星の墓標、彼女の黎明《web再録》 - 4/8

chapter:2/終幕、或いは訣別と情動

 ロドルファス・レストレンジに贈られた指輪は、ただただ空虚を突き付けるだけの存在としてベラトリックスの薬指を縛った。夫は凡庸な男だ。純血の魔法族こそ貴ぶべきという思想以外に共感をおぼえる点もない、ただのつまらない男だった。
 無論、ロドルファスとて帝王の配下として相応しい残忍さも狡猾さも持ち合わせてはいる。ただそれがベラトリックスの夢見た輝きとは程遠く、決して得難いようなものではなく――多くの死喰い人とさして変わらないというだけの話だ。寝たのは義務のようにたった一度きり。愛もなく情もなく、薄っぺらい同胞としての意識だけに拠った交合は、もう味わいたくはない苦痛だけをもたらした。きっとあの男の子を生むことなどないだろう。
 思い出せばじくりと脚の引き攣れるような記憶を、頭を振って追い払う。
 霧の深い深夜だった。夏だというのに底冷えがする。
 コツリ、とヒールが舗道の石畳を打つ。人通りも疎らといえど、時折道を行き交うのはベラトリックスにとって排斥すべきマグルたちだ。ああ、今すぐにでも殺してしまいたい。スカートの内側に仕込んだ杖を抜き放つことはいつでもできたが、戦端を開くには場所が悪すぎた。グリモールド・プレイス。なぜこんな場所に居を構えることを、過去に本家の当主は良しとしたのだろうか。
 ギィ、と音を立てて錆び付いた門扉が開いていく。小振りなトランクひとつだけを抱えた軽装で、かつてベラトリックスの夫になるはずだった男が姿を現した。彼がいつ生家を飛び出すかなどということを、疎遠になって久しいベラトリックスは知る由もなかった。この場所へと己を駆り立てたのは、何の根拠もないただの勘だ。取り返しのつかないほど遠くへと、ひとつの縁が失われようとしているのだと予感がした。
 そう、婚姻のさだめなど昔の、とうに過ぎ去り反故になった約束だ。
 シリウスが一族の慣例など余所にグリフィンドールへと組み分けられたその日、ふたりの婚約は破談となった。白紙に戻すには早すぎる、と皆が口々に言った。ベラトリックスもそのうちの一人だ。ひた隠しにしてきた家への反抗心をシリウスが顕にするようになっても、いつかは彼も目を覚ますから待ってほしいと声をあげつづけた。
 当然、願いが聞き入れられるはずもなく、代わりとしてあてがわれたロドルファス・レストレンジとの婚姻を拒否することなどできなかった。この上ない屈辱だ。認めることも、愛することも、執着することもできない凡庸な男に嫁ぐばかりか、ブラックの姓を捨てさせられるなど。
 ナイト・バスを呼ぼうとしたのだろう。杖を掲げようとしたシリウスと、ベラトリックスの視線が交錯する。こちらの姿を認めるなり心底嫌そうに顔を顰めたシリウスを引き留めるための言葉を、ベラトリックスはひとつも持ち合わせてはいない。
「……帰れなくなるわよ。本当に、もう二度と」
「俺には最初から帰る場所なんかじゃない」
 それでもぶつけずにはいられなくて音を紡げば、縋るような声音に成り果てた。吐き気がする。間髪入れずにもたらされた返答には懐柔される余地などない。憎しみだけがそこにある。
「当主の妻として君臨したいなら弟と結婚すればいいだろう。今からでも、かわいそうなロドルファスを袖にして。……いや、かわいそうなのはお前の方か? 憐れんでくれるだろうよ、レギュラスは俺と違って優しいからな」
 怜悧な瞳に侮蔑だけを込めて、シリウスは言い放った。
 酷薄に過ぎる微笑は彼の母親にそっくりだ。――シリウスにとっては、こうして行く手を阻もうとするベラトリックスが、ヴァルブルガと同じに思えてならないのだろう。
「かわい、そう……? わたし、わたしが、かわいそうだと言ったの、おまえ」
 突き付けられた刃に眩暈がする。かわいそう。遠巻きに事態を眺めるだけの、分家筋の親戚たちがひそひそと囁いていた言葉だった。次代当主の妻としての輝かしい未来から一転、ただ血統を繋ぐためだけに他家の男との結婚を余儀なくされたベラトリックスを憐れんで。
「自覚もないのか。いつまでも黴臭くて反吐の出る家訓に縛られたお人形は、お前の方だと言ってるんだ。かわいそうなベラトリックス。……なんだ。それともベラ、もしかして本当に俺が好きだった?」
「ッ……ふざけないで! 誰よりも憎いに決まってる、お前なんか……!」
 激情が迸るのは、その揶揄の半分は真実だったからだ。尤もそれは好きなどという生易しい感情ではない。夢見るように生半可で浮ついた恋情とは訳が違った。
 支配と被支配。純血の王たる一族の頂点で生き残るための序列、生殺与奪をシリウスになら明け渡してもいいと思えるほどベラトリックスはこの男を認めていたのだ。君臨するために選ばれ、祝福された存在なのだと。
 誰より強く在りたかったのに負けを認めた、その矜持をシリウスは裏切ったのだ。いつかは目を覚ましてくれると信じて待ち続けた、淡い期待も何もかもすべて。
「――は。奇遇だな、まったく同じ気持ちだよ」
 事も無げに、シリウスは同じだと口にする。
 同じ種類の憎悪と軽蔑だけがあるのだと、ベラトリックスの真実を知りもしないで背を向けた。
 バーン!と派手な音を響き渡らせながら、どこからともなく夜の騎士の名を冠したバスが姿を見せる。次に会えば殺し合うことになる従弟は一度として振り返ることなく、少ない荷物と共にバスへと乗り込んだ。
 明滅する光。出現と同じくらい唐突に夜の闇へと車体が掻き消えて尚、冷え切ったグレーの瞳の残像が憧憬を砕いていく。
 ――ふざけないで。
 繰り返した言葉は、精彩を欠いていた。
 ふざけないで、ふざけないで、ふざけないで――……! 一度として、わたしとおまえが同じであったことなどないというのに!
「……てやる」
 譫言のように弱々しく、ベラトリックスは呟いた。
「殺してやる……おまえだけは、絶対にわたしが……」
 左腕のしるしが熱を持っている。だれかが闇の印を打ち上げたのかと目を凝らしたが、遠見の術を視野に乗せて尚、ロンドンの上空には何も見当たらない。
 代わりに雨が降り出した。頬を濡らし、景色を滲ませる煩わしい雨だ。
「ベラ」
「……はい。我が君」
 いつからかベラトリックスの背後には、生涯を捧げると誓った男が立っていた。夫でも、たったいま切り捨てた従弟でもない唯一のひと。
 紅い瞳がギラリと煌めきを宿しているのだと、振り返らずとも察知できる。深き闇に帝王として君臨する男の、賢しらな蛇のようにうつくしいまなざしだ。冷え切った手で腰を抱かれ、ぐるりと転輪する視界と共に姿現しの魔法が行使される。ぐらつく脳で認識した移動先は、不本意ながら見慣れてしまったレストレンジ家の自室だった。
「お前は、誰のものだ」
 今のベラトリックスにとって、すべてであるべき至上のひとが問いかける。冷たく硬い指先が、かさついた唇と胸の形を生々しくなぞっていく。
「無論――あなたのものです、我が君。この命も、この体も、生涯のすべても……」
 するりと肩から滑り落ちていく服を、ベラトリックスは他人事のように見ていた。いったい彼ほどの人物が、どんな気まぐれを起こしたのか。それでも身に余る光栄だとベラトリックスは目を閉じる。女として求められることへのえもいわれぬ不快感は、気づかないふりをしてやり過ごした。
 これは栄誉だ。
 殉教であり、儀式でもある。まるでそんな俗世の情動とは無縁であるような至上のひとに、信頼の名のもとに選ばれたのだから――……。

 渇いた咳にベラトリックスは目を覚ました。
 すこしだけ喉がひりついている。
 怠い体を起こして浴びる陽の光のなかに、当然、褥を共にした男の姿はない。暗がりでしか触れ合えないひとだと、こうなる前から理解していた。そこに悲嘆などという感傷は介在しない。
 けれど失くしたものがある。埋められぬ穴が、存在の提議を乱している。
「どうして、わたしじゃだめだったの……」
 かつて繭の中から見上げた星の輝きに、もう届かないことを思い知った。寄る辺は何もなく、すべての糸が解け、剥がれ落ちていく。
 闇の内に咽ぶ心の底の底で、僅かな火を点していたのは、幼い頃から何の興味も価値も見出だせずにいた――人形のようにうつくしい妹の姿だけだった。