室することもできず、時折風を通す程度の管理をされている部屋が。こちらではないのならば、二度手間の分を待たせてしまうことになる。
「お待ちしておりました」
しかし、どうやらそれは杞憂だったらしい。ドアベルの呼び出しに応じ現れた使用人によれば、ベラトリックスはこの屋敷にいるとのことだ。館の主であるロドルファスは留守のようで、ナルシッサは少しだけ安堵した。――姉の夫、あの男は苦手だ。嗜虐に悦楽を見出すような人間性を隠しもしないから。ベラトリックスにもそういった嗜好が見え隠れすることはあったが、姉は、家族であったひとだ。
いま自分が大切に思う世界を侵そうとしない限り、多少の残虐性ごときで彼女を見限ることはない。たとえ姉が、ナルシッサに昔から何の興味も抱けないひとだとしてもだ。
コン、コンと音を立て、彼女の部屋の扉を五回ノックする。
「姉さま、わたしよ。遅くなってごめんなさい」
「……ナルシッサ? いいわ、入って」
入室の許可を出す声は、聞いたこともない弱々しさだった。
ランタンも燭台も、灯りを何ひとつ点していない室内に足を踏み入れる。言い知れぬ不安に駆られながらも扉を閉めれば、むせ返るほどの花の匂いがナルシッサの肺を満たした。
花――ひらかれた花の、梔子の落ちていく匂い。
「ねえ、さま……? いったい何があったの」
部屋の隅、ベッドに腰掛ける人影は虚ろな目でナルシッサを見上げてくる。常ならば苛烈なまでの矜持を宿すアンバーの瞳が翳りを帯びている。「はしたないわ」と声に出してしまいそうなのを、ナルシッサはすんでのところで呑み込んだ。近くまで歩みを進めてわかったが、下着姿のベラトリックスの体には、ところどころに人の手が触れた痕跡がある。このひとが、されるがままだったというのなら――相手はロドルファスではないはずだ。
不貞、という言葉が首の後ろにビリビリと痛みを刻む。最愛の婚約者とのくちづけすら未だ交わしていないナルシッサには、あまりにも目の前の光景は目の毒だった。
「シリウスが出て行ったわ」
「――え」
「今ごろはもう、家系図の名を消されているでしょうね。馬鹿な男……」
ベラトリックスが口にしたのは、疎遠になって久しい本家の長男の名前だ。まさかシリウスが姉をこんな目に?
……それこそまさかだ、とナルシッサはすぐにその選択肢を否定した。シリウスが”表向き”ブラック家にとって異質だったのは周知の事実だ。その実誰よりも酷薄で愛憎の区別が顕著な少年ではあったが、家の掲げる理想に相応しい人間を軒並み嫌悪していたこともまた事実。そんな男がベラトリックスに触れて征服したいと望むだろうか。――尤も、姉は或いは、彼にならば支配されることを許したかもしれなかったが。
「シシー……きて」
では誰がと考えを巡らせるより先に、ベラトリックスは緩慢な動作でナルシッサへと手を伸ばした。ドクンと、心臓が跳ねる。はじめて己の愛称を呼ぶ声の甘ったるさ。厳格で酷薄でいつだって毅然と立っていたあのひとが、こんな声を出せるものなのか。
白い腕が首に絡みつく。その刹那、左腕の内側に髑髏と蛇のおどろおどろしい印がちらりと覗いて、ナルシッサは答えを得たような気がした。確かに彼の人ならば、ベラトリックスはすべてを差し出してしまうだろう。梔子の薫りは、息もできないほど強くなっている。
「ベラ姉さまはわたしのこと、嫌いなんだと思ってた」
「……たった今好きになったわ。わたしにはもう、おまえしかいないの」
帰りたい、とベラトリックスは嘆いた。
まるで泣いているようだと、思ったよりずっと細い彼女の肩を抱き寄せながらナルシッサは息を吐く。帰りたいというのはきっと、ロドルファスと離婚し実家に戻れば果たされるような、生易しい願いではない。滅びの一途を辿っていくブラック家というユメ。本家の長男が出奔するという前代未聞の不祥事により先行きを更に暗く濁らせた家系の、在りし日の栄華。もう果たされることはないその永遠に回帰し、自らも永遠となることこそが、ベラトリックスを救うのだろう。
もはや喪うことでしか、救われる道などない御伽噺だ。
「おまえだけなのよ、シシー。ねえ、おねがい……」
縋りつく彼女の声が、理性や道徳を壊していく。確かに血を分けた姉妹であるそのひとの、柔らかく脆い部分が己にのみさらけ出されていることに、ナルシッサはえもいわれぬ愉悦を感じていた。だって、このひとはだめだったのだ。渇望してやまないシリウスに捨てられて、あれほど心酔している強大な魔法使いに体を捧げても満たされることはなかった。
その空虚を埋める術を、今まで興味もなかった末の妹にもとめてしまう危うさ。選ばれたよろこびは仄暗い支配欲に変わっていく。
自分の中にもこんな感情があったなんて。目を眇め、ナルシッサは誘惑を甘受した。
「ええ……わかったわ、姉さま。わたしがいるから大丈夫、姉さまは大丈夫よ」
ひび割れてかさついた感触と、彼女が噛み締めて滲んだのであろう血と、自身のルージュとが混ざり合って濁った味を生み出す。気づけば誰より大切なひととの約束も破り、自ら唇を重ねていた。
いつかは終わる茶番と知りながら、刹那の安寧を与えようとするのは残酷だろうか。手の届く世界、本当に大切なものだけを守って、ささやかな幸せを享受し生きていければよかったナルシッサにとって、それは初めての感覚だった。
その寂しさに寄り添いたい。わたしは”わたしたち”にはなれないけれど、強く気高いひとの脆い部分を一心に預けられる存在として選ばれるのはひどく心地が良い――……。
「姉さん。貴女を、愛してる……」
かわいそうなひとだと、ナルシッサは姉を憐れんだ。
いずれこの夢が覚めるとき、繋いだ手を解き置き去りにして、優しく殺してあげるのは自分にしか務まらない役目だという確信とともに。