chapter:4/星の墓標
いずれ来る訣別を敏感に嗅ぎ取っていたのは、シリウスの方だったのかもしれない。
「ベラ姉様」
これは夢だ――夢だと理解しながら、ベラトリックスは遠い冬の日の窓辺に立っている。幼少のみぎりならば、シリウスはまだ可愛げがあった。当時から聡明さと狡猾さを兼ね備えてはいたものの、帰る場所を箱庭の外に見出し表立って反抗するような愚かな人間ではなかったから。
「なに」
「南へ渡る鳥が還らないことってあるのかな」
「……さあね。お前が知る必要のないことよ」
アルファードあたりから仕入れたのだろう知識の片鱗は、一族の“真っ当な”人間の逆鱗に触れるものかどうか。線引きを確かめるように、或いは知性のあり方を試すように、シリウスがベラトリックスに尋ねることは何度かあった。
まっさらな無垢さを装いながらも、ベラトリックスならば自分に手を上げることができないとわかって尋ねてくるのはさすがと言うほかにない。この家の序列というものをよく理解し、利用しているのだ。
「そんなことより、もっと楽しい話をしましょう」
「楽しいこと……姉様と僕が、いつか結婚する日のこととか? 何か僕にしてほしいことはある?」
己の容姿が人を惑わす類の魔性を孕んでいることも、年下の従弟は当然のように識っていた。愛らしい笑顔で小首を傾げてみせる姿にも、近しい人間ならば感じ取れる計算が透けて見えている。
生意気なことだ。それでも、“わたしたちだったわたし”を裏切らないのならば、永久に続く真綿のような安寧の中で共に在ってくれるのなら、ベラトリックスにとっては些事だった。外の世界へと憧れる愚かな考えも、いずれ彼ならば捨て去るだろうと信じていた。
「ばかね、そんなのは子どもが考えることじゃないわよ。でも、そうね。わたしの薬指を縛るというのなら……今よりずっと強くなって、わたしを完璧に支配してみせなさい」
そして、どうかこの繭の内で永遠でいさせて。
唇からこぼれ落ちた切なる願いを、慕情だなどと思いたくはなかった。そんな余分はベラトリックス・ブラックには必要ない。純血を統べる王の隣に、妻として君臨する女には。
「ああ……そうか、そうだよな。お前はそういう奴だった」
窓辺の景色がめまぐるしく移り変わる。幼き日のまぼろしは潰え、夥しい数の奇蹟の成れの果てを内包した魔法省神秘部の鈍色の床に、ベラトリックスは立っていた。
傍らに在った少年は青年へと姿を変え、杖を互いに向け対峙する。
「俺のことが好きだったろ、ベラ」
「ばか言わないで。ずっと……ずっと憎んでいたわ、お前だけを」
そのカタチのまま生まれて潰える奇蹟――幼い頃のシリウスは、少女だったベラトリックスの目にはそう映っていた。
目の前の男は、そんな久遠のうつくしさとは程遠い。ベラトリックスには到底理解できぬような、偽善的で惰弱な友誼に生きた男だ。何の栄誉ももたらさぬ友愛に、泥を啜って命まで捧げた意味とは何なのだろう。理解できるはずがない。理解したくもなかった。だというのに、摩耗しやつれ果て、呆気なく逝ってしまった最後の彼の方が、よほど深くベラトリックスの心に消えない爪痕を遺している。酷薄な笑みで敵対する者を嘲り、誰よりもブラック家らしかったくせにそのすべてをあっさりと捨てた、いつかの少年よりも、よほど。
あまりにも理解しがたい己の心情を認めたくなくて、指先が震えた。容易に杖を取り落とす。現実の戦場において、ベラトリックスが犯すはずもない失態だ。
「お前と心中するような趣味はないが、連れて行ってやれなくて悪かったと思っているよ」
「なによ、それ。どうしていまさら、わたしのことを……おまえが、」
杖はベラトリックスの手を離れたというのに、忘れ得ぬ終わりの日と同じくシリウスの胸に紅い閃光が突き立っている。憎悪のかたまりが痩せこけた体を跳ね上げる。
吹き抜けていく風が、白いベールをはためかせた。
触れれば容易に掻き消えてしまいそうな不確かな靄は、生者と死者を隔てる境界だ。
「もう喪うことでしか救われないだろう、お前。かわいそうなベラトリックス」
――欠けた夢を拭えずに、慟哭と共に目を覚ました。
喘鳴のように喉が掠れるのが煩わしい。荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回し、ようやくベラトリックスは目を覚ました場所が現在潜伏しているマルフォイ家の屋敷だと思い出した。
鈍痛を訴える下腹から脚。十余年ぶりに体を差し出した昨夜を反芻する。冷え切った手と舌が体中を這い回る感覚は、崇拝を以てしても誤魔化しきれぬほどの苦痛をベラトリックスに与えた。引き裂かれた魂を無理やりに繋ぎ合わせ作り上げた闇の帝王の体には、強大な魔法を澱みなく行使する力はあれど、子孫を残すための機能が欠落している。注がれることもなく一方的に暴かれるのは、ただただ虚しさが募るばかりだ。ベラトリックスが生涯を捧ぐと誓った男は、真実蛇のようなひとに成り果ててしまった。
コン、コンと扉をノックする音が五回響く。来訪者を報せるその音に、ベラトリックスは思索に溺れていた頭をのろのろと持ち上げた。もうずっと昔――ベラトリックスがヴォルデモート卿と初めて褥を共にした日、ナルシッサに告げた合図だ。
「シシー……?」
「ええ。わたしよ、姉さん。入ってもいいかしら」
「……勝手になさい。鍵はかけていないから」
軋む音を立てながら、木製の扉が開いていく。“こう”なったベラトリックスのことは心得ているとばかりに遠慮なく部屋に踏み入る妹の存在が、今はただ心強かった。
ぬるい体温に触れて、彼女の静謐な薫りが肺を満たす。
抱擁は毒のようにベラトリックスの知性を蝕み、同時に正気を取り戻させもした。
腕を回した背中のしなやかさは変わらないのに、勝ち戦といえども互いに消耗した体は少しばかり骨ばって、目元には皺が寄っている。
もう少女でいられた時代はとっくに終わっているのだ。そんなことはずいぶんと前から理解していたはずなのに、もっと早くからこのぬくもりに縋らなかったことをベラトリックスは少しだけ後悔した。
「ああ……はやく。はやく、シリウスを殺しに行かなきゃ……」
欠けた夢が記憶を混濁させている。
あまりにも呆気なく幕引きが訪れたから、杖を掲げるベラトリックスの手はいつだって血に飢えていた。もっと、凄惨で息の詰まるような終わりが欲しかった。
噴き上げる鮮血や抉り出す心臓、そういったあざやかで烈しい死に様を贈って永遠にしたかったのに、夢の中ですら運命はベラトリックスに味方しない。
「あの男は姉さんが殺したのよ。もう覚めない夢を見る必要もないわ」
「嘘よ……死体だってどこにもなかった」
「ベールの向こう側へ追いやってしまったのは姉さんでしょう。あの位相の境界を、生きて越えられる生き物などいないはずだわ」
「嘘……」
乖離した現実と理想の狭間に耽溺するベラトリックスを、ナルシッサは懇々と諭しつづけた。穏やかに言い聞かせ、優しく、残酷に事実を突きつける声は慈愛という名の毒で満たされている。
「わたしは……わたしたち、は。わたしたちに、帰りたいのよ……かえりたいだけなのに……」
胸を去った心臓の在り処を、ベラトリックスは知らない。或いは初めから、焦げ付くばかりの炉心の内は空洞だったのかもしれない。
誰も知り得るはずのない、六月の夜明けのことだった。